住岡夜晃選集(第三巻) 『不退転の歩み』
   

 


智  慧 (宿業の内観)

 一文不知の老婆でも智慧のある人があるし、大学を出た人でも智慧のない人がある。大学の先生をしている人が、迷信にとりつかれて、子供の病気を神様に祈ってなおしてもらおうとしたり、世にもばかげた生神様にとりつかれたりするのは、みな知識があっても、智慧がないからである。一文不知の老婆でも、天を拝せず、鬼神を祭らず、現世を祈らず、ゆうゆう業苦を背負うて、悲観せず、自暴自棄せず、一道を執持してたじろがない智慧者もいる。
 現代は最も智慧に欠けた時代である。したがって最も智慧を要する時代である。現代人は、悪を行ずるに大胆である。これは智慧を欠いているのである。我の主張に大胆である。智慧を失っているのである。
 仏教の中でもいわゆる聖道門は、智慧にはじまって慈悲に至らんとするのであり、浄土門は、慈悲によって救われて智慧に至るのである。大慈悲に摂取されて信心の眼を開かれる。信心の眼は智慧の眼である。
 和讃にいわく、「智慧の念仏うることは、法蔵願力のなせるなり、信心の智慧なかりせば、いかでか涅槃をさとらまし」と。
 智慧の念仏といい、信心の智慧といわれる。老婆といえども、真に念仏の人となれば智慧の人であること、われらの常に敬服するところである。彼は信心の智慧を得た人なるがゆえである。
 聖人は御本典の総序において、「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽(しんぎょう)は、疑いを除きさとりを得しむる真理なり」と仰せられた。円融至徳の嘉号とは、仏の名号のことである。これを承ると、正智と真理が入れかえてあるような気がする。すなわち、名号六字が真理であり、他力の信心は正智であっていいようである。それを今どうして逆にせられたのであろうか。
 これについてまず知らなければならぬことがある。一には他力の信心とは、名号の真実功徳を機に受領したのが信心であって、名号の他には信心の体はないということ。二には、智慧は真理に属するということ。智慧の所有者は、真理そのものであること、光の所有者が太陽であるのと同一である。智慧は真理なるものに属するのであるから、智慧と真理とは同一者である。三には、それであるから名号を正智といい、信心を真理といってもいいことがわかる。何となれば、名号は慧日そのものである。智慧光それ自体である。智慧を光明といわれるのは、智慧は照らすものということである。われわれは、自ら他を照らすものではなくて、照らされて光るものなのである。だから如来の智慧に曇りなく照らし出されて生きるということが、人間精一ぱいの生き方である。智慧は照らす。大悲無倦(むけん)常照我と照らす。しかし光線の照らすのは、物理的な照破であるが、智慧光の照破は物理的なものではなくて精神的なものであり、人格的なものであり、価値的なものである。したがって照らされるということは、一つの転廻を意味し、転入を意味し、帰入を意味し、価値的選択を意味し、機の深信とて自己の発見を意味し、智慧の獲得を意味し、自覚を意味する。したがって、意識的に無意識的にこれを拒否し、真実の教法を受け入れず、我執をもって自ら眼をおおうなれば認めることのできないのが智慧である。
 信心は名号を機に受け取った心である。であるから、名号と信心とはその体は一つである。名号は、真理でありまた智慧である。したがって信心も智慧であり真理である。今は名号を正智といわれたから、信心を真理といわれたのである。名号が真理であるといわれるのは、真如法性の道理で具体化されたのが名号だからであり、正智といわれるのは、正智とは能照の智であって真如法性(ほっしょう)を照らし出すところの正智なるがゆえである。その名号をそのまま受け取った信心もまた、真理をはらごもりしたものであるから大信心を真理といわれ、また仏智を受領したものであるから信心の智慧といわれるのである。いずれにしても、かくのごとくして、一文不知の人でも信心決定する人は真理と正智の具体的存在である。照らされるとは得ることである。

