教え
 「時に国王有り、仏の一説法を聞きて、心に悦予を(いだ)き、(すなわ)ち無上正真意(*22)を発し、国を棄て王を()て、行じて沙門(しゃもん)()る。号して法蔵という。」(大無量寿経)
 法蔵菩薩
(*23)は師仏世自在王如来(*24)の前に、静かに長跪(ちょうき)合掌して、その説法を聞かれる。無上正真の道意に生きたまうがゆえである。
 超性無上の本願も、み(のり)をぬきにしてはありえない。仏の正覚もまたみ法をぬきにしてはありえない。
 法蔵菩薩は師仏の前に合掌して説法を聞き、心に悦予を懐き、無上正真の道意をおこしたまうと説かれる。仏汝のあるところ、そこには、必ず法蔵菩薩魂が動いている。真にみ法の聞信せられるところ、そこには必ず、法蔵の本願が廻向(えこう)顕現せられてある。
 信とは、固定化された心ではなくて、信心の満足を保ちつつ、限りなく大法に合掌する自覚である。

 (なんじ)の一生を教えの中にひたらせよ。
 汝自身を教えの中にあらしめよ。
 汝のすべてが教えの中に生かされる時、生きることの無意味の嘆息におさらばするであろう。

 教法なき生活は、荒涼たる廃虚に等しい。
 教法のない限り、人の生活はただ五欲煩悩
(*25)の満足にすぎなくなる。
 「あなたの生活はあまりにそうぞうしい。そうした享楽生活よりも、静かにみ法を聞こうではありませんか。」
 「あほらしい。ばかくさい。」
 何の苦もなく、恵まれすぎたあなた、美しい衣装と、ぜいたくな食事と、金のかかったあそび道具、そうしたものに埋まったお嬢様、だがその身辺の何物から、そして、毎日毎日の生存のどこから、永遠なるもの、尊厳なるもの、徳、光等々の世界に通ずるものが生まれて来るのか。
 人間的享楽のみが、その生活の中心となる時、およそ、み法に耳をかたむけることなどはばかくさくなる。私は今、み法を聞くことなどははかくさく、映画やナンセンス雑誌や、三味やお琴や、ピアノやなどにのみ魂を打ち込んでばかくさくない、幸福にして、空虚なるお嬢様方の幸福の不幸を思わざるをえない。
 ああ。精神的廃虚に踊る高等なる動物の現突、そこに真のおちつきと喜びがあるだろうか。

 一切の人間的幸福を排撃するのではない。
 しかし人間生活は、高き教法によって統一されるべきである。
 如来の教法によって統一された時、順境に食欲のとりことなり、逆境に悲観、自暴自棄の幽霊となる自己を凝視し、慚愧(ざんき)し感謝して、水火二河
(*26)から救われるであろう。
 謙虚に仏の教法の前に合掌すれば、教えは必ず教えを聞く耳をつけ、恭敬(くぎょう)して仏の教法に耳をすます時、教法は必ず汝の胸中に大信を成就する。
 合掌歓喜して仏の教法に信順する時、教法は必ず、汝の上に念仏真実の生活を成就する。
 念仏生活しつつ、仏の教法を愛楽(あいぎょう)する時、教法は必ず汝の上に、柔和(にゅうわ)忍辱(にんにく)の道味を顕現するであろう。

 念仏しつつもなお、その不平愚痴をその善知識
(*27)に訴えて、慰撫(いぶ)されんとするがごときは、いまだ教法に徹せざるものである。
 念仏しつつもなお、他人との忿怨(ふんえん)を、その善知識に訴えて、ひそかに善知識をわが主張に賛同せしめて、その味方とせんとするがごときは、法の尊厳を志れて、故によって煩悩の立場を求めんとする我慢である。大法いまだこの人のものにあらず。
 念仏しつつもなお、身の不幸を嘆じて、その知識に本尊に、同情を求むるがごときは、大法を忘れたるものである。
 如来は常に現在に説法獅子吼(ししく)したまうとともに、永遠の沈黙者である。
 大法は一大事因縁なり。唯一絶対の事案なり。
 異に大法に(もうあ)う者は、本質的不幸を永遠に捨てたるものである。

