四、転回と充実の時代 『住岡夜晃先生と真宗光明団』より
光明団の方向の転換
今では考えられないことですが、本部が広島市内八丁堀にあった頃でしょうか、本部員をはじめ何人かの同胞が行列を作って、夜の繁華街を果敢に街頭伝道されたことがありました。妹の田鶴代さんの回想によると、「光明団」というたすきをかけて、ちょうちんを掲げ、タンバリンをたたいて、団歌を歌って、本通りへと繰り出したそうです。関心を持ってくれる人々があると、「光明団本部で主管が待っています。どうぞ正しい浄土真宗のお話を聞いて下さい」と叫び、ついてきた聴衆に、先生が合掌して静かな声で法話をなさるのです。その法話を聞いて感激して、休憩時間に喜捨される方もあったようです。
この街頭伝道に象徴されるように、一人でも多くの団員を獲得することを目標とされた時期がありました。講習会の開催地も、昭和五年の夏までは、備後の鞆 の浦の近くのお寺を借りるなど、海水浴も兼ねるような会座だったそうです。それが翌昭和六年から団の方向が大きく変わりました。それを先生が次のように述べておられます。
「この時代までは、団の大衆を獲得することに進んでいた。しかし、それは(空中に)灰を播くがごときものであったことがわかり、急角度に(団の)方針は変わった。大衆ではない、私だ。私自身がもっともっとみのり(法)をいただくことに懸命にならねばならない。大衆をどうするよりも(その)前に、私は私であらねばならない。・・・教人信 よりもまず自行 だ。そうだ、自行の臼 をつくのだ。私の周囲には、縁のつながる人がある。私はその一人ひとりを明らかに見ようとした。そうして、来るを拒まず。去るを追わず。因縁ある人と一緒に、より明らかに、そして静かに、お念仏の一道を精進しようと決心した」
「われらは今確かに新しい出発点に立っている。われらにとっての唯一の根本精神は、量の獲得よりも質の純化である」。
このような団の方針の転換にもとづいて開かれたのが、昭和六年(一九三一年)の夏季幹部講習会でした。それまで四年間続いた福山の鞆の浦の明円寺の夏季講習会を打ち切って、閑静な山陰(鳥取県東伯郡)の東郷温泉のホテルを貸し切って、八月一日から一週間、本格的な厳しい講習会がもたれたのです。この講習会が、その後の光明団の講習会の原型となりました。先生の講義の内容は「歎異抄」でした。遠近各地から集まった道心に燃える同胞七十五名、その中に中堅リーダーとしてこの会座を積極的に支えて下さった方々が五人おられました。いずれも山口、島根といった地方の有力なお寺のご住職でした。柳田西信、武井諦了、河野直臣、柳井覚善、幡谷淳信といった先生方です。このようにすでに光明団には、夜晃先生の教えに深く共鳴され、先生のご教化を蒙られた優れた僧籍の方々が団員となって、団の活動をしっかり支えておられたのです。
なおこの年の四月、先生は福山の同胞、石井英一氏の二女和枝さんと再婚されました。先生三十七歳の時です。得がたい良き伴侶を得られて、先生の自信教人信の活動が益々本格化したことはいうまでもありません。
夜晃先生のご教化の特色
ここで夜晃先生のご教化の特色について触れたいと思います。先生は在家のご出身であり、しかも学校の教師の経験を持っておられたために、従来の伝統的な伝道方法に縛られることもなく、新しい独自な方法を編み出していかれました。その中で特筆すべきものを紹介すると、次のようなものです。これらは、今日ではお寺でも普通に行われるようになりましたが、当時、昭和の初めには全く画期的なことでした。これらも光明団が異端視された理由の一つでした。
① 黒板の利用
先生の講義は常にお聖教(経・論・釈)にもとづいてなされ、主題とその原文、要点を黒板に板書するという方法で為されたため、講義の筋道がはっきりして理解しやすいものでした。当時のお寺のお説教は、聴衆は説教師の話をもっぱら聞くだけで、黒板を使って講義されるようなことは全くなく、板書された文字を見るといったことは皆無でした。また聞き手は、板書された文字を自分のノートに写すことが当たり前となっていたので、講義の始まる前には、必ず大広間に、座って筆記することの出来る低くて横に細長い机が並べられました。この方法によって分かることは、聞法もまず学習であるということです。
