我等の世界
 真宗念仏の世界は、竪に無限絶対なる如来の大悲本願によって、仏凡一体の関係にあると共に、横に同朋と、信心のまことによって結ばれて一つの美しい世界を出現するのである。特に親鸞聖人は、弟子一人も持たずと宣言し、御同朋・御同行と念仏の人を敬愛されたのである。はるばる命がけで常陸の国より京都まで、道を問い、法を求めて来た人たちに対してすら『詮ずるところ愚身の信心におきてはかくの如し、このうへは念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも面々の御はからひなり』と、自由の天地に人を解放して、信ずるところを強いつけず、威力をもって人を征服せず、教権をもって人を束縛せず、ただ、自ら信ずるところを行じて、その離合集散を因縁にまかせ、何人をも、宗教の名において所有しようとせられなかった。あまりにも美しく清浄ではないか。それは、如来浄土の清浄光に洗われ、真実智慧によって人間の我執自力、邪見僑慢が限りなく否定せられた、信心の智慧による和の成就である。我等の生活もまた、この聖人の生活の如く成就されねばならない。
 我等は一人一人が信心決定して念仏することによって、平等なる信によりて自然に結ぱれていなければならない。『いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かげなばその詮なし。一紙半銭も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをかけて、信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ。』(歎異抄)利によって集まるものは利によって去り、名によって集まるものは名によって散る。名利権勢を求めて集まらず、立身出世を求めて集まらず、主義によって徒党を組まず、不平愚痴をもって集まらず、善悪によって結ばれず、学歴によらず、男女老若によらず、規約によらず、かくして人間の発する何ものにもよらず、したがって人間のあらゆる心を持ち合わせつつ、ただ、自然にして、謀らざるに、如来本願力廻向の大信心によって結ばれ、一味平等なる法味楽の調和によってのみ我等の世界は成就されるのである。
 我らの歩みは、法則がここにあった。それは一見誠になまぬるい、あまりにも悠長な考え方のようである。しかもこの淡々として水の如き自然の結合こそ、一番美しく、また一番和の早道であることを我等の同朋は立証した。
 念仏の同朋の集いは美しい。
 我らは唯信の世界に一味平等である。善悪によって裁いてはならない。我慢を張って同朋の間に威勢を行じてはならない。謙譲の徳によって下座に居り、互いに助け合い、讃嘆し合い、尊敬し合い、互いに同行善知識となって、美しい華園を出現しなければならない。我等の集いは、仏徳による人格的なものでなければならない。