二、光明団の創立
『住岡夜晃先生と真宗光明団』より

「光明団」の誕生
 飯室の学校に移られた先生は、「念仏はないし、孤独そのもので、ただ闇の中に苦しんでいた」と述懐しておられますから、ご自身の人生について真剣に苦悩しておられたようです。先生はその自己と人生の根本問題を解く鍵をどこまでも仏教の中に求めていかれました。そこで、村内にある「養専寺」の経蔵に入って熱心に大蔵経をひもとき、経・論・釈を読んで求道精進を続けていかれました。その結果、二十四歳の夏、「信の火がかすかに点ぜられ、如来の慈光によみがえる」とおっしゃっておられますように、ようやく如来・真実と出遇われたのです。ご自分の名前を“狂風”と名のられたのはその時です。
 “狂風”という名前について、後に先生自身は次のように語っておられます。
 「私が狂風と号したのは、私が(数えで)二十四歳の年でした。何ゆえに狂風と言ったか。・・・その頃の私は、私自体の無明煩悩も狂風そのものでしたし、大悲の風もまた私を根こそぎ動かす激しい風でした。最初の念仏の夜もまた狂風吹きすさぶ夜でした」
 たとえかすかであっても、「信の火」が点ぜられたということは、長い間自分を閉じ込めていた自我の煩悩の殻が破られて新しい自己が誕生することです。“狂風”とは、その新しく誕生した自己の名前だったのですね。その新しく生まれた自己は、もうじっとしていることは出来ません。それが、大正七年(一九一八年)十一月十五日に、住岡狂風という名前によって発表された、「親しい若い皆様よ」と題する檄文(げきぶん)だったのです。先生が二十四歳の時でした。檄文とは、 自分の信念を述べて多くの人に呼びかけ、新しい行動を促す文という意味です。
 後でまた触れますが、「光明団」という求道団体は、実質的にはこの檄文によって呱々の声を上げたといってもよいかと思います。先生ご自身は、翌年(大正八年)一月の、機関誌「光明」第一号の発刊をもって、「光明団」の誕生と考えておられますけれども、この檄文の発表と、翌年正月の「光明」の発刊とは深いつながりがあるわけですね。檄文は吉坂小時代の卒業生や先生の話を聞くために集まっていた青年たちにも出されていたはずですから、反響が相当あったに違いありません。「光明」の発刊はすでに先生の計画の中にあったとしても、檄文に対する反響がその後押しになったことは間違いないと思われます。
 さて「檄文」の対象は、その題名〈親しい若い皆様よ〉から分かるように、どこまでも若い青年男女でした。宗教は老人や病人のためのものであって、自分たちには必要がないと考えているまだ若い健康な青年こそ、本当は一番仏教を必要としている存在だと見破っておられた所に先生の優れた先見性がありました。もちろん先生ご自身まだ二十代半ばということもありますが、仏教、特に親鸞聖人によって明らかにされた本願の仏道の本質を直感的に見抜いておられた先生の領解と思索の確かさをそこに感ずることが出来ます。
 「檄文」の書き出しの言葉は次のようなものでした。
 「親しい若い皆様よ ! 皆様は今何を考えて暮らしていますか。何をなして暮らしています?何を聞いて暮らしていますか。朝から晩まで考えることは、自分の利益にのみなることや、他人(ひと)の出世や幸福(しあわせ)を見て、(にく)むことや、どうかして他人に自分を賢く美しく思わせることばかりが多くはありませんか。皆さまは、濁った濁った世の人々が、自分のほうに自分のほうにと、自分の利益になることや名誉になることばかり考えたり、犬畜生が一匹の魚を争うように、人と人とが争い乱れているのを毎日見はしませんか。皆さま、こんな人たちの中で、やはりその勢いに引かされて、自分の利益や名誉にのみなることや、他人の財産や幸福や風体(なり)を見て、ねたむことや、親兄弟友人を泣かすことや、むだなお金を使うことや、自分の不幸を嘆くこと、こんな事をなすことが多くはありませんか」。
