三、決断と受難の時代
『住岡夜晃先生と真宗光明団』より

大いなる決断の時
 先ほど触れたように、五周年大会のあと、宗教活動をするのなら教職をやめよ、教職を続けたいなら光明団運動をやめよと迫った一部の青年がその主張のよりどころにしたのは次の文書でした。
 「教員タルモノハ常ニ寛厚ノ量ヲ養ヒ中正ノ見ヲ持シ就中(なかんずく)政治宗教上ニ渉リ執拗矯激ノ言論ヲナス等ノコトアルヘカラズ」
 この文書は、明治十四年に出された「小学校教員心得」(文部卿 福岡孝弟による)の中の一節のようです。この文書を根拠にして一部の青年が村当局に迫ったので、村も無視できず問題にせざるを得なかったのです。この文書を持ち出した意図は、盛んなるものを妬み、光明団に致命的な打撃を与えることにあったとしても、この内容そのものには一応の道理があり、いくら夜晃先生が教師として抜群な力量を持っておられて、生徒や保護者からの信頼が厚いといっても、あれだけ活発な運動をしてこられた手前、反論出来にくいものがあったと思われます。先生の宗教活動は、浄土真宗を大切にする土地柄と、今日のような厳しい政教分離原則を持たない明治憲法のもとなればこそ可能だったのです。したがって先生もただちにその道理を認めて、教職をとるか光明団をとるかどちらしかないと考えられたに違いありません。
 教職を捨てるか、光明団を捨てるか、文字通り人生の岐路にたち、ギリギリの決断を迫られた先生は孤独そのものでした。先生は大正十二年の「光明」六月号に、ご自分の心境を詳しく述べておられます。そのゆれ動く心の葛藤は、おおよそ次のようなものでした。(要点のみ)
 「教職を捨てる」ということは、“パンの資”を失うことであり、平安な生活を失うことである。また、飯室小学校に着任して以来満七年間、ひたすら愛情を注いできた学校と、無条件に自分を慕ってくれている純真な子供たちを捨てることである。子供の顔が一度に見える。先生先生と騒ぎ立てる教室のさまが浮かんでくる。かねて覚悟していたとはいえ、無限の執着が湧いてくる・・・。
 また、「教職を捨てるのはあまりに惜しい。もう数年もすれば恩給がつくから、今は一時光明団をやめて、それからまたはじめればよいではないか」というもっともらしい常識人の声もおのずから耳に入って来る。
 それに対して「光明団を捨てる」ということは、学問よりも名前よりも財産よりも、もっと高価な何かを得たい、永遠の生命、真実のいのちを得たいともがき苦しんでいるたくさんの若人の願いを、道心を無視することになる。あの山この山のおちこちで念仏申して生きている尊い兄姉の涙を裏切ってもよいのか、と内なる声はささやく。しかしその一方で、「あのように迫害されたら光明団はもう終わりだ。団員といっても一時湧いただけで本当に信仰の道に入ったものは少ないぞ」という悪魔の声も聞こえてくる・・・。
 先生は、だれもいない日暮れ近い学校の音楽室に入って、椅子にもたれてただ一人ジット考え続けられました。右すべきか、左すべきか、その岐路の内容について、先生は後に次のようにおっしゃっておられます。
 「右には栄達と幸福と安逸とが待ち、左には苦難と貧困と波乱とが待つ。よし右の彼方には地獄の火が待ち、左の彼方には光明の天地が横たわろうと、凡心はあくまで右にゆけと命じ、たとい脚下は火の海であろうとも、真理はあくまで左にゆけと命ずる」
 この言葉からすれば、この決断は先生にとっては、凡心(煩悩)と真理との戦いであったのです。
 沈思黙考されること約一時間、時計はもう夕方六時をまわっていましたが、先生はついに決断されました。
 「学校をさる!学校をやめて自由に如来の大悲を叫ぶのだ!」「教職に死して念仏に生きる!」
 そのときの、一切のはからいを超えて突然に飛び出した思いを、先生は端的に「生きよ!突破せよ!大死!」と言う言葉で表現しておられます。また、「魂の底から吹き出す力、自然にほとばしり出る、どうすることも出来ぬ、絶対命令」とも言っておられます。先生を超えた大いなる真理(真実) が、先生と一つになって、先生を突き動かしたのです。真理が凡心に打ち勝ったのです。その血みどろの戦いの時間がわずかに一時間であったとは!