 世自在王如来は、法蔵菩薩に「(にょ)自当知(じとうち)--(なんじ)自ら(まさ)に知るべし」とのたまわせたまう。
 大法はただこれを領解(りょうげ)すべし、大地業報の経緯は、ただこれを慚愧すべし。
 如来は念仏の人をのみ摂取したまう。
 その本願以外に、仏と衆生とを一如一体ならしむる何ものもない。
 善導大師(いわ)
 「一に親縁を明せば、衆生、行を起し口常に仏を称すれば、仏すなわちこれを聞きたまう。身常に仏を礼敬すれば、仏すなわちこれを見たまう。心常に仏を念ずれば、仏すなわちこれを知りたまう。衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまう。彼此三業相い捨離せざるが故に親縁と名づくなり。」
 如来と衆生との親縁は、如来の発願廻向によって、衆生の三業の上に如来本願の表現せられることによってのみ成就するのである。念仏の衆生の摂取せられることを明らかにせられたものである。

 汝、懈怠(けだい)を感ずる日
 教主聖人の精進を観ずべし。
 汝、人生の苦しさに悩む日
 教主聖人の苦闘を(おも)うべし。
 汝、逆境に悲しむ日
 教主聖人の流離寂寥(せきりょう)を想うべし。
 汝、世の無理解に涙する日
 教主聖人の無実の配流(はいる)を想うべし。
 汝、努力に報いられざる時
 教主聖人の貧しき一生を想うべし。
 汝、汝の罪業に泣く日
 教主聖人の前にいっさいを慚愧して悪人正機のみ教えに更生すべし。
 汝、人に瞋恨(しんこん)せらるる日
 教主聖人の忍従の一生を想うべし。
 汝、憍慢(きょうまん)を観ずる時
 教主聖人の愚禿(ぐとく)名告(なのり)を拝すべし。
 汝、順境に立てる日
 教主聖人の御苦労を憶念すべし。
 汝、生の歓喜を得たる日
 教主聖人と同一国土に生まれてその教えを聞くを得たる宿善を感謝すべし。

 今これを書いている時、電報、
 「キクケサ五ヂシスアスマイソウスカタヤマ」
 片山キク!島根県吉田町の片山の奥さんが死んだのか。片山くに、片山きく、越堂君と語る、矢張り若奥さんだ。ああ。御主人、かわいい盛りの嬢ちゃんたち、くに法姉等々の悲しみの顔が見える。御一家の御悲歎が思われる。年は三十五六のはずだ。益田支部の中堅また一人彼岸に飛ぶ、悲しき日である。たったこの間、福山の準ちゃんをうしなったはかりだのに。ただ、愕然(がくぜん)、念仏、謹んで弔意を表す。(七月十六日午前十時)

 「今日も人の死ぬる日にて(そうろう)
 無常迅速、誰も彼も皆一度はその身になるのだ。
 善導大師
(*28)往生礼讃(らいさん)(*29)に言わく、
 「人生不精進  人生まれて精進せずば
  喩若樹無根  (たと)えば樹の根無きがごとし
  採華置日中  華を採りて日中に置けば
  能得幾時鮮  ()く幾時か(あざや)かなるを得ん。
  人命亦如是  人の命(また)かくのごとし
  無常須兒間  無常須兒(しゅゆ)の間なり
  勧諸行道衆  (もろもろ)の行道衆に勧む
  勤修乃至真  勤修(ごんしゅう)して真に至れ。」

 同胞よ。大師の厳誡(げんかい)を身にしめて、念仏一道に精進しょう。
 人生は教えである。すべての人は教えるとともに習う。すべての人が教師であるとともに彼教育者である。
 親鸞聖人は、経を、権仮と真実とに分類せられたが、権仮以前に虚偽の教えがある。虚偽と、権仮(ごんけ)
(*30)と、真実、この三種の教えが入り乱れて人生を形造っている。
 虚偽の教えを捨てて、権仮の世界に入ることすら容易ではない。ましてや、真実のみ教えを聞くことはきわめて難事である。
 人は受けた教えだけしか(おのれ)の生活を成就することはできない。信じられる教えだけがその人の生活となる。ゆえに、真実の教えを聞きえた者は青ばねばならない。