 一読してお分かりのように、先生はまず、このような具体的な言葉で私たちのありのままの現実に問いかけられます。これは一口でいえば、“君はそれでよいのか”と言う問いですね真“私の生活はこのままで本当によいといえるか、何も問題は無いだろうか”と言う私への問いかけです。私たちは本当は、真実なるものからこのように問われている存在です。その大いなる問いの前にしっかと立つということが道を求めるということであり。宗教への入り口なのです。つまり自分のことしか考えられない我執と虚偽と怠惰に満ちた私の赤裸々な現実に目が覚めるということ、そしてその自覚にたって新しい自分になろうと決意すること、これがこの檄文で先生がどうしても伝えたかったことでした。そのために先生は、この次の文で先生ご自身の痛切な懺悔の言葉を出しておられます。
 「ああ!私はつまらない人間です。心は悪いことのみ多く考えていました。目は、悪いことやつまらないことを見るのが好きでした。耳は、世の中の卑しい出来事や、他人の不名誉になることや、無駄なことのみを進んで聞きました。口は、他人を悪くいって・・・欺いたり、自分を飾るために一番よく使いました」。
 そしてどうか今までの自分のあやまりに目覚めて、ぼくと一緒に正しい人、真の人になろうと呼びかけて、「心の琴線がぼくの心と共に鳴る人、そうだと感じて大勇猛心の起こった人、覚めようと思う人は、一人でも、友達と二人でも、兄弟姉妹と三人でも、ぼくの所に何か書いて送って下さい。」と結んであります。
 この檄文を貫いているものは、どうしてもよびかけずにはいられない先生の燃えるような“熱”です。理論ではない、熱が人を動かすのですね。この檄文の全文は、後ろに資料として出していますのでご覧になって下さい。
 さて、光明団の機関誌となる「光明」の第一号は、大正八年(一九一九年)一月、広島県安佐郡飯室村の飯室小学校の粗末な狭い宿直室で、謄写版刷りで生まれました。それは雪の降り続く寒い日でした。発行部数は数十部だったようです。しかしこの「光明」を見た村の三、四十人の若者たちはただちに反応して、先生のところへやってきました。先生はこの「光明」の発刊について、後に、「彼(『光明』)の使命は、決して今日の如く大きなものを理想(予想?)せられてはいなかった。一村の問題であり、青年仲間の小さい営みであったのだ」と述べておられますから、初めから「光明団」という宗教団体を作るおつもりはなかったのではないかと思われます。
 実際に初期の「光明」の先生の文章の中には仏教用語は全くありません。書いてあることは、専ら正しい人としてどう生きるか、苦しいことから決してにげてはならないといった人の道についてです。しかし「光明団」という名称は初めから使われていますので、「光明」をはじめて見た人は、これはてっきり修養団体だと思われたに違いありません。先生の本心はもちろん親鸞聖人の教え、浄土真宗の教えを自ら頂き、人に勧めることにあったのですが、それは心中深く蓄えてしばらくは表面には出さず、表面では専ら人が真に人になる道を説くことに力を注がれました。そこに先生の深い配慮があったに違いありません。「光明団」の上に「真宗」をつけて、「真宗光明団」という名称を用いられたのは、五周年大会の後のことであったようです。
 考えてみると、私たちが宗教(仏教)によって救われるとは、人間として生まれた者が真に人間になるということ、人間として生きることの尊さに目覚めるということ、このことに尽きるという一面があります。人の道を説くだけならば修養と同じものになりますが、先生の書かれたものを注意深く見てみると、随所に目覚めるという言葉が使われています。この目覚めるという一点において、修養と宗教との間には天地の差がありました。なぜなら仏の智慧によらない限り人は自らの迷妄に目覚めることは出来ないからです。「光明団」の「光明」が、本来仏陀の智慧を表わしていることは明らかなことでした。
 毎月発行される「光明」が活版印刷になったのは二年後のことでした。それだけ反響が大きく、読者の数がどんどん増えていったのです。月々の印刷代と郵送代は、団員になって下さった人から紙代として、毎月三銭受け取っておられたようですが、とてもそれだけでは足りなかったので、先生の俸給の何分の一かはその費用に当てられました。また先生は田舎の両親への仕送りと弟の学資を出しておられたので、先生の生活は食べていくのがやっとという厳しいものでした。後に、「一足の足袋(たび)で一冬を過ごし、裏のない洋服で三冬を忍んだのもこの頃のことであった」と回想しておられます。