 「私は私の生命の一道を歩めばいい。一緒に歩む方々が多いのを望まぬ。けれども人一人の歩みが真実であるならば、それは常に万人の道の開拓であった。・・・私は途中で(たお)れるかも知れぬ。誰でもいい、私の屍を越えて行かねばならぬ」
 先生はたった一時間で、このような決断をなさったのです。この決断がどんなに重いものか、どんなに苛酷な現実を招くものか、その前途がはかり知れない茨の道であることは、誰よりも先生ご自身がよく分かっておられたのに、先生はかの、法然・親鸞の両聖を打ち砕いた「吉水教団」の血の悲劇に思いを馳せて、「何という小さな試練だ!」と何度もつぶやかれたのでした。大正一二年(一九二三年)六月、夜晃先生二十九歳の時でした。もしこの先生の決断がなかったら、今日の真宗光明団はありえなかったし、この邪見憍慢な私が、親鸞聖人の真意(おこころ)に触れ、本願念仏の道に立つことは全く不可能だったと言わざるを得ません。

離郷と生活上の苦難
 同じ年の大正十二年十二月、先生は数十年住み慣れた故郷を離れて、老境を迎えられた両親と弟妹三人を連れて、広島に移られました。家屋敷、田畑、家具等を売り払って資金を作られてのことです。先生はこの一年に、教職を離れるだけでなく、さらに郷里を離れるという決断をされ、実行されたのです。先生にとって、この年がいかに大変な一年であったか分かります。それは先生を全面的に信頼して、先生の決断に黙ってしたがっていかれたご両親、特にお母さんの理解と決断なくしては不可能なことでした。
 なぜ一家をあげて故郷をあとにされたのか。それについて先生は次のように述べておられます。
 「生活が苦しいから故郷を去るわけでもない。都会生活をあこがれるわけでもない。私は一家の中心であるけれども、たびたび故郷の老父を()うにはあまりに忙しい体である。しかるに両親は老いゆくままに、ただ私を杖とも柱とも思って生きている。私は私の自由なる活動を欲するために、老いたる両親に一日でも安堵した生活をさすために、家を閉じて出ることにしたのだ」。
 先生は長男として、親に対する孝養とまだ幼い弟妹に対する養育の責任を決してなおざりにはされなかったのです。
 十二月五日の先生はご家族と共に、祖先墳墓の地に立って、故郷を離れる決意を報告され、静かに合掌して「讃仏偈」を唱えられました。その「讃仏偈」の最後の四句(「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」)を幾回となく口の中で繰り返されて、下の道から出発の時を知らせる自動車の合図も、しばし耳に入らなかったそうです。その時の先生の深い感慨は、どのような言葉をもっても表わすことが出来ないことでしょう。
 特に「讃仏偈」のこの四句は、法蔵菩薩が大誓願を説くにあたって、十方の諸仏に対して、私はたといどのような苦を身に受けようとも、一切衆生のために必ずこの念願を果たし遂げずにはおかないという一大決心を述べたものです。〈たとい身をもろもろの苦毒の中に()くとも、わが行は精進にして、忍びてついに悔いざらん〉、先生は、「私も故郷を後に、もろもろの苦毒の満ちた都会の地に飛び込まねばならぬ。・・・祖先を背に、社会を前に、私はどうしても法蔵のこの偈をわがものにせずにはおられない」と述べておられます。考えてみれば、夜晃先生の、仏法とサンガのために捧げつくされた白熱のご生涯と、光明団運動の原点はここにあったと言わざるを得ません。
 それにしても、何のあてもなく、助力者もいない街に家族を引き連れて出て行かれたわけですから、その生活は大変でした。後にその当時のことを振り返って、先生は「さながら喪家の犬のように食うにも困る日が続く」と述べておられます。
 赤手空拳、もとより一人の門徒もなく、定まった収入もなく、数人の家族をつれ、家賃(当時五十五円)を払っての生活は、想像することすら出来ないほど厳しいものでした。お母さんは当座をしのぐために度々質屋に通われなければならなかったり、先生もマニラ麻をつなぐ手内職をされた時もあったようです。
