Ⅳ.社会に生きる


日本を救う道  -教育者の皆様に拝ぐ-

     個の尊厳の問題

 一人の人間が全体を築く一個の煉瓦にすぎなかった全体主義の時代は、敗戦の悪夢の中に崩れて再び人間の自由と人格の尊厳とが社会構成の基盤とせられる時代が訪れた。それはまた何よりも嬉しくありがたいことであった。いまや何者の圧迫をも、生きる背後に感じない時がきた。青天の下、大きく生き得る時がきた。しかしそれはほんとうの人間の解放であったか、個の尊厳の発揮であり得たか。それとも猛獣群賊の、広野への開放であったか。いうまでもなく民族は、その恥かしい姿を世界に暴露したのである。自由は放縦とはきちがえられ、強盗、窃盗(せっとう)賄賂(わいろ)横行、無道義、無節操等々、百鬼夜行のていたらくを出現してしまった。背後に加わる暗黒の魔手が去ってほっと一息の時、前に群賊悪獣の大群におそわれた形である。かくして個の尊厳は新しい課題としてわれ等の手に渡されたのである。

     末曽有の歴史的自覚

 思うに、事変中は画一的な枠の中にはめこまれて、ある美しさを保っていたかのようであった。しかしそれは煉瓦壁の美しさ、キューピー運動の美しさであった。それが一度枠がはずされ、強制的な号令がなくなると、一度に野獣的本能的な力がおどり出て、一世を闇黒の中に包んでしまったのであった。世の識者はそれについて批判しつくした形である。曰く軍国主義の教育の結果、曰く他動的他律的注入教育の責任、曰く物資不足の結果、曰く無宗教の現実暴露等々、みな一往その結論の正しいことを認めざるを得ないであろう。しかしここにわれ等が忠実に考えてみなくてはならねことは、はたして美しきものが醜悪なるものに一変したのであるか、それとも本来醜悪であったものが、ただ形を変えたのであるかということである。神兵ははたして神兵であったのか、恐るべき鬼畜であったのか、それはいま(おごそ)かに裁かれてある。
 仏説によれば、まさしく人生は無明の海であり生死の苦海である。神の国でもなければ浄土でもない。「三界無安猶如火宅」、法華経の言葉は正しい。五濁悪世の中に住むものは一生道悪の凡夫でしかない。もとからの穢悪(えあく)の凡夫が高上りしていただけのことである。この度のことは誠にこの憍慢に対する一大鉄槌を下されたのである。それである。誠にそれである。われら民族の歴史的自覚――それはかつて一度も無かった――をうながす大否定の鉄槌である。民族の心に巣喰う根強い我執我慢に対する大否定の鉄槌である。これからのちおこる一切の諸現象は皆、この精神的大革命、未曽有の大革命を成就せしめんがための波動にすぎない。このような歴史的精神的大革命の自覚は、先ず誰によってなされねばならぬであろうか。

     信の自覚

 それは誠に教育者であらねばならぬ。聖徳太子の時代にも、大化改新にも、明治維新の時にも無かったところの、真に未曽有の大革新は、過去の時代のように一人の英雄、一人の聖者によって成就されるのではなくて、かなり多くの人が中心となり、それがやがて国民すべてに及ぼす力となって成就されるのである。それが即ち民主的改新だと思う。八千万の大多数は政治によらなければならぬものであるかも知れない。衣食足らざれば、国民は安定しないのである。しかるにその間にあって、政治によらずして生き得る人、即ち真に道を念じて、内に自覚を成じ、この国土の苦悩を摂取し消化し得る健全な胃腸の持主まことに強い胃の腑の人が要る。個の人格の尊厳を徒らに主張して他を顧みない似而(えせ)非民主主義でなくて、内に真に自覚による人格の尊厳を成じて、次の世代を負う青少年にぶつかってゆく真の教育者が、一人でも多く誕生することよりほかに日本を救う道はあり得ないと思われる。
 このような自覚とは実に親鸞の所謂“信”の自覚である。念仏の自覚である。誠に他力廻向の大信とは、人生という大沙漠に湧くオアシスである。無限の闇を照破する如来本願の顕現であり、久遠の御いのちの泉である。一切の苦悩は、この泉に融合してはじめて、歴史的現実、永遠の現実となり得るであろう。世間虚仮唯仏是具、虚仮を照らし出すのはただ仏である。虚仮を虚仮としって仏の真実に帰すれば、虚仮の信知において仏の真実は自覚感知され、苦悩の深さは如来真実の無限を信知させる縁となるであろう。日本国土の至るところに地湧の泉が出現してこなければならない。そしてこの信の泉に民族の業苦の全てが受取られてこなければならない。こうして如来は、民族の内奥にひそむ自力我慢我執を照破し否定し回心懺悔させて、民族を本然の相におき、内に金剛の信を成じて個の尊厳を顕現させたまうであろう。



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