 また、「光明」誌発刊前後数年間の、先生の勉強ぶりはすさまじいものがありました。「午前二時、三時の起床、寝床を取らない幾夜、風呂にすら入らない幾週間。私にとってのなつかしい絵巻物である」とは、後年の先生の述懐です。
 また経済的ゆきづまりや反対運動など、幾多の苦難が次々と押し寄せて、「もうとても続けられない、今月限りでやめようと何度思ったか知れないが、そのたびごとに私を奮い立たせたのは、『念願は人格を決定す、継続は力なり』という私の信条だった、この信条から起こる声を聞くと、不思議に新しい道が開けた」、とも述懐しておられます。夜晃先生のご生涯を貫いたこの言葉が、すでにこの頃生まれていたことに注目したいと思います。
 もちろんその背後には、陰から先生を応援し、先生の力になってくださった方々も沢山あったことでしょう。

「光明団」の根本精神
 ここで「光明団」とは一体何か、どういう理念と方針を持った団体(組織)なのかということについて、創立者の夜晃先生が自ら示しておられる文章がありますので、それを紹介したいと思います。それは誕生してから九年後の、昭和二年(一九二七年)一月号の「光明」誌に載っている先生の文です。題目は、「本部より愛する諸兄姉のみ胸に捧げます 五つのおもい」となっています。ここには、先生のお考えがよく整理して出されています。
(一) 求道第一
 「光明団は日に日に大きくなった。それを見て一つにはよろこび一つには畏る。深く諸兄姉(みなさま)に求めなくてはならぬことは、どこまでも光明団は求道団体であるべきことである。共に一生をかかって如来のみ声を聞くのである。聞くことに始まって聞くことに終わる。法を聞くことによって私たちの信仰は深められ、現実の上に輝いて来る。聞くことをおいて信はない。聞くこと自身が信である。謙虚にひれ伏してみ教えをきく。そこにだけ、人間の汚い我執のとれた、如来によって与えられた世界がある」。(以下略す)
 光明団が求道団体であるということは、言い換えれば、どこまでも聞法に徹底して、団員の葬式・法事などは行わないということです。(ただ例外として、年に一回その年に亡くなられた団員の追弔法要はいたします。)
(二) 信仰第一
 「何よりも信仰が第一である。人はともすれば信仰を獲得することよりも、運動()になりやすい。運動家にはいつでもなれる。事業よりも、学問よりも、運動よりも、第一番に信仰を得させてもらうことである。理論ばかり分かっても、それが血のしたたる信念とならぬ時、力はない。信仰は力である。死線すら越える力である。信仰がなくて、学問や解釈だけになった時、高慢になる。語る話は売り物になる。親鸞聖人はそれを嫌われた」。
 「 六字(南無阿弥陀仏のこと)が生命となる。如来が私の生命となる。老人でもいい、女子でもいい。青年でもいい。小僧でもいい。信仰の生きた人のみが光であり、力である」。
 「光明団はどこまでも団則によって出来た会ではない。如来によって結ばれた、自由な求道団体である。信仰によって結ばれた兄弟としての集いである」。
(三) 無抵抗の宣言
 「真実のみが(みなぎ)る世界なら真実の前には非難はない。しかし世間は真実によって(みた)されてはいない。だから真実すらも非難され攻撃される。釈尊でも、キリストでも孔子でもソクラテスでも、常にこの敵のために苦しめられてきた。然るに聖者たちは決して自ら求めて戦わなかった。・・・唯彼らは、攻撃が来ても、迫害が来ても、流罪が来ても、死刑が来ても、何が来ても ちっとも怖れずに、自分の信じる道に突進した。そこには一歩の妥協もない」。
 「死刑にされれば死刑にもなった。反対するものがあればその村を過ぎた。流罪も素直に受けた。貧苦も受けた。彼らは大概無抵抗であった。無抵抗のままで、信念の大道を悠々と進んだ」。
 「愛する同胞よ。非難されても、攻撃されても、迫害されても、無抵抗のまま受けていこう。決していらぬ議論や、言い訳やに道草を喰ってはならぬ」。
 「我等の戦は決して外へではなくて、内へでなくてはならぬ。心の内には戦いがなくてはならぬ。貪欲、瞋恚、愚痴、高慢、邪見、嫉妬、横着、等さまざまな大敵がはびこっている。恐るべきはこの敵であり、賊である。私たちは勇士でなくてはならぬ。・・・自分と戦う戦士であり、勇士でなくてはならぬ」。
