住岡夜晃選集(第4巻) 『女性の幸福』
             

 


人と人との関係

     一

 われわれが大地の上に生まれ出でた時、最初に本能として表われたものは食欲であり、この食欲を満たしてくれたものは母であった。そうして両親と接触することが多いだけに、まず私の周囲に発見したものは父であり母である。特に母は子供のためにはなくてはならぬ華の殿堂の主神でおった。やがてわれらはそこに兄弟を発見した。さらに友を見出した。隣人を与えられた。そうして段々と長ずるに及んで私に教える人が現われた、初めは両親は同時に師匠であった。彼らは礼儀を教えた。言語を教えた。やがて学校にゆきはじめると正式に師が私の前に立った。こうして幼年期・少年期・青年期の全部がこのいろいろな師匠との交渉に費やされた。少年期から青年期に移るころからわれわれは異性を発見する。男が女を知り、女が男を知るころになると、人の心の中にはすべての本能が不思議なほどの力であらわれてくる。女を見出したころから個人意識がはっきりしてくるとともに、社会を発見する。人はみな社会人である。家庭も一種の社会である。学校も一種の社会である。社会には社会意志がある。社会意志と個人意志とが衝突する時、煩悶(はんもん)が生まれる。青年期は煩悶の時代であり、恋愛の時代である。やがてわれらは妻を知る。子供が生まれる。親子の関係に生きてくる。そのころは全く社会人である。我よりも下級の人ができ、上級の人ができる。

     二

 我々がいちばん頭を使う事柄が二つある。一つは経済問題であり、二つは人と人との関係の問題である。御相談を受ける問題は大概この二つの内にある。経済問題は今日一日食える以上、さまで悩みとはならない。しかし、人の世の悩みは人と人との問題である。親と子、夫と妻、嫁と(しゅうとめ)、そこにさまざまな色彩を描いて人は生きてゆく。
 われらがいちばん深く心に関係をもつのは、親子の間柄と、男と女との間柄である。親子は縦であり、恋愛は横である。親子の間が満足であり、夫婦生活が成功であるならば、その人の一生は幸福であったといえる。親を中心の生活は、異性を中心の生活へと移ってゆく。その間にさまざまな非喜劇をおこして生きてゆく。私はまず親子の関係から考えてゆきたい。