② 聖典の活用
同胞にはすべて浄土真宗の『聖典』(島地大等編・明治書院)を持たせ、講義の時は、常に聖典の該当箇所を開けさせ、原文を押さえて話を進められました。これは講義内容の根拠を明らかにすることによって、仏法の領解が主観的情緒的になることを避けるためです。先生は聴衆の感情に訴えるようないわゆるありがたい説教よりも、客観的な、論理的骨格を持った講義を重視されました。しかしそれは、決していわゆる学問を中心とした観念的な講義ということではありません。どのような人間も愚かな凡夫に目覚めない限り本願に乗托することは出来ないという本願による救いの道理を徹底させること、すなわちどこまでも真実の自覚を成就するための講義でした。聞き手は聖典の大事な言葉には印をつけ、またノートにも書くので、決してその場限りの聞法にならず、復習するなど、必ず後に生きてくるようになっていました。
寺院を中心とする従来の聞法は、聖典も持たず、ノートもとらないで、ただ惚れ惚れと講師の説教を聞くということが当たり前であり、それが他力の意にかなう聞法と思われていましたので、夜晃先生が取り入れられたこのような方法は、全く異質なものと受け取られたようです。
③ 座談の重視
夜晃先生は午前午後の講義のあと、必ず一時間ばかりの座談の時間を設けられました。説き手は説きっぱなし、聞き手は聞きっぱなしのお説教しかなかった当時に、このような座談を設けるということは従来の聴聞の伝統を破るものでした。これは先生亡き後も光明団の伝統になっていて、現在でも、どの会座も講義(聞法)と座談がセットになっています。大きな講習会の場合、座談は十名以内の小グループで行われる班別座談と、全員が集まった中で、夜晃先生と聞き手が一対一で対座して行われる合同座談と二種類ありました。
班別座談では、少人数ですからお互いに心を開いて、よく分からなかったところを話し合って、聞いた教えの中心点を確認したり、自分の現実(問題)との関係を考えたり、先輩の底の抜けた仏法讃嘆を聞くことで、各自の仏法の理解を深め聞法の意欲を高めることが期待されました。特に初心の人の関心と質問が大切にされることはいうまでもありません。
それに対して合同座談は、班別座談では解決しなかった信心と念仏の問題について、夜晃先生と質問者が真剣に向き合って問答し、ついに迷妄の根源が翻される場として設けられました。すなわち、“如来生きてまします”と、如来の前に徹底して頭を下げることができるかどうか、“念仏一つで事足りる”と言い切れるかどうか、それはまさに《如来が勝つか煩悩が勝つか》という真剣勝負であり、その場の雰囲気は緊張に満ちた厳しいものでした。
この座談の重視は、すでにして中世の蓮如上人の強調されたところであり、仏法が一人一人の身につくためには欠かせない方法ですが、ともすれば座談が軽視されるのは、当時でも今日でも変わらないようです。
先生の講義の内容は、浄土三部経をはじめ、『教行信証』『正信偈』『浄土和讃』『歎異抄』など親鸞聖人のもの、また『大乗起信論』『浄土論註』『観経疏』などの論釈書もあって、多岐にわたっていました。何よりも原典を重んじられ、漢文を黒板に板書して進められる先生の講義は決して易しいものではありませんでしたが、先生は前の方に座っているお年寄りを大切にされ、巧みな比喩などを用いて、お年寄りが喜んでうなづくことのないような話はされなかったそうです。それは一見どんなに難しい教えも、先生自身がそれをお念仏の内容として有り難く頂ききっておられたからこそ可能だったことでしょう。どんな講義も、それがお念仏をこころ(意)を明らかにしていて下さるものと分かればうなづいて聞けるのですね。