(四) 同胞愛の深化
 「親鸞聖人は、御同朋・御同行とおっしゃった。隣人愛の深まった世界である。私どもは聖人のみ心をみ心として、浅薄な功利的な人間愛によって愛しあってはならぬ。浄化された如来回向の信仰によって結ばれてあらねばならぬ。それこそ地上においてたどり着くべき一番深い聖愛の集いである。
 如来によって結ばれた以上、誰とも手を切ろうとしてはならぬ。如何に団員の人が罪悪におちて行こうとも、手を切ろうとするのは自分の罪悪を知らない善人顔の人のことである。しかし縁尽きて逃げる人を無理に引きとめようとしたり、或いはその人を非難したりするのも、それはまだ世界が深まっていないからである。縁あれば伴い、縁なければ離れてゆく。それがわかるのは深い智慧の世界においてである」。
 「私たちは一人でも多く友を求めようとする。一人でも多くの人に法をすすめようとする。しかしもし如来を忘れ、我を取り落として、唯他人の世話ばかりになったり、勢力を拡張することにかかわったりする時、聖愛の天地を出て人間我執を出して、囚われの世界に泣くのである」。
 夜晃先生にとっての光明団は、師と弟子という縦の関係ではなく、どこまでも本願によって必然的に結ばれた横の関係、つまり平等な友・兄弟(姉妹)の共同体でした。この点、先生が「親鸞は弟子一人も持たず」との『歎異抄』第六章の(こころ)に立っておられることがよくわかります。
(五) 量よりは質、幅よりは深さ 
 「光明団はどこまでも、数量よりも質を求める。皆内容の充実した粒になろう。吹けば飛ぶような無内容の人たちが集まって騒いだって、烏合の衆は弾丸の音一発、聞いたら逃げてしまう。学問を言うのでもない。地位をいうのでもない。もちろん富でもない年齢でもない。心の内に如来回向の信仰が充実した、重い重い粒になろう。・・・量よりは質、質の充実こそ私どもの眼目である。
 学歴がある。地位がある。門閥がいい。財産がある。世間から知られている。それらは人の間口であり幅である。今の時代は幅をほしがる。間口だけを広げたがる。しかし真の力と、真の光は、奥行き、深さの世界に出なければあり得ない。釈尊でも親鸞聖人でも、深さの人であり、奥行きの深い人であった」。
 「団そのものの精神、団の同胞の生き方は、どこまでも量よりは質、幅よりは深さを生きることが精神でなくてはならぬ。深さと充実のあるものだけが永遠であり、光であり、力である」。
 最後に先生は、広げれば五つになるが、帰着するところは信仰(信心)であると述べておられます。信心の獲得を第一にするとは、「一人たりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候」と喝破された蓮如上人の御精神と等しいと言うことです。また、光明団は何よりも親鸞聖人の教えを大切にし、聖人によって明らかにされた信心・念仏の道を共に歩む僧伽(サンガ)です。しかし東西の本願寺には属さない独立した純粋な求道団体でした。先生ご自身がついに僧籍を持たれなかったことも団のあり方と大きな関係がありました。

盛況だった五周年大会
 先生の身を削るようなご苦労の結晶である「光明」誌の反響は大きく、一年、二年とたつうちに団員の数もどんどん増え、大正十一年の暮れから十二年にかけて、地元飯室の青年男女はもちろん、公職について村を支えている人々までが、先生の主張に耳を傾けるようになりました。毎月の例会は幾百人の人で会場が一杯になり、立錐の余地もないくらいだったそうです。先生は学校では主席訓導(今日の教頭職)として責任を十分に果たされつつ、日曜や休みの日はあちこちから頼まれて講演に出かけられるという多忙さでした。
 大正十二年(一九二三年) 三月の末の二十九〜三十一日の三日間、光明団五周年記念大会が飯室の養専寺を会場にして盛大に挙行されました。養専寺の御住職の全面的なご協力があってのことです。記念大会の講師は、当時華々しく活躍をしておられた仏教済世軍の真田(さなだ)増丸先生でした。
