住岡夜晃選集(第4巻) 『女性の幸福』
             

 


悩み多い在家の上に

 在家の生活態度は、悩みの多い罪深いものであります。
 昨夜夕食後、裏の家では、ひどい家内げんかがはじまって、食器の飛ぶ音、こわれる音、泣き声、どなる声があさましく聞こえてきました。
 こうしたことは時々、一家を襲うてくる悲しいいやな地獄の様相であります。
 女はよく腹を立てるものであります。男は腹を立ててもあっさりしていますが、女の瞋恚(しんい)執拗(しつよう)で、蛇のような毒々しさが、家内の者を傷つけずにはおきません。こうした女が家庭の中にはあるものであります。それだけ家庭は罪深いものになるのでありましょう。御文章の中で、蓮如様が思いきった断定を下していられるのが少々味わえる気がします。上人は特にたびたび奥方をお迎え遊ばして、お子様方もかなりたくさんあったようですから、特に家庭苦については深い体験をなさったのではありますまいか。近ごろ一家内、皆いっしょに住まうようになって、今まで知らなかった戦いを自分の内に続けて行かねばならぬことを知って、人生苦悩の深さを一層味あわせていただきます。
 私は腹のよく立つ性格でありました。けれども、私は瞋恚の炎に焼かれている自分を、正しい冷たい智慧をもって見た時に、たいへんにあさましいのにあきれてからは、腹が立った時にはすぐ自分にかえって、自分の叡智(えいち)
(※55)の光で笑ってやることにいたしました。「何だばかばかしい。何に腹が立つのだ。そんなつまらぬお前か。」と自分を自分で批判する時、冷水を頭からかけるように、瞋恚の炎は消えてゆきます。近ごろめったに腹が立たなくなって楽になりました。

 腹が立った時には、女はたいてい、食事をとらないものであります。地獄の炎を食っているので、飯も炎になって食えないのでしょう。
 男は腹が立つと、自暴酒(やけざけ)を飲んだり、茶瓶(ちゃびん)を投げたり、口やかましくどなったり、女をぶったり蹴ったりするものであります。短気は損気と申しますが、六尺大の男が自分の感情を自分でどうすることもできないとは、あさましい愚かなことであります。
 腹が立つとものを言わないで、ふとんをかぶって寝て、二日も三日も起きない人があります。怒った時にはその一念に、体中の白血球が六万個もこわれて毒になってしまいます。その毒は血液にすいとられて肺臓に送られ、呼吸となって出て行きます。その毒を一時間とって集めると、その毒で八十人の人を殺しうるそうであります。瞋恚や嫉妬に魂も体も焦がしながら、だまってふとんの下で寝ておれば、その毒が盛んに寝床から空中に逃げていることでしょう。み仏からご覧になれば、あさましい姿に見えることでしょう。毒をふく大蛇か魔のように。

 世の中で起こるきたない醜い事件は、たいていこの腹立ち心からではありますまいか。世間に出ては遠慮したり我慢したりした感情を、家庭ではだれはばからず出して平気であります。弱い人間どもは自分の内で瞋恚の炎を消しえないで、周囲をいっしょに傷つけないではいられないのであります。そうして激した情を外に出してしまえば、案外楽になれるものであります。こうした意味で家庭はきたない感情の捨て場でもあるのです。人間の赤裸々な偽らぬ生活であります。それだけ家庭生活は罪深いものであります。
 腹があまり立たなくなりますと、自分の瞋恚の炎で自分が苦しむことは少ないかわりに、他の者が露骨に瞋恚の心をさらけ出すと、そのために苦しまされることが多いのであります。菩薩の「衆生病むがゆえにわれ病む」という言葉が味わえると思います。腹立ち易い毒や、母や弟などを持った、忍耐強い御主人たちには、そうした御実感があることだろうと存じます。

 家族が二人おれば二人の総合苦が生まれます。五人おれば五人の総合苦ができます。奥様が冷たい情をもってお暮らしなさる日には、小さい子供までその苦を分けていただかねばなりませぬ。
 それぞれの家族がそれに苦しんで行くのを、さめきった一人が自分の苦として苦しんで行くことは尊いことであります。どこの家庭でも、家内が瞋恚の炎に焼かれている時には冷たい氷になり、冷たい心に泣いている時には、こたつになり、浮かれている者には気もひきしまる秋風のように、魂のとびらを閉じようとするものには暖かい春風のようになって、さめて生きている方があるものです。そうした方こそ、魂の底ではいちばん苦しまねばならぬ方であります。けれどもそうした苦悩は尊い菩薩の苦悩であります。

