1.「自分はいつか消えていく」


□金 光 志慶眞先生は沖縄県具志川市で小児科医院を開業なさっていますが、診察をなさるだけではなく、ご自身が仏法を聞き、一般の人々にも仏法の話を聞いてもらう機会をつくっていらっしゃいます。
 そもそもどういうことでお医者さんである先生が仏法との関わりを持つようになったのですか?
■志慶眞 沖縄では仏法の教えを聞く機会はなかなか無かったですね。私は昭和二十三年生まれで、十歳の頃のある夜、庭に出て満天の星空を見あげている時、その時に突然「ああ、自分はこの地上からいつか消えてしまう」という思いに襲われ、涙がぼろぼろと出たのを四十数年経った今でも、昨日のことのように覚えています。それが私にとっては、どうしてよいかわからないという問題の発端でした。
 十歳の頃までは、近くの米軍の通信隊から、チョコレートを持って来る外国人のジープを追っかけたり、朝から晩まで遊び回っておりまして、そういう悲しみや苦しみなどはとりたててなかったのですが、その十歳の時の体験を境に、生きてゆくのが辛くなったですね。もう何をしても、どうせ亡くなるのではないか、そう思うといても立ってもいられなくなったのです。それは一時的なものではなくて、小学校、中学校、大学と、ずっと自分を揺さぶり続けた問題でした。
□金 光 まさに生死の問題に直面させられたわけですね。
■志慶眞 そうですね。この問題をどう超えてゆこうかということで、いろいろな人の話を聞いたり本を読んだりしていました。誰か助けてくれという悲鳴に近いものが心の中にありましたが、それを解決できるめどもなく、とくに大学時代は学園紛争の時代でしたし、沖縄の復帰問題も抱えていた時で、どう生きてゆけばよいかわからず、今から思うと本当に生きるのが辛かったですね。
□金 光 そう聞きますと、哲学とか宗教を専攻なさるのが普通でしょうが、大学では工学や物理学のほうへ行っていらっしゃいますね。
■志慶眞 そうです。中学や高校では、倫理や哲学関係の本を読んでいました。けれども自分の助けにならなかったんですね。言う人によってそれぞれ違いますし、なんら確信的なことが自分に届かなかったのです。そのためそれを頼りにして生きて行こうという気はなく、逆に自分の思いとは別な、物理学や天文学に、生きる糧を見つけてゆこうかという思いでした。哲学などのように人によって変わるものは、自分の助けにならないという思いが、違う方向に自分を向けていったのですね。
□金 光 しかし、そちらの方向に行きながらも、大学時代に仏法に出会われたのでしょうか?
■志慶眞 いいえ、当時の沖縄には内地留学の制度がありまして、初めは愛媛大学工学部の電気工学科に進学しました。ところが入学してみて、自分がやりたかったのは応用的なものではなくて、もっと基礎的な物理そのものだったということがわかって、転学部しようとしたのですが、別枠でとっているのでそれはできないと言われ、とりあえず工学部を卒業することにしました。
 しかしその大学生活は生きていくのに四苦八苦と申しましょうか、大学を卒業する頃には本当に痩せ衰えて、高熱がつづき病院へ行きましたら肺炎と栄養失調だと診断され入院しました。その時に初めて、こんな自虐的な生活をいつまでもしていてはなんにもならない、自分の生きる支えにしたいと思っていた自然とか宇宙とか天文とかの学問に、もう一度自分を向けてみようと思い、一年間浪人して、広島大学の高エネルギー物理学という素粒子の実験をする研究室に進学しました。
□金 光 広島大学は、広島高等師範、広島文理科大学時代から金子大榮先生などがおられたり仏法の盛んな所ですが、そこで仏法に出会われたのですか?
■志慶眞 いや、単純にそういうことでもないのです。私は高校時代からどちらかというと禅宗関係の本をずっと読んでいました。高校、大学時代は道元禅師の本や臨済録を愛読していましたが、親鸞聖人や法然上人の教えは、まだ心に響いてこなかったですね。広島に行ってもまだお念仏の教えにふれる機会はありませんでした。
 私は大学の修士課程から博士課程に進むときに結婚しました。家内は熊本出身で、たまたま田舎で浄土真宗の話を聞いていて、それが縁になりました。家内が非常勤で物理学科の事務をしているときに、広島大学会館で細川巌という先生が歎異抄のお話をやっているということを聞いてきて、一緒に行かないかと誘ってくれたのです。しかし私はその頃、既成の仏教に反感を抱いておりまして、こんな葬式仏教では人間が救われるとは思えない、お釈迦さまの教えと全く違うものになっているじゃないか、いまさらそういう仏教を聞こうという気は起こらない、と言って家内の勧めを断り、その後七年間拒絶しつづけたのです。
 家内は毎月、聞法会に行っては、こういう話があった、こういう本がある、と報告してくれたのですが、初めは心に響いてこなかったですね。しかし先生の本が置かれてあると、やはり気になって読むわけです。そして六、七年経った時、この先生の話なら聞いてみようかなと思いました。自分のかたくなな心がとけるのにそれだけの年月が必要だったということでしょうね。
 素粒子の研究室にいた私は、人間の思いとは別の自然の真理を追究して、それで一生を終えるのならいいや、どうせ人間とは何かよくわからないのだと、どうにもならない絶望感のようなものがずっとありました。でもそういう生き方では自分の生死の問題は超えられなかった。一生懸命にやっているときはいいのですが、ふとわれに返った時にやっぱり、生きてゆけないという思いがあったわけです。
□金 光 子供の頃のこのまま死んでどうなるのかという問題は、素粒子の勉強をしても、どこか別なところにあったと……。
■志慶眞 結局、行き詰まり、私は博士課程を途中で退学しました。生きるのが辛くて、もう行くところがないと思った時に、自分のふるさと沖縄に帰ろうと思った。その時に、医者になった友人が何人かいたものですから、今からでも医者になれるかと聞くと、医学部を通れば年齢は関係ないという。それで医学部に行こうと思って勉強しだしたのです。ところが医学部に通るまで五年かかりました。その間、予備校で非常勤講師をし、五年目に広島大学の医学部に入学しました。

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