 智慧は観念ではない。色心不二(体と心)の生活である。智慧が心にあると信心または安心といい、体に生きるを行という。安心起行は、全我に仏智名号の生きたまう具体相である。
 何がゆえに、仏教のほとんどが現代人から捨てられたのであるか。答えは簡単である。頭の仏教となって、具体的な生活事実となっていないがゆえである。智慧の仏教が、観念の遊戯となり、人生の具体的な生活を率いる智慧の宗教ではなくなったからである。その罪は教役者にある。徳川の政策に利用せられて、自ら封建性そのものになりきって、信があろうがあるまいが御院家様(ごいんげさま)と奉られ、常に大衆の上に威勢を行じいばることを知って、大地にひれ伏して正法を聞信することを第一義とせず、祖師のごとく、蓮如のごとく、わらじばきで自行化他のために奔走せず、一にも物、二にも物、最も精神的であるべきものが全く唯物化されたがためである。
 一言にして尽きる、「智慧が欠けていたのである」。正法の命ずるところ、祖訓の戒めたまうところの数々を無視していたのである。ご冥見を恥じず、ご冥慮をおそれず、ご冥加を喜ばす、ただ名利の失われることのみを恐れて、正しい批判を受け取らず、忠言に耳をおおい、今日一日の安逸を求めて精進しなかったのである。世に滅びるものは皆かくのごとくである。
 しかし今からでもいい。目をさまして精進しょう。一人自覚して正法の命ずるままに精進するならば、その人を中心に必ず正法は興隆するであろう。たとい、迫害非難攻撃山のごとく至るも何ら恐るるにはあたらない。それよりもなお、真におそるべきもののあることがわかるならば、大事は小事となり、小事が大事となる。これすなわち智慧のはたらきである。火という文字が恐しいのではない。火のはたらきが恐しいのである。

 愚禿親鸞は仏智の照破によって生まれたのである。地獄一定(いちじょう)は聖人のご自証、ひれ伏したまう自証の大地である。これ皆仏智光明の照破によって、内観の極、見出されたる、無明流転の真相であるとともに、一切群生の内的運命の発見である。しかるにそこに発見せられるものは、単なる悪でもなく善でもなく、久遠(くおん)劫未の業苦に外ならない。見出されるものは宿業である。善というも宿業であり悪というも宿業である。「兎の毛羊の毛のさきにいるちりばかりも、造る罪の宿業にあらずということなし」いっさいは宿業から生まれる。宿業は個性である。宿業はこれをいかんともすることのできない不思議な力である。
 仏智の照らし出すものは、この宿業の相である。照らし出すものが仏智であるがゆえに、救いたまうものも仏智である。誠に仏の大悲光明の救いたまうものは宿業である。惑業苦である。私を苦しめ悩ましているものは私の宿業である。民族を苦しめているものは民族の宿業である。仏智の白熱したまうところは、この宿業である。四十八願の生起する現実の根拠は宿業である。浄土の大荘厳のすべては願心荘厳といわれる。その願心とは、私の宿業のすべてをつつみきったる無限なる者の自己形成の相にほかならぬ。かくして内外明闇の具体相を生み出しつつ、それを受け取っているものは、わが宿業である。
 ここにおいて宿業を知らざるものは、如来を知らず、如来を知らざるものは宿業を知らない。宿業を深信諦観するものは、智慧である。誠に仏智である。

 しかるに世の人が言うであろう。「そのようにすべてが業だ、宿業だといっていたのでは、いっさいがあきらめ主義になって、消極的で元気がなくなってしまいはせぬか。そんな考え方ではものが発展しない。第一青年にはむかないことではないか。」と。
 それは頭で考えた宿業の話のことである。今言っているのは、そんな観念的な思想思弁ではなくて、全我的自覚の智慧の内的光景である。「君に問うが、君が今男性であることは絶対的なことで、君の意志以外のことではないか。」「それはそうだ」一番人生生活の基本となる性別がすでに君の意志決定以外なことだ。君が消極的になろうが、積極的になろうが、君はやっぱり男性である。君の身長五尺四寸、それも君の意志が決定したことではない。太ったところで三十貫にはなれず、やせたところで五貫目にはならない。そのほか数えあげたら際限がない。みんな君自身の宿業の所産である。精出してやればやるだけ宿業がでてくるのである。修養の本家本元の孔子様さえ、上智と下愚は移らずと言ったそうだ。頭がいいのも宿業、頭の悪いのも宿業、これをどうすることもできない。だから学ばせるということも、宿業個性を明らかにすることだ。
 人間、頭でなら「千貫の石を持ちあげて」と考えることができる。しかし具体的には十貫の石があがるにすぎない。頭で考えたら、自由自由と何でもできそうだが、「かには横、蛇はくにゃくにゃ、尺取りは尺を取るこそ宿業(さだめ)なりけり」で、本気でやれはやるだけ宿業が出る。わかったか。