しかし原典に忠実に一句一節を大切に頂いていかれる先生の講義について、「あれは理屈だ。ご信心にはむつかしい理屈はいらない。ただ信じさえすればよいのではないか」という世間の批判がありました。このような批判(非難)に対して、先生のお考えははっきりしていました。「ただ信じればいいのなら何を信じてもいいはずだ。何を信じればいいのか、如何に信じればいいか。親鸞聖人には極めてはっきりした論理があり、骨格があった」。「その正しい論理のない信心が、結局現在のあのだらしのない教界の空気を作ったのであり、青年及び知識階級を追い逃がしたのではないか」
夜晃先生のご教化には常に燃えるようなあつい熱がありましたが、それは冷たい論理の骨格によってしっかり裏付けられていたことを忘れてはなりません。
十五周年大会と本部の建設
昭和八年十二月、創立十五周年の記念講習会が広島市内の八丁堀の本部(借宅)で開かれました。先生の回顧文によれば、街に宣伝もせず、五周年や十周年の時のような賑やかさもなく、人数も五十名余と比較的少なく、形の上では極めて地味で静かな五日間の講習会であったけれども、しかし今までにない真剣で充実した空気が流れていたと述べておられます。先生の講義の内容は道綽禅師でした。
この十五周年大会について、先生は「この大会こそ、一面過去の団の歩みを清算するものであり、一面将来への飛躍の第一歩を画する一大基調をなすものであった」と総括され、光明団僧伽の今後について確かな手ごたえと自信を得られたのでした。そういう点でこの昭和八年(一九三三年)は、光明団僧伽が草創期の不安定を脱して本格的な伝道活動を展開していくための大きな転換点の年であったと言うことが出来ます。
その十五周年と揆を一にして、かねての懸案であった新本部の建設が着々と進行しました。場所は広島市内の庚午町五一九番地で、現在の本部の場所です。規模は、六間に十三間の総二階、七十五畳敷きの講堂をはじめ、本部員の居室十室等を有する木造の堂々たる建物です。(一間は約一・八メートルです)
この建物は、棟梁 柳川富太郎氏によって造られました。彼は夜晃先生と光明団の活動に深く共鳴され、全くそろばんを離れて誠心誠意、献身的に尽力されました。当時のお金でわずか四千五百円で仕上げられたとのこと、今日のお金に換算すればどれくらいになるのかわかりませんが、これくらいの費用ではこれだけの規模の建物はとても建たないのではないでしょうか。また団員の吉見又一さんも建設委員として、本部建設のために自分の仕事をなげうって東奔西走して下さり、先生はこのお二人のご苦労なくしては本部の建設はありえなかったと深く感謝しておられます。新築なった本部への移転は、十五周年大会後の、年末に行われたようです。
考えてみると、創立以来十五年間、「光明団」は自前の本部(道場)を持たないままで借家を転々としながら活動をしてきたのでした。その不便さ不自由さは推して知るべしです。夜晃先生とご家族の安堵と喜びはどんなに大きかったことでしょう。特に、濁乱の世に真実仏道を明らかにせんとの先生の念願は、ここに新しく本拠地を確保されたことによって、ますます強く、地についたものになったに違いありません。組織論からいっても、本部がしっかりして本部の機能を果たすことなくして支部の活性化はありません。先生が巡教の旅に出ておられる時も、奥さんを中心とした何名かの本部員がしっかり先生の留守を支えて本部を守ったことが団の発展につながっていきました。
夜晃先生が光明団を創立されて、やがてご往生されるまでの期間は約三十年でしたから、創立十五周年は丁度その中間点にあたるわけで、マラソンでいえば折り返し点です。したがってこの後半の十五年こそ、夜晃先生の光明団の最盛期といえるかと思います真目を外に向けると当時の日本は、次第に軍部の勢力が増大して満州(中国東北部)を侵略し、国際連盟を脱退するなど、日本の国際的孤立化が進んで戦争への足音が段々高くなってくる重苦しい時代でした。
本部会座の充実