 夜晃先生の妹さんの花岡美津子さんの回想録によると、五周年大会の宣伝のために、自転車の宣伝隊が十台ずつ、花をつけて三方に向かって繰り出されたそうです。当日はお寺の門前には光明団五周年大会のアーチが立てられ、イルミネーションが明滅して、境内はお参りの人であふれていました。すでに近隣の村はもちろん、広島市内にも光明団の支部が出来ていましたから、その人々がこぞって参加されたのです。もちろん参加者は団員だけではありません。本堂の外に大きく掛け座が作られていましたが、それでも足りないで、第二会場まで用意されていました。まさに飯室村は全村あげて光明団一色となり、村長さん以下村の幹部までが大会の役員となって三日間の大会を支えて下さったのです。今日では全く考えられないことですね。
 真田増丸先生の講演について、夜晃先生は次のようにおっしゃっておられます。
 「明確な純一無雑な信仰を説き、徹底せる報謝の生活を叫び、政治にふれ、吾人の使命を絶叫する先生。説く人もなく、聴く人もなく、会場もなく、時間も知らず、全てこれ融和して一つの三昧あるのみ」であったと。
 このように五周年大会は想像を超えた盛大なものでしたが、それではこの大会は何か浮わついたお祭り騒ぎ的な一時的な行事であったのかというと、決してそうではなかったのです。確かに感激して会場の雰囲気に酔うという一面もありましたが、それも仏教、本願の教えの真実に触れた喜びから生まれたものであり、深い懺悔を伴った感謝の表現だったのです。したがって夜晃先生は、静かな、底力のある感動が会場にみなぎっていたとおっしゃり、真田先生も「静かな盛んな大会」とおっしゃったようです。このようにして多くの余韻を残して五周年大会は幕を閉じたのでした。しかしその直後に、光明団の存立を揺さぶるような大きな試練が待っているとは、さすがの夜晃先生にも分かりませんでした。

異安心の非難
 予想をはるかに超えた盛況であった白熱の大会が終わると、それを待っていたかのように、「青い魔の手」が動きはじめました。光明団は異安心である。俗人で教職にあるものが仏法を説くとは何事か、教職にいたければ光明団をやめよ、光明団を続けるならば教職を去れという声がにわかに噴出したのです。すると今まであれほど熱心に光明団の活動を支持していた人々の多くが、手の平を返すように光明団を批判する側にまわり、次々と団を離れていく人が出てきました。何ということか!先生は、風見鶏のように、世間の風の向きが変わるとたちまち今までの態度を変えていく人間の正体をイヤが上にも見せつけられました。ゼロから出発して丸四年、ようやく軌道にのり、大きな手応えを得たと思ったとたん、絶望のどん底に突き落とされたような衝撃と苦悩を体験された先生の心中は、察するに余りあります。このような厳しい現実を、先生は“法難”として受け止められました。
 「異安心(いあんじん)」とは、安心とは信心の異名で、信心がまちがっているという意味です。それもどこかしかるべき機関できちんと審査された結論ではなくて、自分たちの今までの領解とは異なった、新しい考え方や行動に対して、それを排除して自分の立場を守るためにすぐに貼り付けられるレッテルのようなものでした。したがって、すべてがそうではありませんが、その多くは偏狭のそしりをまぬかれないものだったようです。今、「異安心」の問題と「教職と宗教」という問題とは、一緒に出来ませんので、ここでは、異安心の問題について取り上げます。
 この「異安心」の問題は、その後の光明団の前に立ちはだかった大きな壁でした。では異安心とは一体どのような内容なのでしょうか。
 この年の八月、郷里の本立寺で、火事で丸焼けになった本堂の新築の慶讃法要を兼ねた盛大な盆会が行われました。その時見えた高名のご講師(和上)が、開口一番次ぎのような話をされました。この和上は最近の夜晃先生の活動や三月末の光明団五周年大会以後の世間の動きをよく知っておられたに違いありません。
 「聞くところによれば、この部落には狂風とかいう青年教師がいるそうだが、仏さまの道は、そんな師範を出た小学校教師の青二才などに、一年や二年で会得できるほど簡単なものではない。はっきり言うが、狂風氏の説教は異安心である。そんな説教を聞いていると皆地獄に落ちるぞ」(要点のみ・田鶴代さんの文)