 それからの約五年間は、先生のご教化が広島市を中心に周辺農村地帯に広がって、次第に本団の基礎が作られていった期間でした。本団の六十年史年表によると、この五年間の先生の東奔西走は特筆すべきものでした。請われるままに、連日のように農村を中心とした県内のあちこちをまわって説法獅子吼していかれました。しかしそのご苦労は段々と実って、各地に次々と支部が出来、同胞も増えて、団の前途に大きな光を見出していかれたのもこの頃です。草創期の光明団と夜晃先生をしっかり支えた加計支部と福山支部もこの時期に出来ました。しかし本部は依然として借家住まいに変わりなく、初めは広島市外の三篠町に設けられましたが、翌年には市内の南竹屋町へ、さらに八丁堀へと、本部を転々と移されねばなりませんでした。
  
愛 別 離 苦
 ここで先生の私生活について少し触れたいと思います。先生は大正十二年八月、二十九歳の時、石田八千代さんと結婚され、三人の女子を(もう)けられました。しかしその長女の哲子さんが数えで三歳のとき、ジフテリヤという病気のためにアッと言う間に亡くなられました。ちょうど先生が福山に講演に行っておられた時でした。先生は電報を見られて大変衝撃を受けられ、すぐ帰られたもののその悲嘆と苦悩は底知れぬものでした。しかしその苦悩のはてに、先生はわが子の死を、今まで一度も受けたことのない大説法、無言の大説法として受けとめられました。この実相の前に、一切の理論も学問も崩れて間に合わない罪悪のわが身を引っさげて、涙の中にも、いよいよ一道を新しく歩んでいくことを誓われたのです。
 さらに翌年の昭和二年(一九二七年)九月、敬愛してやまない念仏の父、勘之丞さんが七十四歳で浄土に還ってゆかれました。先生は三十三歳でした。わが子と父親と、相次ぐ厳しい愛別離苦に出会われた先生の心境は察するにあまりあります。そのときの気持ちを先生は、「追えども追えども慈父は永遠にましまさず、語れども語れどもついに答えましまさぬ。写真と遺骨、地にある者の心は、愛別離苦の凡情にとらわれてはてなく暗い」と述べておられます。
 同じ別離でもわが子と父親とでは、その内容が大きく違っていました。お父さんは七人の子を育てるために度々借金されるなど、苦労の多い人生でした。しかし長男である夜晃先生をいつも「兄、兄」と呼んで大切にされ、先生がどんなに世間の非難や攻撃を受けられようとも、全幅の信頼を置いて、終始一貫先生の宗教活動を理解し、先生と苦労を共にしようとされたのです。そしてご自身は何よりも仏法を大切に頂かれ、何が出てきても念仏もうして、如来に救われきった人でした。したがってそのお父さんを失われた悲しみは、わが子を失った悲しみに比べれば、もっと静かな、底深い寂しさを伴ったものでした。
 先生はお父さんの尊い生涯を振り返って、次のように讃嘆しておられます。
 「求道を離れては、如来を離れては、父の一生はなかった。如来に救われ、如来に生きて、この世から生の一歩一歩が永遠への白道の歩みであった」。
 「父は久遠の如来と一体にてまします。慈父を(おも)うとき如来を憶い、如来のあるところに慈父まします」。
 先生にはもう一つの別れがありました。それは結婚して三人のお子さんを儲けられた八千代夫人との離縁です。あまりにも厳しい現実に、夫人は二人のお子さんを残して去ってゆかれました。これは、先生といえどもどうすることも出来なかった悲劇でした。先生の悲しみと苦悩のほどはいかばかりだったでしょうか。このように、先生の三十代前半は、次々押し寄せる生活苦、人生苦のために、先生の短いご生涯の中でも一番厳しい“試練”の時代でした。しかしこのような赤裸々な苦悩をくぐることなくして、その後の夜晃先生と「光明団」の大いなる飛躍はなかったと言えるかも知れません。

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