【資料】(Ⅱ)
日本を救う道 ―教育者の皆様に捧ぐ―
『住岡夜晃先生と真宗光明団』より

 個の尊厳の問題
 一人の人間が全体を築く一個の煉瓦(れんが)に過ぎなかった全体主義の時代は敗戦の悪夢の中に崩れて、再び人間の自由と人格の尊厳とが社会構成の基盤とせられる時代は訪れた。それは又何よりも嬉しく有難いことであった。今や何者の圧迫をも生きる背後に感じない時が来た。青天の下、大きく生き得る時が来た。
 しかしそれはほんとうの人間の解放であったか、個の尊厳の発揮であり得たか。それとも猛獣群賊の荒野への開放であったか。いうまでもなく民族はその恥ずかしい姿を世界に暴露したのである。自由は放縦とはきちがえられ、強盗、窃盗、賄賂横行、無道義、無節操、等々、百鬼夜行のていたらくを出現してしまった。背後に加わる暗黒の魔手が去ってほっと一息の時、前に群賊悪獣の大群におそわれた形である。かくして個の尊厳は新しい課題として我らの手に渡されたのである。

 未曽有の歴史的自覚
 思うに事変中は画一的な枠の中にはめこまれて、ある美しさを保っていたかの如くであった。しかしそれは煉瓦壁の美しさ、キューピー運動の美しさであった。それが一度枠がはづされ、強制的な号令が無くなると、一度に野獣的本能的な力がおどり出て、一世を暗黒の中に包んでしまったのであった。世の識者はそれについて既に批判しつくした形である。いわく軍国主義の教育の結果、いわく他動的他律的注入教育の責任、いわく物資不足の結果、いわく無宗教の現実暴露等々、みな一応その結論の正しいことを認めざるを得ないであろう。
 しかしここに我らが忠実に考えてみなくてはならぬことは、はたして美しきものが醜悪なるものに一変したのであるか、それとも本来醜悪であったものが、ただ形を変えたのであるかということである。神軍ははたして、神軍であったのか恐るべき鬼畜であったのか、それは今厳かに裁かれてある。
 仏説によれば、まさしく人生は無明の海であり、生死の苦海である。神の国でもなければ浄土でもない。「三界無安猶如火宅」法華経の言葉は正しい。五濁悪世の中に住むものは一生造悪の凡夫でしかない。もとから穢悪の凡夫が高上がりしていただけのことである。この度のことは誠にこの憍慢に対する一大鉄槌を下されたのである。それである。誠にそれである。我ら民への歴史的自覚(それはかって一度もなかった)をうながす大否定の鉄槌である。民族の心に巣くう根強い我執我慢に対する大否定の鉄槌である。これから後起こる一切の諸現象は皆、この精神的大革命、未曽有の大革命を成就せしめんがための波動にすぎない。しかしてかかる歴史的精神的大革命の自覚は、まづ誰によってなされねばならぬであろうか。

 信の自覚
 それは誠に教育者であらねばならぬ。聖徳太子の時代にも、大化改新にも、明治維新の時にも無かったところの真に未曽有の大革新は、過去の時代のように、一人の英雄、一人の聖者によって成就されるのではなくて、かなり多くの人が中心となり、それがやがて国民全てに及ぼす力となって成就されるのである。それが即ち民主的改新だと思う。八千万の大多数は政治によらなければならぬものであるかも知れない。即ち衣食足らざれば国民は安定しないのである。しかるにその間にあって、政治によらずして生き得る人、即ち真に道を念じて内に自覚を成じ、この国土の苦悩を摂取し消化し得る健全なる胃腸の持主、まことに強い胃の腑の人が要る。個の人格の尊厳をいたずらに主張して他を顧みない似而非(えせ)民主主義でなくて、内に真に自覚による人格の尊厳を成じて次の世代を負う青少年にぶつかってゆく、真の教育者が一人でも多く誕生することより外に日本を救う道はあり得ないと思われる。
 かくの如きの自覚とは実に親鸞のいわゆる“信”の自覚である。念仏の自覚である。まことに他力回向の大信とは、人生という大砂漠に湧くオアシスである。無限の闇を照破する如来本願の顕現であり、久遠の御いのちの泉である。一切の苦悩は、この泉に融合してはじめて、歴史的現実、永遠の現実となり得るであろう。世間虚仮唯仏是真、虚仮を照らし出すのは唯仏である。虚仮を虚仮と知って仏の真実に帰すれば、虚仮の信知に於て仏の真実は自覚感知せられ、苦悩の深さは如来真実の無限を信知せしめる縁となるであろう。
 日本国土の至るところに地湧の泉が出現して来なければならない。そしてこの信の泉に民族の業苦の全てが受け取られて来なければならない。かくして如来は、民族の内奥にひそむ自力我慢我執を照破し否定し回心懺悔せしめて、民族を本然の相におき、内に金剛の信を成じて個の尊厳を顕現せしめたもうであろう。


本文の経緯は五、晩年の結実に紹介されています / もくじ に戻る