10.私が変わるわけではない


□金 光 煩悩がなくなるのではなく、生きるためのいろいろな働きとして、煩悩のようなものが出てきても、それにエゴの塊がくっつかないで、それが大きな広い世界で活躍する原動力にもなるということでしょうか?
■志慶眞 仏法の教えに出会うことによって、また本当の自分に気づくことによって、私どもは煩悩の身に信をいただくのです。これがあるから私どもは大きい世界に出会えるのです。この大きい世界に出会えるのは、私が煩悩具足だからです。私に真実を立てなくていい世界、私が真実でなくていい世界。逆に言えば真実にうなずいて生きてゆける世界、これは私が自分で決着をつけなくていい、大きい世界です。
□金 光 煩悩がなくなるのではなくて、煩悩があることに気づかせてもらえる世界がまた生きる新しい大きなエネルギー源にもなるという……。
■志慶眞 だからこの人生では、切って捨てるものはない。すべては生かされてくるのです。私どもがこの教えを聞きますと、最初はもうがんばれないという思いになったり、がんばることが悪いように思われてくるのですが、そういうことではないのです。逆にいろいろなものが照らし返されて、がんばれる世界になってゆくのです。
□金 光 がんばるということばは、我を張るということからきているそうですが、我を張る必要はないわけですね。我を張らないで、力を発揮すればいいわけで……。
■志慶眞 ただ、私ども人間のほうから言えば、私どもはいつでも「われ−それ」の世界にあって我を張るんですね。その我を張っている自分がもう一度照らし返されて開かれてくる大きな世界がある。私はそのままですが、この煩悩の身に仏さまの眼差し、仏さまの視点がいただけるということで、私が変わるということではないのです。この身の正体が光に照らされて、教えによってはっきり見えてくる世界、仏さまの眼差しをいただく世界が開かれるということです。私の行動が良くなるとかということではないんですね。
 私どもには自分の最期がどうなるかわからないですね。ぼけるかもしれないし、病気になって死にたくないといいながら死ぬかもしれない、交通事故に遭うかもしれない。どういう死に方をしてもいいのですが、一度はこういう大きな世界に出なくてはならないだろうと思います。
□金 光 大きい世界があることに気づかないと、本当に息苦しい、辛い人生ですよね。
■志慶眞 それは悲惨な人生だと思います。結局、私どもは生老病死の中にあって、死にたくない、こうはなりたくないと愚痴を言いながら生きているわけですが、そうではない永遠の真実の世界を実は仏さまは届けようとしているんですね。
□金 光 そうしますと、先ほどおっしゃったブーバーという人はユダヤ教のラビだそうですが、本当に永遠の世界、超越した世界、生死を超えた世界の消息というものは、宗教の教派が違っていても、根本のところでは共通な所があるわけですね。
■志慶眞 そう思います。この話を聞いている自分だけが、真実に出会えるわけではなくて、教えを通すことによって、どの人も大きい世界に出会うことができるのだと思いますね。
□金 光 それで若いときに「わかるまで聞いてください」と言われたのも、そういうことを知っている方がおっしゃったということなんでしょうね。
■志慶眞 そういうことだと思います。本当にありがたかったですね。

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