     三

 「親には孝行せよ。孝は百行の基なり」とは古往今来人類の前に掲げられた第一命題であった。道に古今なく東西はないけれども、特に東洋道徳の根源は孝であった。孔子の教えに父母孝養を説くはもちろん、仏教道徳の根本も孝におかれてある。心地観経
(※39)には「慈父の恩高きこと山王のごとく、悲母の恩深きこと大海のごとし。われもし世に住し、一劫において悲母の恩を説くとも尽くすことあたわず」という。父母の恩の高きを須弥山(しゅみせん)にたとえ、大海にたとえたのである。善導大師(※40)は「父母は世間福田のきわみなり。仏はすなわち、これ出世福田のきわみなり」とて、世間の道、出世間の道において、父母と仏とを、福田のきわみだという。さらに「もし善男子善女人、父母の恩を報ぜんがために、一劫において、毎日三時に自身の肉を割いて父母を養わんに、未だー日の恩を報ずることあたわず」という。これらは皆、子として親への参道を教えたものである。親が子を愛し子が親を慕うは人情の自然である。しかし、子は親に孝行せよというだけでは、問題は残されてある。教育という教育が、親に孝行せよと教えてきつつも、人必ずしも孝子ならず、親子の間にも悲劇は毎日くりかえされてある。
 私はまず親としての態度を私の上に決定してゆきたい。愛は力であり光であるとともに、愛は迷いであり、盲目である。愛が迷いであり、とらわれであり、盲目であり、時には安価なる自己満足である場合に、私の子供はきわめて悲惨であらねばならぬ。私どもは愛の交換条件として親の権利を主張しようとする。親の権利も、それが深い愛から子供それ自身を育てるための一つの方便である場合はそれを認めることができるけれど、親の権利を極度に子供の上に求めてかかる時、私は直ちに子供を殺すことになる。つきつめていうならば、私には子供に孝行を強いる権利はない。親の心の中には二つのものが働く。それは子供を育て、よりよい社会生活を営むことのできる地位と才能と学問と徳とを与えたいとの考えである。他の一つは子供を常に親のもとに従属さしたい欲求でおる。ともにこれは人間愛の特徴である。「愛はおしみなく奪う」という。親子の間でなくても、夫婦でも、友人でも、その中には所有欲が動く。親の中にも確かに子供を所有しようとする心がある。子供の運命をきり開いてやって、思う存分その天才をのばしてやりたい心は純な光ある愛でおる。けれども、所有しようとする心は暗い心であり、盲目愛であり、執着である。火の中に眠るわが子を救うために、あるいは河の中に溺れる子を救うために、身の危いのも忘れてとびこむ親心や、貧しい親が学資を造るために汗水を流す心は尊い愛の心である。それは生命の成長を願う光であり力であって、幼い魂はこの光ある愛によって伸ばされてゆく。私は桜井駅の楠公(なんこう)の愛や、(はた)の織物を切った孟子の母や、恩賜の御衣をつきかえして名聞と利養に堕落しようとした源信を戒め、死期まで家にかえることをゆるさず、ついに源信和尚を不朽の大聖者にした母の愛や、子供を遠い地に送って勉学さすために、常に寂しさを味わっても堪え忍んでいる世の多くの親の愛を尊敬せずにはおられぬ。老いた母親がわが娘の花嫁姿をじっと見つめている親心は、この世の美しいものの一つである。
 親が子供に孝行をおしつけることは、それはかえって不孝の子を作ることになる。生一本(きいっぽん)に生きぬかねばおられぬ子供は、小学校などでは成績の良好なものである。そうした子供がようやく自己に目ざめかけてくると、自己生命を成長するために、自由に大胆にのびて行こうとする。都会にとびだしたがったり、学業を続けたいと願ったり、事業をはじめたりしようとする。その時にあたって、もし親としての私が小さい愛にとらわれている時には、ここに悲惨な争いがはじまるかも知れぬ。雀が鷹を生んだ時、鷹として生きようとする子を雀の巣にいつまでもいよというのは無理であるかも知れぬ。そうした場合に鷹は一時不孝な子として非難せられるであろう。小作農の息子が非常に頭もよく体も強健である場合に、小作農たることにあきたらず、都会に出て苦学してでも勉強を続けようとする時、親がその子を貧しい小作農でおわらしてしまおうとするがごときは、子供の運命を殺してしまうであろう。もししいて息子が親をすて勉学に走ったならば親が頑迷であるかぎり、不孝者として取扱われ、特に親を泣かすであろう。私は決して立身出世をもって人生の第一義だとはいわぬ。しかし真に自由に自己を実現してゆくことは生命の根強い要求である。私は私の子供たちの将来については、きわめて寛大であらねばならぬ。
 さらに恋愛などを子供がした場合には、この問題は一層深刻である。「女は親の命令通りに結婚せよ」といってしまえばそれまでである。しかし恋愛に対する考えが若い者たちの考えねばならぬ重大なる問題となってしまった今日、無理におさえつけてしまうわけにはゆかぬ。親につくべきか、夫に従うべきか、親に従えば自分を捨てねばならず、親を捨てて夫に走れば不孝の責めを負わねばならぬような場合に立ち至った時、私は親としていかなる態度をとるべきか。もちろんそうした場合は、さまざまな社会意志がその結婚を認めぬ場合である。例えば一人の処女がいる。その処女がある男性と恋におちたとする。男も女もともに純良な人たちであった。しかるにその男性の家柄血族が女の方よりも悪かったとする。愛する者同志はそれを越えようとする。しかし親や親族などの承諾しようとする条件は決して愛そのものや、人物そのものではなくて、第一が家である。いかに寛大にしようとしても、周囲の事情や、実際問題として許しえぬ場合、ついにいっさいを裏切って男のもとに走ったとする。もちろん不孝である、不孝であることはいうまでもないことである。しかし親としての私はどんな熊度をとるべきだろうか。私は静かに、そのできた事件の上に自分を見、むしろ彼らが幸福であるべきを祈ってやりたいと思う。そうして彼らの生き方が真剣である時、私は不孝の名をかぶらしてやりたくない。私は親としての自分を見つめる時、どうしても子供に孝行をしいる権威はない。私に不幸な子供ができた場合にも、それは私の業なのである。私がいかに真に子供を愛したとしても、彼らが私にいわゆる孝順であるか否かは知ることはできない。私の宗教的信仰からいうならば、不良な子供をもつことも、それは私の業そのものの表われである。私の全部かあるいはどこかが子供の上に出てきて私を責めるのである。私は静かに子を責めないで、私自身の業をはたしてゆきたいと思う。親鸞聖人の御子に善鸞がいたことを思う時、私どもは深い業の力を思わずにはいられない。業はただすなおに受けることによってのみ越えることができる。
 若い時きわめてでたら目に生きてきた男があった。その男の子供たちは皆才子であったが、変にそれてしまって親の財産を使い果たしてしまった。はじめこの男は子供ばかり責めていたが、やがて、仏の道に入るようになってからは、子供の姿の上に自分が見えてきた。いっさいを背負うて、如来の前にひざまずく日が来た。彼は子供を責めないでわが身のおそるべき業を知った。彼は再び子供を責めなかった。不思議に子供はそれからは親の心に適うようになった。
 私どもは子供に孝をしいる前に、まず真に親であらねばならぬ。真の親であるとは親の愛の純化であらねばならぬ。親が不節制の結果、梅毒を子に遺伝したりした場合に、その虚弱であり、不具である子供に孝をしいるというのは、親自身のまちがいである。しかも梅毒でなくても、私自身の悪い血を子供の上に与えていることを思う時、私は子供に孝をしいる気にはなれそうにない。ただ彼が美しい人であってくれと念願せずにはいられない。三歳の哲子を死なせてこのことを深く考えるようになった。