 一緒にお参りして和上の説教を聞かれたご両親を始め住岡家の人々の心はどんなに傷つけられたことでしょうか。傷心して家に帰ってみると、お父さんは枕をビッショリぬらして泣いておられたと、田鶴代さんは述べておられます。
 落ち着きを取り戻したお父さんは、「兄はやっぱり異安心かも知れん。もし異安心ならばこれは絶対に許されん。どれだけ多くの人を迷わすかもしれん。母さんはどう思うか」と聞かれました。お母さんは“流し”に行って涙を洗い流して、仏前に正座して香をたき、合掌礼拝して、そのままの姿勢で、「お父さん、これから兄の歩みます道のいかに厳しいか、今日み仏さまに見せて頂きました。兄の苦難な道は想像以上だと思われます。しかしどんなに険しい道であっても、仏さまを信じていく兄の道をついて行きましょう。兄を信じましょう」と答えられました。お父さんも「兄が異安心だと周囲から白眼視されても、真実のみ教えを、もう兄から奪うことは出来まい」と納得されて、ハラを決められました。このように、夜晃先生のご苦労の背後に御家族の全面的な理解と支援があったことを私たちは忘れてはなりません。
 当時の「異安心批判」の多くは誤った他力思想から来るものでした。この問題について先生は、大正から昭和にかけての団の機関誌「光明」の中で取り上げて、厳しく批判しておられます。その中に次のような一節があります。
 「・・・こうなると飯を食えば自力、講演や説教を聞きに行けば自力、目覚めると自力、なんでもかでも自力になって遂には他力で救ってもらうといえば寝ておるより外には仕方がない。こんな馬鹿な他力を釈尊が説かれたり、七高僧や親鸞聖人などが体験したり、書き残したりされたのであろうか。もしそんなものが他力であるならば、他力思想はもっと昔に亡んでしまった筈である」。
 先生は仏法を聞いて目覚めるためには決して努力精進を惜しんではならないと、努力の必要性を誰よりも強調されました。もちろんそれは私の努力の結果目覚めるとか救われると考えておられたのではありません。仏の本願(他力)による以外にこの私が愚か者と目覚めることも、救われることもありえないことは重々承知の上で、そのためには私の努力精進を尽くす必要があると考えておられたのです。なぜならその本願に帰するためには、自力無功と自分の努力の限界にはっきり目覚める必要があるが、それが自力をよりどころにしている私たちには難中の難なのですね。努力とはそのための努力です。矛盾するようですが、努力の間に合わない、したがって努力の要らない世界に目覚めるためには努力を尽くさなければならない。仏法は聴聞に尽きるといわれるけれども、聞法ほど努力のいるものはありません。
 「法蔵(菩薩)の大願力に目覚めた者がどうして眠っておられよう」「懈怠なる者が浄土にゆくことは、河の水が下から上に流れていくよりも困難である」とは、その頃の「光明」誌の中の先生の言葉です。そのような先生の教えに対して、「めざめよというのは自力である。そんなまちがった教えに迷うてはならぬ」と批判した説教師があり、また先生の講演を聞いた同行の中に、「この先生の話は、このまま救うぞがないから異安心だ」と語ったお年寄りがあったそうです。
 このような誤まった他力思想に染まっている同行には、次のような二つのとらわれがあると先生は指摘しておられます。
 @ このまま救って下さるという言葉を持ってきて、その上に腰を下ろしていること。
 A この悪い心(煩悩)はなくならないのだ。仏様はこれをなくして来いとは仰らないのだ、と煩悩の自分をゆるしていること。
 他力の教えが煩悩具足の凡夫をこのまま無条件に救って下さる教えであることはまちがっていませんが、それは仏の智慧によってこのままの煩悩の自分を徹底的に全否定されない限り言えないことです。助かる資格も手がかりも全くない煩悩具足のわが身とはっきり目覚めた者だけがうなづくことの出来る教えです。それを慚愧(ざんき)懺悔(さんげ)もないものが結論だけを握って“このままのお救い”といったところに根本的な誤りがあったのですね。その他光明団と夜晃先生に対する異安心の批判は、まだまだ色々ありました。それは後にまた触れたいと思います。

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