創立十五周年を終え、本部建設成った翌年の昭和九年(一九三四年)、 先生は数えで四十歳を迎えられました。四十歳といえばいわゆる不惑の年です。人の一生の中でも一番精気あふれる仕事の出来る年です。先生はその「不惑」に関して、ご自身については“不惑どころかいよいよ名利の大山・愛欲の広海に迷惑・沈没しているわが身である”と深く懺悔されると共に、仏道の歩みについては、“惑どころかいよいよ如来・本願の真意を頂いてこの道をしっかり歩み通したい”と述懐しておられます。それは、この年から四年間、「光明」誌に「如来本願の真意」と題した先生の本格的な本願の領解を連載されたことを見ても分かります。
新しい本部・道場が出来たということは、まず何よりも本部の会座が充実するということでした。これまで長い間、本部といっても有って無きが如しで、毎月の例会以外の長期間の会座はほとんど開かれませんでした。先生は専ら各地を回って伝道の旅を続けておられましたから、本部で腰をすえてじっくりお話されることはあまりなかったのではないかと推測されます。
昭和九年、木の香もかぐわしい新築されたばかりの本部で、先生は一週間という長期の講習会を二つ始められました。一つは八月一日から七日までの夏季講習会であり、もう一つは、十二月一日から七日までの報恩講講習会です。夏季講習会は昭和六年に鳥取の東郷温泉ホテルで開かれた一週間の幹部講習会を原型とされたものでした。(昭和七年、八年も場所を変えて開かれています)。報恩講講習会は今まで十二月初めに開かれていた三日間の報恩講会座を一週間とし、これも毎年定期的に開かれるようになりました。
そしてその翌々年の昭和十一年より、三月末から四月初めにかけて、やはり一週間の春季聖講習会を始められましたから、これでいわゆる「三大講習」といわれる年三回の長期講習会がそろったわけです。今後この本部の会座は、毎月初めの三日間の例会とこの三大講習会が柱となり、その後夜晃先生がご往生された後も、ずっと毎年続けられていきました。もちろん夜晃先生がご在世の時は、先生がお一人で全部担当されましたから、先生のご苦労のほどは察して余りあるものでしたが、このような充実した本部の会座を通して、先生のご教化が団全体に徹底していったのでした。
夜晃先生によって始められたこのような三大講習会は、他の教団にほとんど例がないもので、聞法の徹底を何より重視した本団の特色がよく現われています。夜晃先生が逝かれてすでに六十年近く経ち、三大講習会は中々困難になって来て、夏季聖会はやむを得ず五日間と二日少なくなったものの、他の春と冬の報恩講講習会は、先生ご在世の時と同じように現在も七日間行われています。仕事や家庭を持っている人が、世間の時間を削り取って七日間本部で寝食を共にして聞法することはとても困難なことですが、もし出来たならば、その感動は計り知れないほど深いものがあります。聞法といっても、一日はもちろん、三日間くらいの聞法では本当は徹底しないのですね。仏法が本当にわかりたいと思うならば、少なくともこれくらいの時間を聞法に集中する必要があるといえるでしょう。現役の仕事を終えられた定年の方がどんどん増えている高齢化社会の時代にふさわしい聞法のあり方ではないかと思います。
教育部会の創設
昭和十年より先生は、例会・三大講習に加えて、毎年、年頭のお正月明けの三日間(後に四日間)、 学校に勤める教師のために「教育部会」と呼ばれる会座を始められました。師範学校を出られ、教師としての経験をお持ちの先生は、学校の教師に対して特に熱い願いを持っておられました。教育の根本は真実宗教にあるということが先生の動かぬ信条でした。そこで第一回の「教育部会」の講題は、「浄土の宗教と教育」というものでした。学校の教師こそ、誰よりも仏法によって深く教育されるべき被教育者でなくてはならない、頭を下げて学ぶべき教えを持たない教育者ほどあわれなものはないというのが先生の常の仰せでした。一人一人の子供の背後に如来まします、学校の教師よ、どうか仏の本願に立って、子供たちの中に眠っている道心に呼びかけてくれ、人間が人間の尊さに目覚め、人間を成就していく道はここにしかないと先生は真剣に考えておられたのです。これは今日の日本の、真実宗教なき社会と若者の悲惨な現状をすでに見通しておられたかのようです。
