孤独の内転
 人はだれでも孤独である。自己の運命を思う時孤独である。苦悩に出会う時、病む時、死を思う時、すべて孤独である。釈尊もこのさびしさの解決のために、聖人もこの運命の打開のために、道を求めて出られたのであった。前科何犯のならず者も、人の世の冷たさに泣いた日がある。一切の悪人もこの孤独の淋しさから生まれる。真実の目覚めはここから生まれる。淋しさゆえに享楽を追い、外にこれをごまかす対象を求めて走れば、ただ流転がある。魂がしびれて楽天的になるとも遂には愚痴の二文字でこの世を終わるであろう。常に外に向かって求め、人を責め、世を憤り、自暴自棄に陥れば、天地人生何ものも、これに善意と温かさをもって対応してくれるものなく、身を破滅の闇に見出すであろう。
 とどまれ!さびしいか、さびしさに徹せよ。ごまかすことなくさびしさを抱いて、真実の教えを聞け。それでもさびしければ、さらにさびしさに徹せよ。教えを聞きつつ。真実の教えは必ず、生死を、宿業を、背負いきらせて、これを内転せしめ、大悲摂取の光懐にその全我を託せしめるであろう。
 地上の何ものかによって、おきかえることの出来る淋しさより、地上の何ものによっても癒すことの出来ぬ寂しさに徹する時、人ははじめて、無限なるもの、死なぬものの大慈悲の招喚を聞くであろう。
 歎異抄にいわく『廻心といふことただ一度あるべし』と。この百八十度の転回を、孤独の内転という。万人を抱く愛の行者はここから生まれる。この人は知らずして、光と温かさと力とを人に与うるがゆえに、聖人はこの人を常行大悲の人と讃えられる。大慈悲はこの人に於いて具体的である。しかしかくあらしめたのは、全く教主善知識である。であるからその時、法然、親鸞両聖の如く、本願によって必然に結ばれたる人を発見して、長く孤独と別離して、孤独の独は、独立、独自、独一の独と変わるであろう。本願力によるがゆえに、世尊にあっては天上天下唯我独尊と言い、聖人にあっては南無阿弥陀仏と言う。行者誤って、唯我独尊を独慢と考えてはならない。自尊はそのまま尊他である。かくして一切衆生の差別せる宿業個性をそのままに、大悲真実の中に摂取し内転せしめて、あるがままをあるがままに生かしきりたもうを、真宗念仏と言う。