 かくて信心の智慧は宿業を内観する。
 それゆえに、すべての責任を自己においてみる。天の曇るも、地の動くも、生きるも死ぬるも、自らの宿業によって受くべきを受け取っていることを知る。それだから彼は現実人生に随順する。随順するがゆえに、現実人生を超越して、無碍道を生きる。「念仏者は無碍の一道なり」である。「罪悪も業報を感ずることあたわず」である。不思議ではないか、宿業の体感者は業報を感じないのである。これしかしながら智慧によるのである。頭で考えた宿業は、宿作外道のごとくになるのであろう。真実仏道における宿業の内観は、宿業より解放して無碍自在の生活を感ずるのである。宿業を内観して念仏するものは宿業を横超する、宿業を超えることによって、宿業になりきる。男は男に、女は女に、愚者は愚に、悪人は悪に、私は私になりきる。火は火をやかず、氷は水を苦しめず、煩悩、煩悩になりきれば、煩悩は私を苦しめない。皆仏智によって成ずる横超の道味である。

 魔界外道がとりつくのは、宿業を知らず、仏智を持たぬがゆえである。病人ができると、やれ生霊(いきりょう)がついたのだとか、真の向きが悪いとか、家の窓の方角が悪いとか、何とかかんとか言われるとすぐにふらふらする、そこへ外道がとりつく。その心が迷いはじめると、何でもそう見える。その迷心の拝むものは、名は神であろうと仏であろうと、薬師であろうと、皆いっさいがっさい魔界外道である。決してほんとうの仏でも菩薩でもない。
 宿業の諦観深信者は、何を開いてもびくつかない。迷わない。我を苦しめるものは我であり、我を悩ますものも我である。逃げてもかくれても、宿業ならば、のがれることはできない。もし宿業がないならば、九百九十九人は死んでもわれ一人は残るであろう。合掌して受け取るであろう、わが宿業を。そこには、悪魔も外道もつけこむ余地がない。病む日には病め、死ぬる日には死ね、仏智は、ほんとうに私を死なせて下さる。それだから生きる日には、ほんとうに生きさせて下さる。

 夏の庭を見ると、ダリヤは紅色に、百合(ゆり)は白く、マクノウチは淡紫に、ザクロは赤く、金魚草は黄に、それぞれの色に美しく咲いている。それこそ「青色(しょうしき)青光(しょうこう) 黄色黄光 赤色(しゃくしき)赤光(しゃっこう) 白色(びゃくしき)白光(びゃっこう)」である。青黄赤白は宿業個性、それが平等なるいのちによって各々の個性のままに光っている。
 念仏の世界もまたかくのごとしである。宿業によって各々皆差別しつつ、平等一味の大慈悲のいのち、智慧の光に生かされてゆくのである。宿業を無視して平等を成就しようとすれば、悪平等となって混乱がおこり、平等の世界に帰入して一味に生かされる天地がなければ、悪差別となって無理がおこる。宿業を無視して、形を平等にしようとするところに暴圧がある。平等即差別、差別即平等、誰も彼もあるがままをのばしきって、しかも平等の願力に生かされる、かかる具体的な人間生活がそのまま宗教である。
 信心の智慧のみが、宿業を内観し、それゆえに自力作善の心をすてて、仏願力に帰入し、平等なる大悲に摂取せられて、念仏に生きるのである。かくして念仏の人は、大悲の御はからいにすべてを託する、しかるに念仏の人は、すべてを宿業の出てくるがままに生きる。自らの一生が、名もない道ばたの小草一本であろうと、深山の奥の桜であろうと、自分自身の内より出てくるままに、楽しみも苦しみもすなおに受けつつ宿業のままに生きてゆく、そしてそれがまたそのまま如来の智慧にはからわれて生かされる。宿業のままにとほ自力の捨たったことであり、み光のままにとは他力の御はからいに生かされることである。この二つの完全な一致こそ信心の智慧の自証である。これを二種深信というのである。これを「仏の正道に安立する」というのである。


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