この教育部会は、先生亡き後も途切れることなく、遺弟の細川巌先生を中心とした教育関係者によってしっかりと受け継がれ、今日の光明団の会座を代表する大きな会になっています。何しろ正月の二日夕集まって四日間開かれるのですから、折角の年始の休暇もなくなり、家族とゆっくり過ごす時間を切り裂かなくてはなりません。それも毎年参加するとなるととても大変なことです。家族の理解や協力なくしては不可能なことです。それだけに会座の雰囲気は他の会座以上に真剣で厳しいものがありました。多くの参加者は、年頭ということもあっていやが上にも求道心をかきたてられ、大きなお育てをこうむって一人前の聞法者になっていかれました。夜晃先生なき後の光明団の大きな特徴である青少年育成活動(少年錬成会など)を担っていかれた方々も、この教育部会から生まれたのです。
「教育部会」は、夜晃先生においては、先にも言うように文字通り学校教育者のための会座として設けられました。しかし先生なきあとの「教育部会」は、学校の教師に限らず、広く仏法を求める人々に開放された会座となりました。学校の教師だけが特別な存在ではなく、広い意味では、子供を持つすべての親は教育者であり、また一般世間においても、家庭や職場、地域など人間関係のあるところ、人が人を教え導くということは誰にもあることです。
考えてみれば、年齢、性別、職業、能力の有無を問わず、どんな人も人間であり、仏法(本願)からはみ出した人は一人もいない。人の上に立つ人も、そうでない人も、等しく仏の教えに照らされて愚かな凡夫に目覚め、諸仏・善知識によって教え導かれる者、つまり被教育者 = 仏弟子の自覚に立たない限り、仏法によって救われることは出来ない。そういう意味で現在の「教育部会」は、すべての人が被教育者の目覚めを持ち、仏の教化を蒙って真の人間形成の道に立ってくれという仏の願いを聞く会座なのです。
夜晃先生と地方巡教
ところで夜晃先生は地方のどのような場所で人々に説法しておられたのでしょうか。一年だけみても大変な数であり、一々詳しく調べることはとても出来ませんが、今、一応の目安を得るために、本団六十年史年表によって、昭和七年の一カ年の巡教先の会所を見てみると次ぎの通りです。大まかに、お寺、学校、公共施設、私宅、その他に分類してその数を調べた結果です。
① お寺 = 五十二カ寺 ② 学校 = 二十校 ③ 公共施設 = 二十二カ所
④ 個人宅 = 二十六カ所 ⑤ その他 = 五カ所
これで分かるように、先生は既成教団から異安心という批判を受けておられたにもかかわらず、実際にはお寺でお話されることが非常に多かったのです。これは注目するべきことです。考えられることは二つあります。一つはそのお寺の住職が夜晃先生の教えに深く共鳴されその感化を受けておられたという場合です。もう一つは、その地方に光明団の支部があり、その寺の門徒でもある団員の有志がお寺に熱心に働きかけて実現した場合です。後者がほとんどで、前者は限られていたと思われます。
また学校が意外に多いということも注目されます。これは公教育の中に特定の宗教を持ち込ませないという憲法の政教分離原則の徹底した今日との大きな違いです。公共施設の中には、公会堂、仏教会館、説教場、旅館、医院などがはいります。個人の私宅で先生をお招きして会座を持たれることも盛んでした。地方によっては、先生がお話をされる家は大体決まっていたようです。
地域で見ると、昭和の初めまでは広島県内がほとんどですが、昭和四年頃から他府県に行かれるようになり、特に岡山が多かったようです。また大阪・神戸方面、四国の高松などにも時々出かけておられます。山陰では倉吉にいち早く支部が出来ました。(昭和五年四月・東伯支部) 島根は昭和五年七月の浜田の顕正寺での法座が最初だったようです。それ以後毎年、浜田、鎌手、益田、井野等のいわゆる石見路のお寺を次々回って説法されるようになりました。昭和六年には益田支部と浜田支部、翌七年には鎌手支部と井野支部というように、相次いで支部が出来、支部が出来ると先生の支部めぐりは毎年大体決まった時期になされ、巡講と呼ばれました。しっかりした本部道場が出来たことによって先生の地方巡講も、本部へ帰っていただくためのご案内という意味を持ちました。ここに本部と支部との有機的なつながりが出来て、教化のための組織が明確となり、教団としての機能が整ったのです。
