9.自分を根拠に生きなくていい


□金 光 先ほどご紹介いただいた関先生のお手紙の中の「お念仏『南無阿弥陀仏』をいただいたゆえに生きることができ、お念仏いただいたゆえに死んでゆけます」といったことばの中に、自分を育てて生かしてくださっているすべての働きを込めて、そのことばで表わしていらっしゃるという感じが伝わってきますね。
■志慶眞 そういう大きい世界からの先生の声だという感じがいたします。
□金 光 日頃そういう呼びかけを受けて生活をしていらっしゃる人からは、そういうことばがまた自然に出てくるということですね。それを受けた細川先生のお手紙にも、また同じような波長のことばがあります。それはもう永遠の世界とつながって生きているということになるわけですね。
■志慶眞 そうですね。だから生と死を支えている大きな世界ですね。私たちは生か死かと分けていますけれども。
□金 光 これは分別の世界で言っているだけで、死は別と思っていますね。
■志慶眞 だからその生と死を支えている大きな世界が本当にいただけるかどうかが問題ですが、これは自分というものの限界に出会わなければ、観念で理解しようとする以外にないですね。結局、真実の大きい世界に出会うということと、私の正体が明らかになるということは切り離せないことだと思うのです。そういう世界がここには語られているのです。
□金 光 自分に出会うという場合、何か自分という塊がどこかにいて、日頃気がつかないでいたのが、やあこんにちはと会ったかのように考えられるかもしれませんが、どうもそういうことではないようですね。自分に出会うとは、自分の正体を教えられるということでしょうか?
■志慶眞 私の中に煩悩があるのではなく、煩悩に名前をつけたのが私で、どこまで行っても私は煩悩なのです。だから人間の上に真実とか正義とか立てることは、本当はできない。
□金 光 それはいわば「われ−なんじ」の関係であれば、「なんじ」のほうにのみ正義や真実があるということでしょうか?
■志慶眞 そうです。正義も真実も、すべて仏さまの世界のものです。そこに返すべきものを、私どもはそれが見えないために自分に立てようとする。そのせいで、さまざまな悲惨なことが起こってくるのではないでしょうか。
□金 光 だからそういう正義・真実を自分のものにしようと努力して、できたつもりでもそうはならなかったし、むしろそうでないことをいっぱいしている自分であったということに気がつくとどうなるのでしょう?
■志慶眞 ちっぽけな自分を根拠に生きなくていいのですね。ところがその大きな真実の世界に気づかないので、私どもは落ち込んだり、卑下したりするわけです。自分で自分の始末をつけようとするんですね。これでは生ききれないのです。私どもがこの裟婆でやっていることはみなこういうことなんです。
 けれども本当に自分というものは、煩悩具足の身であると気がついたら、私に真実がないことがわかる。落ち込んだり居直ったりするのも煩悩なんですね。そういうことがわかれば、私どもは大きい世界に頭を下げて生きる以外にないんじゃないでしょうか。
□金 光 そうしますと、自分自身を取り上げて、自分はこれができる、あれができるというようなことは言えない自分であるけれども、といって卑下したり、小さくなって生きる必要はない……。
■志慶眞 逆に大きい天地が与えられてくると申しましょうか。それまでは裟婆の自分のエゴがエネルギー源でしたが、この大きい世界をいただくと、真実の仏さまの願い、それがエネルギー源になってくるのです。一生懸命がんばることは同じなのですが、そのもとのところが違うのです。

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