 人の魂に痛手を負わす白刃は、愚痴から出る言葉であります。ある意味において、腹立ちよりも私は愚痴がいやであります。人間が過去に生きるようになりますと愚痴っぽくなります。若い人は過去を見て暮らすには、あまりに美しい虹のような未来をもっています。しかし年老(としと)ってきますと、過去にばかり頭がむいてきます。そうして再びかえってもこない過去の「恨めしさ」「悲しさ」「悪さ」「残念さ」を今さらのように取り出しては、われとわが魂を苦しめているのが愚痴であります。私も時々愚痴が出ます。「やめた!」と私が、われとわが身に言っていることがあります。その時は、私が愚痴と戦っている時であります。一口の愚痴は周囲の者の胸にメスをあてるからであります。とりかえしのつかね過去のことを言ったって、どうにもなるものではありません。
 女は年老(としと)ると特に愚痴深いものであります。古い古い昔のことを出して言っては、夫の心に生傷を造ります。
 年老いても魂の若い人があります。常にいきいきとした魂の声をきいている人は、愚痴から遠ざかります。若い人でも魂に永遠の青春(わかさ)が輝いていない人は、昨日を泣き昨年を恨み、十年前を考えて悲しんでいます。念仏の子はこの硬化しそうな魂と戦って、常に若々しく努力精進して、光のある生活を恵まれています。この身このまんまと坐りこんだ同行は、この若々しさを失っています。
 癇癪(かんしゃく)や愚痴はだれでも出るのであります。けれども、腹の立った時、泣く涙に二通りあると存じます。自分で自分を救いえない者は「どうしてこの恨みを晴らそうか。こうしてやろう。残念なことをした。」と、より深い苦悩に自分を落としています。そうして感情は静まっても、後には深い恨み、愚痴が残ります。
 どんな時にもすぐ自分の本心にかえる人があります。そうして、激発した醜悪な感情と戦って自分に勝つ人であります。自分をちっとでも高めようとする人は自分と戦います。瞋恚の炎に焼かれている悪深い自分をみ光の前になげ目して、み仏を苦しめ奉るあさましい自分を懺悔し、このような機までを救いたまうた、大悲の御恩の深さを感謝いたします。ともすれば自分の本心を忘れようとする私どもを、常に、鋭い智慧光によりて照らして、あさましさを知らせて下さるところに、仏恩の深さがあるのでございましょう。

 仲の悪い嫁としゅとめとが説教を聞きに行きました。講師は信後の生活、真俗二諦の宗風についてねんごろに語っていました。俗諦
(※56)行儀について例話(たとえばなし)を引いて、勘忍深い妙好人の話をいたします。聞いていた二人の内一人は、「あの話をよく聞いておいてちっとは自分の行いをなおせばよいに、よい話をしてくれた。あれで胸がすっとした。」と相手の上に皮肉な眼光を投げかけました。一方は涙ながら聞いて思いました。「いいお話をきかせていただいた。私は何という罪深い者だろうか。あのお話は極悪邪見な私への御説法である。」と罪深い自分の日暮らしに泣き、悪業に目ざめ、このようなあさましい自分の魂を摂取して捨てたわまぬ大悲の恩徳を、ほれぼれと讃仰(さんごう)しているのでありました。
 一歩一歩がお浄土へ運ばれている人と、一息一息が地獄へ地獄へと近よっている人との生活がはっきり別れています。

 在家の生活態度は、罪深いあさましいものであります。繁華な街、静かな村落、寂しい山里、至るところに家を営んで、人が住んでいる姿はなつかしくも哀れを催します。皆地上苦、家庭苦をなめつつ生きています。
 その人間苦の赤裸々な内に、み光の流れたまうことに目ざめた家庭は、恵まれた尊いものであります。
 観無量寿経
(※57)には、「下品(げぼん)下生(げしょう)とは、あるいは衆生有りて不善業を作り五逆十悪(※58)もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人……。」と仰せられます。いかなる難治の三機も、いかなる大悪人も如来の慈悲光に摂取されます。蓮如上人の御文にも「また、つみは十悪五逆、謗法(ぼうほう)闡提(せんだい)(※59)のともがらなれでも、廻心懺悔してふかく、かかるあさましき機を、すくいまします弥陀如来の本願なり、と信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行者というなり。」とあります。

 悪人正機
(※60)の本願の救済は、在家の上に打ちたてられてあります。「妻は輪廻(りんね)のなかだち、予は三界のくびかせ。」と申します。けれどもこれは聖道諸宗(※61)の方から言ったことであります。親鸞聖人は、奥方を観世音菩薩の化身として家庭の人におなりなさいました。意味深いことであります。弥陀の本願が、肉食(にくじき)妻帯夫婦の愛の上に、煩悩の盛んなる強健の身体の上に、そこから生まれ出る家庭苦の上に、家庭から広がる社会の上に、国家、世界、十方衆生の上にうちたてられてあることを思う時、家庭は決して地獄の道連れでなくて、悟道(さとり)への道場であります。妻も子も親も兄弟も、それは極楽への同行であります。ここに家庭の罪深さが、いつの間にやら価値の転換をされています。

 苦しいからというので、家庭からのがれたいと思うことは卑怯なことでもあります。悩み多い在家の上にそれを浄化し、転化して下さる光を見出させていただいて生きていくこそ、煩悩即菩提と悟りたもうた釈尊の魂にふれていく道でありましょう。現実の苦しみこそ、力弱い私どもが、力強い真実生命を見出す縁ともなることを思う時、人間が皆、家庭の赤裸々な姿の上にほんとの自分の宿業を見出し、その上に流れたまう如来願心にふれて救われて行きますように、救われた者は、家庭苦のまつただ中に、み仏の慈光をよろこびさまして、いよいよ信仰を深めて行くことがうれしいことであります。こうして一切世間の家庭が尊い学仏道場になりますように念願してペンをおきます。



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