先生にとって、本部と地方(支部)をつなぐもの、それが念仏でした。地方を巡講されるときは、一人一人の同胞に対して、「お念仏申しているか、お念仏申してくれ」が先生の口癖でした。お念仏申すことが聞法の大切さを確認し、本部を憶念することでもあったのです。
昭和九年(一九三四年)には第一回の島根県各支部連合講習会(略して島根県連)が折居の農業組合を会場にして開かれました。初めは四日間だったようですが、後に五日間になりました。講題は「歎異抄総結の文」でした。それ以後この島根県連は、夜晃先生亡き後も島根の同胞によって連綿として毎年続けられ、平成十七年(二〇〇五年)七十周年を迎えられました。(ただし終戦の年と昭和五十八年の三隅水害の年と二回中止)
ご講師は、昭和二十三年の第十四回までは夜晃先生で、先生ご往生の後は、遺弟の柳田西信、大森忍、細川巌、岡本義夫、武井滉といった各先生方が引き受けて下さいました。この島根県連が現在も、県内の同胞はもちろん、県外の多くの同胞のご精進によって受け継がれていることは注目に値することです。
一方山口県は、昭和六年から七年にかけて、久米、共和、徳山、右田、須々万といった地方に支部も出来て、その後しばしば巡講されるようになりました。年表によれば、昭和十四年から山口県連も毎年開かれるようになっています。
広島県連は遅れて、昭和二十二年の十二月に、加計で第一回が開かれましたが、二十三年にはなく、二十四年七月に福山で第二回が開かれ、それが先生の地上最後の会座であり、講義でした。(後述)
なお外地の巡教も行われ、昭和十二年(一九三七年)には初めて台湾に出講されました。台湾には親しい同胞が幾人かおられたこともあり、翌十三年、十五年、十六年と、合計四回巡教しておられます。また昭和十五年には、朝鮮(現在の韓国)にご親族がおられたので、そこで会座が持たれ、五日間講義しておられます。
(註) ここで先生のお名前の変更について触れたいと思います。実は先生は四十二歳の時、ご自分のお名前を、今までの“狂風”から“夜晃”へと変えられました。狂風と名のられたのは二十四歳の時ですから、あれから十八年たち、先生ご自身の心境も大きく変わってこられました。そのことについて先生は次のように述べておられます。「これひとえにみ法を求め、大信海に生かされ、念仏の境の静かに深まらんことを念じ、無明の大夜に影現したまう法身無極の光輪、寂静の光に生かされんことを切念するがゆえであります」。
ちなみにこの「夜晃」という名前は、『無量寿経』の本論の初めに出てくる五十三仏の中にある「夜光」から取られたものです。「光」の一字を「晃」に変えられたのはお考えがあってのことでしょう。この本では最初から「夜晃」というお名前で通していることをご承知下さい。
真実のみが末徹りたもう
昭和十三年、先生四十四歳の時、団創立二十周年記念聖会が開かれました。八月はじめの一週間の夏季聖会がそれに当てられたようです。先生はこの時の深い感慨を「創立二十周年を迎えて」というテーマで、十数頁にわたって「光明」誌に書いておられます。そこには、法難にも等しい数々の苦難を経て、ようやく人の面でも、施設の面でも宗教団体としての基盤が確立した団の現状に大きな喜びと使命を感じておられる先生のお気持ちがよく現われています。
先生は、「よくも続いて下さったものである。まず私に押し寄せるものは深い感謝である。」と、本仏、世尊、聖人はもちろん、草創期の団と先生を支えて苦労を共にされた多くのお同胞の厚い護念とご精進に対して、改めて尽くせぬ感謝の念を述べておられます。「同胞は如来より賜った私のすべてである。」とはこの時の先生の言葉です。
