私の心引かれるものの一つに泉がある。泉に心ひかれるのは、それが自然であって、清らかで、夏は冷たく冬は温かで、見るものをして、掬うものをして、快適ならしめるからであろう。泉はいい、思い出しただけでも、清涼を感ずる。横にこの泉を掘り当て、家の裏の水槽に不断に、筧を通ってこの清涼な水の音がしている家、それも病床に思い出すものの一つである。深山幽谷の泉に至っては、ただ思い出すだけで、おのずから寂々の境に沈ましてくれる。信は、浅間しい人間の心に湧いて下さる泉である。堅い我慢な心の石の間に、この信の泉がわき出て下さると、この清涼の心水は、いかなる心をも柔軟にして下さる力がある真いかに人間が自分の行動の正しさを主張しても、それを見る人たちに不安と、恐怖と、嫌悪等の心だけを起こさず場合、そんな行動の行末からは決して人間の真の幸福は出て来ないであろう。何かが欠けている。美しいうるおいが欠けている。うるおいがないとは、心の真実が欠けていることである。また他人の真の心に遇うことができないのである。
 人は一面に於いては、富貴も之を淫すること能わず、威武もこれを屈すること能わず、何ものにも動かされない一面がなくてはならぬと共に、小さい真実の心の表われに対しても涙して感謝する一面がなくてはならぬ。それは両立するものである。うるおいのない心とは、自ら柔軟な真実の心を欠くのみならず、他の真心も受け入れない心である。こうした人が集まるところには、殺伐な砂漠の有様が出現する。信心は、三毒の岩の谷間に湧き出ずる清水である。自然の泉である。自然の浄土よりおこって、現実の念仏行者の胸にわくこの泉は、自他をうるおし、自他を生かし、その煩悩業苦を洗い清めて、自然の浄土に帰る。
 御念仏は、この泉の流れてかえる音である。
 御本典行巻に云く『悲願は喩へば……猶湧泉の如し。智慧の水を出して窮尽すること無きが故に』と。信心の自然の清水は、如来願力そのままにわき出でる、清浄真実の泉である。