生きねばならぬと言う人に
 「愛の信仰のと言う前に私は生きねばなりませぬ………。」
 「私の願いをつきつめたら、結局生きねばならぬということでした………。」
 「論より証拠、人たちをごらんなさい。生きるためにのみ働いているではありませんか。」
 そう言いなさるのも無理はない。私はこの問題に対して答える前に、ほんとに真剣な態度で人生を見つめる者の是非行きあたらねばならぬ問題として尊い同情を捧げます。
 生きねばならぬ。何というはっきりした、そして力強い悲痛な声でしょう。
 大地の上に両足をふみはって、目を地上にそそぐ時、生きねばならぬという悲痛の願いが噴水のように湧きあげてきます。けれど私たちは、もう一度深く考えをめぐらさなければなりません。 いったい生きんとして生きる者に、生きえなかった者がありましょうか。そしてまた、生き通されたものがあったでしょうか。言いかえると、生きたくないと言っても生きねばならぬ。生きたいと言っても死なねばならぬ。それが生きるということの意義ではないか。
 だとすればただ生きねばならぬということは問題ではないのです。その上に、
 「いかに
 そうです、「いかに生きるか」、それがほんとの問題ではないのでしょうか。
 真実に生きねばならぬ。
 美しく生きねばならぬ。
 尊く生きねばならぬ。
 豊かに生きねばならぬ。
 生きねばならぬだけならどんなに人生はなまけたものになるでしょう。
 生きねばならぬだけなら、私は私の母が餓死しそうな時すらほっておきます。私は生きているからです。けれど、餓死する母を見ていられないで、私の汗をもって得た食物を半ばわけてあたえるのは、「愛に」生きねばおれぬ私の心があるからでありますまいか。人生の妙味はここから湧くのではありますまいか。
 人の貧しさも、ただ貧しさのみなら苦痛ではないのだ。貧しさと愛と、からまるところに孝子生まれ、貞婦で、忠僕を奮起させるのである。
 富かに生きたい。それが人間の最初の問題であった。美しい家に、美しい衣服をつけて、おいしい食物を食べて生きたい。そしてそれが今まで大部分の人間の働く根本問題である。この問題も、最初は、生きることが中心で、物質はその家来であった。けれど人間は長い間に、魂を物質の家来にしてしまった。
 物を得んために五十年を費やして、何も持たないで墓にいった。
 見よ。現在世界あげて風靡ふうびせんとする社会主義的思想は、世界の富をいかに個人に分かつべきかということにすぎぬではないか。けれどもっと深く考えた時、無限の欲望をもつ人間の生活に、ある一定の物質財産をもたらしただけで有難いと満足するだろうか。美しい西洋館に住み、食うに山海の珍味をもってしたら、もう問題は起こらぬだろうか。
 さめた魂はそれだけではきかぬ。
 人間の魂はそれではきかぬ。
 もしゆたかに暮せばいいだけなら、それだけなら、私はいかにしても、どんなむごたらしい目に他人をあわせても富を積む。勉強もいらぬ。道もいらぬ。金色夜叉こんじきやしゃとなって生きる。けれども世界が生んだ最も覚った人たちは、財産すら破れ草履(ぞうり)のごとく捨ててしまった。
 私たちはもっと深く求めねばならぬ。人間の魂が若々しいだけ、善を好んで悪をいとう。
 真実に生きたい。善人として生きたい。この願いのない人間はあるまい。より真実の世界に、より清い生活にという願いは、どんなに消そうとしてもかきけすことはできぬ。
 真実に生きるためには、好んで貧しくさえ暮らした、否、真実のためには生きねばならぬ生命さえ捨ててかかつた。人類の長い歴史はそうした真実への生きかたについての問題を追ってきたのだ。こうなってきた時、生きねばならぬという問題は、
 いかに真実に生きるか。
という問題にかわってきた。
 私はむつかしい認識論的議論を省いて、私の達した結論に進みます。
 「私たちは愛に生きねばならぬ。」
 それはキリスト、釈迦、孔子、その他の聖者がこの地上から消えない限り、私たちに必然に残された真理であります。そして私の心の衷心の願いをつきつめた時、明らかに達しうる断案であります。
 最後に残る問題は、私たちはこの切なる願いをいだきながら、世界人類、禽獣草木、国土、一切をわが子のごとく愛しえない悲しみであります。何ゆえに「三界はわが子なり」というように愛しえないか。
 そうしてまた、私たちはこの切なる願いを抱きながら、何ゆえに間もないうちに死なねばならぬか。
 この二つの問題に答えるには人間の智恵はあまりに小さいのであります。死がある以上、問題は未解決のまま残ります。私たちは、現世ばかりでは一切の問題に指一本ふれることはできなくなりました。
 何ゆえに、悪人でも栄えるか。
 何ゆえに、聖者さえ血を流さねばならぬか。
 何ゆえに、善を求める心があり、愛せんとする切ない念願に生ききれぬか。
 何ゆえに、地上ではものの生命をとらねば生きられぬか。
 何ゆえに、男女の欲があるか、性交によって生まれねばならぬか。
 死後の私たちはどうなるか。
 この切ない願いを完成することはできぬか。
 まだまだたくさん問題がある。そうしたことの解決がなければ、生きていることのできぬもの、いかに生きねばならぬかの最後の解決のなくてはならぬものには、ここに新しい無限の世界が与えられる。これがすなわち、光明の世界である。一人の信仰はこうして生まれる。
 若い真面目(まじめ)な真剣なこの問いを出された青年に、この一編を送って、深い世界へ入って永遠の自分を見出されることを念じます。



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