目前に仰ぐ善知識をお持ちにならなかった先生にとって、親鸞聖人こそ約七百年の時間をこえて生きてまします善知識でした。それはインドの世親(天親)菩薩が約七百年の時を超えて、「世尊、我一心・・」と、釈尊をこの上ない善知識として仰がれたのとよく似ています。と同時に、先生にとっては、何よりも仏法を大切にして、身柄全体が念仏になっている田舎の素朴な同胞こそ、仏法の真実を証明してくれるかけがえのない善知識だったのではないかと思います。
二十周年を迎えられた先生の言い尽くせない深い感慨を結ぶ言葉は、「ただ、大法の如く歩んで恐れざれ。真実のみ末徹りたもうがゆえに。」でした。「ただ、大法の如く」とは、人間の一切の我執を超えきった清浄真実なる仏法に、われらの人間的な私情を交えないということであり、具体的には長年の同胞といえども、仏法によらないで、人間的な愛情(情実)によって結ばれてはならないということでした。これは言いやすくして中々出来ないことです。それについて先生は、「人来たれば大法の如く、人去れば大法の如く、賞讃にも大法の如く、非難にも大法の如く・・・」と述べておられます。
「真実のみが末徹りたもう」この一句こそ、先生のご生涯を貫いて変わらぬ不動の信念でした。夜晃先生ほど真実を問題にされ、真実を渇仰された人を私は知りません。しかしその先生にはるか先立って、真実を何よりも大切にされ、真実の前に一切の妥協を排された方が親鸞聖人でした。「顕浄土真実教行証文類」こそ聖人の主著の名前でした。したがって聖人にとって真実とは如来そのもの、如来のすべてであり、如来と別にどこかに真実があるということはありえないことでした。夜晃先生はその聖人の御こころをだれよりも明らかに、誰よりも深く頂かれたのです。
先生は「仏法者は如来・真実を生きる人である。」とおっしゃいましたが、如来・真実を生きるとは、真実まことのかけらもない我執のわが身を、如来・真実に照らされ続けて歩むことです。虚仮不実のわが身に目覚めて、如来真実の前に懺悔念仏することなくして、如来・真実に生かされることは金輪際不可能なことです。
「真実のみが末通る」とは、決して自分の中に真実を肯定することではなく、どこまでも虚仮不実のわが身に徹して、如来・真実を仰ぎいただく(讃嘆する)こと、このことに尽きるのでした。私の中に真実・まことがある、私はまごころを持った人間だと、わずかでも〈真実〉をわが身の上に肯定しようとすると、「そう思ったとたんに、その〈真実〉は、たちまち羽根が生えて飛び立ち、お浄土に帰っていく」と、先生はユーモアを込めて教えて下さいました。
真実のかけらもないわが身に目覚めてみると、そのわが身はすでに如来真実の中にそのまま摂めとられていたのです。したがって先生は「一切の苦悩は、真実の発揮される舞台である」とおっしゃいます。これは先生の数々の痛切なご体験をくぐって生まれた言葉でしょう。
このごろの先生の胸に去来するものは、私は仏法のために自分のいのちを惜しみなく捧げたいという捨身の思いでした。先生には、「汝、大法のために身命を捧げよ」という内なる声が聞こえていたのです。そのことを、先生は「光明」誌の「二十周年を迎えて」という文章の中に、「私の心の底の声が、微かではあるが、汝は大法のために死ねとささやいた。」と書いておられます。先生はちょうどこの十年後、五十四歳でお亡くなりになるのですから、その十年前にはやこの予感がおありだったのでしょうか。あるいは、先生はこの四年後の四十八歳の時、腎臓病が発覚しますので、すでにこの頃からお体の不調を感じて、自分はもうそんなに長くはないと思っておられたかも知れません。
本部の庭の石碑に刻み込まれた先生の言葉 「生命を継ぐ者は生命を捧げてゆく」は、このような先生の胸中から生まれたものに違いありません。
夜晃先生と青年
夜晃先生の青年に対する思いには特別深いものがありました。先生の最晩年の文章を集めた『難思録』の中に次のような言葉があります。
「青年よ。我が愛する青年よ。私は君たちを見ること、接することがこの上なくうれしい。この心を仏天のあわれみましましてか、来る講習も来る講習も若人によって満たされてある。初めてわが光明団の講習に来た人は、あまりに青年によって満たされているのに驚かれるようである。噫、青年。君たちを思うと、熱いものの胸に満つるを感ずる」。
