*1 白道: 浄土に到る救いの道。『観経疏』二河譬(明12-63、西223、東219)に表されれる。
*2 無明の風: 自分に知覚されない心の闇の部分(無明)から生じる心の働き。無明煩悩。
*3 久遠: 非常に永い時間。永遠。
*4 大悲: 大慈悲。如来が衆生に楽を与え(慈)、苦を除く(悲)お働きのこと。
*5 法蔵菩薩: 阿弥陀如来の修行中の名。
*6 生死界: 生老病死にとらわれて悩み苦しんでいる世界。
*8 帰依: すぐれたものに従うこと。
*9 地獄一定: 歎異抄第二章「地獄は一定すみかぞかし(地獄こそ私の定まった居場所です)」より。
*9 永劫: 極めて永い年月。永遠
*10 永生: 永遠に亡びないで生き続けること。
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【暫定版】
一、昭和二十年十月、先生は加計にあって、病床に臥される。これは原爆以来、酷暑の中を持病をおして本部の仮修理に努められた過労が原因と考えられる。十一月、御病床で仰せになった。「相手を直そうと思いまた矛盾を解決しようとすれば、無理が起こり荷が重くなる。直せないとなると愚痴が出る。しかし、外はそのままにして、自分自身がこの渦中にありながらなお大悲の御胸につながっていることを憶念するならば、外はあるがままで手放しでやってゆける。どこに居ても遠慮・気兼ね・行きづまり・愚痴はあろう。しかしこれら無明の一切が、大悲の働いてくださる舞台である。その大悲の御胸に通おうとする心こそ願心である。」と。
また、仰せになった。「芭蕉の書物をみると、芭蕉は泣いている。手放しで泣いている。『この道や行く人なしに秋の暮』の中にも慟哭している彼の姿が思われる。それは日本国土の底に流れる大きな生命に手放しで泣いている姿である。手放しで泣け。手放しで行きづまれ。手放しでまっくらになれ。そこに仏の御慈悲の流れていることを思え。」と。
また、仰せになった。「人がない。人がない。今こそ大法を国中にも世界中にも流すべき時だ。今こそ聖徳太子の古に帰って和を成就しなければならない時代だ。今こそ真の宗教家が必要だ。聖徳太子のつくられた水路の底にたまった泥を取り除いて、国中に、いや世界中に大法の泉を流さなければならない。その人がない。」と。
一、同年十二月、先生は加計を引揚げて本部にお帰りになった。ある日の仰せに言われた。「真の孝は親の言葉を振りきるところにも存在する。すべてに従わなければならないものならば、道とか真実とかは存在し得ない。道のためには親をも子をも捨てるところに本当の白道*1は厳存する。」と。
一、同年同月、病床にて先生は仰せになった。「大悲の御親というのは南無阿弥陀仏である。二つあるのではない。一つである。御親の全体が六字の名号である。二つにしてはならない。」と。
一、同じく先生は仰せになった。「生老病死、これすべて罪業であり悪業である。この悪自身では悪をどうすることもできぬ。しかし御親は悪になりきって下さり得る。悪の凡夫は仏になり得ぬが、仏様は悪凡夫になりきってくださるのだ。」と。
一、先生は仰せになった。「心の中も外も無明の風*2が吹いてどう仕様もない事になっている。その全てをそのままにして、久遠*3の大悲*4にお任せするのだ。それでいい、それでいい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」と。
一、昭和二十一年二月、先生は仰せになった。「生死の苦海には悲しみもあろう。苦しみもあろう。矛盾もあろう。どうしても割り切れない事ばかりかもしれない。しかしそれを割り切ろうとしてはならない。悲しい時は手放しで泣け。苦しいときは苦しむより外はない。ただ、私共は久遠の大悲につながって泣くだけである。大慈悲につながって苦しむ。そこに泣くのは法蔵菩薩*5の泣いてくださる姿であり、涙は法蔵の御涙である。苦しみと悲しさと矛盾より外に何もない生死界*6を悲涙してくださる法蔵菩薩につながって生きなさい。」と。
また、仰せになった。「生命の流れ。お互いの間にも生命が流れているかどうかが問題である。私に起る一波が相手の胸に一波として伝わるとき、限りない親しさが湧く。この流れのないものは結局なんらの交渉もない存在である。尊い御生命との生命の交流。尊い御方から尊い御生命が流れてきて私の胸にとどくときそこに人格の成立がある。道というも、人格というも、単独で成立するものではない。尊いものと交渉を持つか否かが問題である。これのない人生は、結局のところ遂に地獄である。」と。
一、同年同月、先生は仰せになった。「智慧は、一般的に言って、迷いを転じて心理を悟らせるものである。本当の価値を見せてくれるものである。聖徳太子は『勝鬘経義疏』においてその執筆趣旨として『今日帰依常住真実(今日、常住真実に帰依*8す。過日、無常に帰依せり。)……行善之義本在帰依(善を行ずる義はもと帰依にあり。)』と仰せになった。『帰依』というのは『帰命』と同じ、『南無』と等しい。南無阿弥陀仏の六字釈の最も簡単なのは蓮如上人の『たのめ、たすける』ということ。南無は弥陀をたのめという仰せである。『をたのむ』と『にたのむ』とでは大変意味が異なる。『をたのむ』とはおまかせすること。南無の一番純粋な姿は醜い自分をはっきり見てどうにも助かる術はないとひれ伏した姿である。地獄一定*9の心である。そこに届いてくださるのが久遠の親心、誓願である。したがって南無は自らのものではない。しかも自らのものとも思われる。しかしながら、私は仏ならぬもの仏は私ならぬもの、とはっきりするところに、煩悩の私に、私ならぬ本質的な私を顕現してくださる。それをみせていただくのが智慧である。
帰依、これを聖人は帰命といわれる。今、帰依を生死と結びつけると死の帰するところ、生の依るところとなる。若い間にはっきりと死ということを考えねばならない。人間には必ず死がある。死の解決を真剣に求めることは如何に真実に生きるかを求めることであり、生と死と二つあるのではない。死。この肉体は滅びる。その滅びることによって永劫*9に滅びることのない国に生きさせていただく。死によって永生*10の浄土に生きる。このことこそ無常の生命をもつ者がこの世に生きてゆく唯一つの生き方である。死の帰するところは実にここである。そして初めて手放しで生きる道がひらけ本当の生活が出てくる。
東条英機が如何に死ぬか。尊いか醜いか、あるいは大和民族のために本当の生き方を教えてくれるか、問題はここにある。智慧とはこの帰依するところをはっきり示してくれるものである。聖徳太子は一千年の昔に『行善之義本在帰依(善を行じる本当の意味は帰依にある)』と大和民族の本当の生き方をはっきりとさせて下さった。」と。
一、本部において二三年聞法したことのある学生が、久し振りに本部に帰り、「浄土真宗のみが真実教であるということは不審に思います。」と申し上げたところ、先生は仰せになった。「自分一個の小さな幸福に満足して、真に道を求めようとする願心が足りず、深く自らを見ることに忠実でないためである。真実教を見出そうとすれば真実に自らを内観し願心を鋭くしなければならない。」と。大変ご立腹のご様子であった。
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