生死の苦海
 『生死の苦海ほとりなし』とは、龍樹和讃の一句である。この人生は生死の海である。そして生死するがゆえに、横にも竪にも、はてしなく苦海である。いつでもどこでも苦海である。現象界は一面は助け合う共同体であり、一面は永遠の闘争であり、弱肉強食である。それゆえに一切衆生海は苦海である。「宗教のいらない社会を造ればいいではないか!」ラジオから景気のいい声が聞こえる。だが死を見つめて生きている者に、その声が何と聞こえるであろうか、それは一つのたわごとに過ぎない。宗教をいらないものにしようとならば、我より死を取り去って頂きたい。それだけが人間にとって不可能である。死が無くなれば人間はほとんどの問題は無くなるのではないか。「死なんか問題にする者は、問題にならないあほうだ」。いくら何と言われても、私には死が来る。そしてそれが私のすべての問題である。馬鹿でも、あほうでも致し方がない。何と言われても弁解のことばがない。この死の前にはすべてが『無』であることにさめたものに宗教がある。『宗教のいらない社会をつくる』、そんな声は、熱い声、力強い声ではあるが、高上がりした人間の、およそ私には縁遠い、狂信の声としか受け取れない。死はしかし、私の問題であるだけでなく、万人の問題であるかも知れぬ。如来真実の教法は、我を『無の死』から救い、無の自覚において、光と力と喜びを与えて生老病死を超えしめ、死の前にもゆるぎなき、大願の船に乗託せしめて、人生の価値を転換し、無限の苦悩に随順せしめつつ、宿業のすべてを、そのままに生かし、法界自然の大道に直入せしめて、我をして任運無作の法楽楽に、寂静湛然、不可思議の喜びに安住せしめたもうではないか。
 『生死の苦海ほとりなしひさしくしづめるわれらをば弥陀弘誓のふねのみぞのせて必ずわたしける』死の床にもなお、一貫の願を失わしめず、破滅なく、自暴自棄なく、呪詛なく、不平なく、不満なく、恐怖なく、不安なく、三毒煩悩は持ちながら障げられず、八万四千の妄念は起これども妨げられず、報恩謝徳の大行に永遠の今を安住せしめたもうではないか。
 静かに正法によって苦に徹し、愚悪に徹して無有出離之縁と合掌すれば、身は本願大悲真実の大船上にあるを知るであろう。誤って小我の抜き手をきって大苦海に出でてはならない。生-死するものよ。