その夜晃先生と青年とのかかわりについて、具体的な事実を見てみたいと思います。
① 女塾の創設
昭和十三年(一九三七年)四月、先生は結婚前の若い女性を預かって教育する女塾を始められました。遠近を問わず、同胞の娘さんが集まってこられて先生の薫陶を受けられました。常時十数名おられたのではないかと思います。塾頭は先生の岳父の石井梅窓先生でした。当時、石井先生の自宅が本部の近くの古江の高台にあったので、塾生はそこで寝泊りして、本部に通っていました。塾生は、聞法だけではなく、行儀作法や、当時の女性の身に着けるべき和裁、華道、茶道なども習っていました。石井先生も『論語』などの古典についてお話しておられたようです。本部で大きな会座があるときは、その前準備を手伝うこともありました。先生はこの塾生一人一人に対して、どうか念仏申す人になってくれよとの熱い願いを持って、惜しみない愛情を注いでいかれました。
この女塾は昭和一九年まで六年間続けられました。この期間に塾に入られた方がどれくらいおられたのか一寸はっきり分かりませんが、この女塾が縁となって、その後熱心に聞法され、僧伽を支えていかれた方々がたくさんおられます。
② 健民修練所の寮
昭和十八年九月から昭和二十年三月まで、呼吸器系の病気にかかり、回復途上にある広島文理大、高師等の学生のための健民修練所の寮が本部の中に設けられました。この修練所は、当時、厚生省、文部省の指令によって全国の大学、高専に設けられたもので、その寮として選ばれたのが光明団本部だったのです。先生は学生への強い願いがあって引き受けられたのだと思います。三ケ月を一期として終了することになっていて、四期間の学生を預かられたようです。修練生の日課は決まっていて、彼等が夜晃先生の話を聞くということはあまりなかったようです。終戦後、健民修練所はなくなっても本部に残った学生が少しあり、その一人が岡部史郎先生でした。また、修練生の指導学生として本部に滞在された細川巌先生(当時は広島文理大の学生)は、夜晃先生の法話を聞かれて仏教に関心を持たれ、第一期の修練期間が終わった後も本部にとどまって、十二月初めの一週間の報恩講講習会に初めて参加されました。この会座での夜晃先生との出遇いがなかったならば、後年の細川先生の誕生はなかったのです。不可思議なご縁としかいえません。
③ 師範学校学生とのかかわり
細川先生が広島文理大卒業後、広島師範学校の教師になられたために、先生の勧めによって師範学校の生徒が本部に出入りするようになりました。夜晃先生も二十年の四月と六月の二回、広島師範学校で教職員と学生に対して講演しておられます。さらに細川先生は、学生課に申し出て、広島師範学校本科の第二寮を光明団本部に設けることを提案され、それが受け入れられて同年七月初め、十八名の学生が本部に移り、広島師範学校男子部高須寮として発足したのです。寮生は朝夕、仏前で「正信偈」をあげて勤行し、夜晃先生の法話を聞き、昼は毎日、宇品港のすぐ近くの金輪島の暁部隊に通って勤労奉仕していました。戦争末期の、物資のないこの時期に学生寮を引き受けることは大変な負担でしたが、夜晃先生の熱い念願によって実現しました。
やがて八月六日、広島市内に原爆が投下され、目を覆うような惨状の中、この高須寮生が細川先生の指導の下、被災市民の救護活動に挺身して、大きな成果を上げ、後に細川先生は広島市長から感謝状を贈られました。(『光明団と広島師範と軍港宇品と原爆といま』という書物による)
その頃の本部には師範学校生以外の学生も多数出入りしており、清明寮の名も出ているのですが、その輪郭や実態がはっきりしないので割愛します。ただ夜晃先生の青年に対するご教化として注目すべきことは、昭和十九年の一月から主に学生対象の「土曜講座」を始められ、二十三年六月まで約四十六回続けておられることです。多い時は毎週ありました。講題は最初からしばらくは「歎異抄」で、終わりごろは「大乗起信論」でした。先生の青年に対する熱い念いを感ぜずにはおられません。