     四

 「女は弱し。されど母は強し。」という。私は母性愛を尊いものと思う。おそらく女の偉さは母である時に表われるのであろう。父の愛が大勢至菩薩の智であるならば、母性愛は観世音の慈悲である。嬰児を抱いてすべての苦を忍ぶ母の心は女の持つ美の極であろう。人の世で寂しい時、苦しい時、だれでも母のふところによみがえる。たとえこの世にはいなくなっていても、母の愛の記憶がよみがえってくる時、愛のねんねこ歌を聞いた時を思い出す時、子供のようなすなおな心になる。それだけに母を知らぬ人は不幸である。
 女はやがて母であらねばならぬ。それは女の唯一の誇りであり、特権である。それだけに母はどこまでも母であってほしい。母は時には乳母である。時には子もりである。時には師匠である。時には友である。母は子供のすべてであることを思う時、母はまず真の母であらねばならぬ。子供が偉大であった時だけ、女は母として偉大なる母としてゆるされる。私は私の子供に孝行を求めるより先に妻に対して「母であれ」と求めずにはいられぬ。美しい羽二重を着たある母を汽車で見たことがあった。雪のように白い衣服を大切にするこの婦人は五つばかりの子が、この母に抱きつこうとすれば、そのたびごとに口ぎたなくののしって、邪慳につきはなした。子供の鼻じるや手あかが着物をよごすからである。子供は泣きながら静かに腰をかけていた。私はまま母のような女だと思った。まま母ということがでたから一言いっておかねばならぬ。それは世の中にまま母を持たねばならぬ場合と、まま子をつれねばならぬさだめとがある。やむをえぬ地上のさだめである。まま出だから悪いにきまったことはない。まま母の中には実の母より気品の高い愛に満ちた女もある。しかし泣いている人たちがあまりに多い。どちらも不幸である。しかし同情しあう、ゆるしあう心が生まれてほしい。お互がまま子であり、まま母であることをなくしてしまうことはできない。ただ地上の不思議な縁が母子と名のらせ、不思議な因縁が母子としたことにさめて、同情に生きたい。そこにきっと責めてばかりはいられない世界ができるにちがいない。ただ私たちがいやなのは、まま母らしい女である。まま母らしい女は実の母の時でもありうる。にくむべきは、まま母らしい態度の女である。高慢で、圧制的で、おこりっぽい女がしばしばこの態度をとる。

     五

 父母恩難報経に、「父母子において大増益あり。乳哺長養、時に従いて生育し四大得成す。もし右の肩に父を負い、左の肩に母を負うて、千年を経歴し、さらに便利をして背の上にせしむるとも、いまだ父母の恩を報ずるにたらず」とか。一度子供の天地に我を見出す時、誠に親には孝たるべきが子の当然である。しかるにわれらの日常はどうであろう。孝というべき何者もない。大地の上に伏して謝するもまだたらぬはわれらの不孝である。誠に千里の遠きに、両親を肩にのせて報ずるもなおつきぬのは父母孝養の恩である。しかるにわれらの態度は誠になっておらぬ。報じてもたらぬ。つくしてもたらぬ。おそらくいかにつくすも私は一生不孝の子として、一生を送ることであろう。



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