 今の時代でも、宗教などの必要があるものか、という人がある。そうまで言わなくても、あまり関心を持たずに過ぎてゆくのが大部分であるかも知れない。
 時に宗教はなくても、生きてゆけるであろう。物質的にも、精神的にもあまりに困らず、人間生活の楽しさを享受してゆけるがゆえである。それゆえに宗教はいらぬと言い張る我利的な人には沈黙するより外ないかも知れぬ。しかし宗教とは、人生及び自己の本質に触れたる教えである。たとえ多くの場合宗教が、人間苦の体験によって求め始められるにしても、苦悩が一時的に解消された時、宗教もまた不必要になると言った人は、いまだ、宗たる教え即ち生命としての宗教の本質に徹したのではない。其の宗教は、人格の根本的自覚であり、人間生活の本質的解決であり、その高き指導原理の提示である。
 大無量寿経
(*31)の宗教は、人間のいっさい功利的な不純心を全否定して純粋真実な信心を成就する唯一の教えである。
 教えが人の心を養い育てて、向上せしめるのではある。しかしその精神生活の程度が、教えを受取り承認するのでもあるがゆえに、浅い心には、深い教えは領解されない。であるから一度衆生の機が一所にとどまり、我こそ教えを左右せんとして、教えを受入れないならば、生活の向上はありえない、ゆえに真実の教えは、必ず、眼を内面に転ぜしめて限りなく衆生の機を深信せしめて、教えをさえぎり妨げる一切を断滅して、無条件に信順せしめるのである。
 多くの場合、人が教えを受取るのであり、人が教えを信ずるのではあるが、しかし真に教えがその人に生きた時は、教えは人よりも高次的位置に立ち、教えこそ人を招喚し、教えこそ絶対無条件に人に君臨してその人を動ずるのである。
 その時大法は、いっさいの煩悩生活を止揚し統一して、五欲によって法を曲げることを許さない。聖人の信心の世界がそこにあった。
 「親鸞におきてはただ、念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せを(こうむ)りて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。念仏はまことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また、地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとい法然上人にすかされまいらせて地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず(そうろう)。」
 そこには、教えの前に絶対信順せる者の謙虚と、金剛不壊の一道とが光っている。
 しかしそれは決して、世のいわゆる、盲信または狂信ではない。真実の教えは、必ず人の内に教えに対する価値批判の眼をつけ、真実なるものを真実なりと信知せしめる。真実の教えは、必ず人の内面に自覚を成就し、自証の知恵を顕現して、おのれ自体の真相を信知せしめる。「いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。」との深き自証においてのみ、念仏の法は、無条件に祖聖を動かしたのである。

 聖者か悪逆かその差はただ、教えが生きるか否かによるのである。
 聖者必ずしも煩悩が弱いのではない。悪者必ずしも煩悩罪業が重いのではない。聖者必ずしも完全無欠であるのではない。聖者たるゆえんはただ、かかって、絶対唯一の高き真実教を求めて、教えの前に絶対無条件に合掌したことにある。見よ「愚禿(ぐとく)が心は内は愚にして外は賢なり。」法然上人の、いわゆる、外智内愚、外是賢内即愚、外はこれ善、内は即ち悪、内虚外実、内仮外真の凡夫とは我がことであるとの自証に生きつつも、万世にわたる聖人ではないか。
 人間の全体が大法に直接に親切せず、そこに微塵でも、我をもって教えをもてあそべば、聖人の信現に同一なることはできない。したがって、そのままである限り、教法と水油相反したる、抽象的な一肉塊を抱いて、生活の無意味に灰色な倦怠(けんたい)をおぼえ、あるいはより深き、堕落へと進むであろう。
 されば、われらは一生をかけて、教えに信順して、聖人の生きたまうがごとく、全我を挙げて教え中心の生活を成就しなくてはならない。
 真のよろこびも、力も、意義も、かかってそこにのみありうる。そうして教えを代表して我に向かいたまうは、教主善知識なるがゆえに、善知識の前に無条件に合掌して歩まなくてはならない。
 親鸞聖人を憶念する時、必ずいかなるいきづまりも開いて、白道上に更生せしめられる幸福を合掌感謝せずにはいられない。



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