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7.名をとなえる
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 もう一つ大きな柱は、「南無阿弥陀仏」にめざめるということです。最初から南無阿弥陀仏が出て申し訳ありませんね。しかし、大事なことです。
 南無阿弥陀仏そのものに入る前に、そもそもこれはどんなものかということですね。南無阿弥陀仏というのは、私達が口で南無阿弥陀仏と念仏申す、その南無阿弥陀仏ですね。それを称名と言います。名をとなえる、ですね。「称」はとなえる。名というのが仏様の名前、仏様の名前が南無阿弥陀仏ですね。さっきも言いましたように、仏教という教え全体の名前ですね。
 名前のことを考えだしたらもう興味が尽きないのですが、名前にそのものが持っている内容の全体が籠っているわけです。ですから私達が自己紹介をする時に、本当を言えば、名前だけを言えばいいんですね。本当はそこに全部が籠っているんですよ。しかし実際は、名前だけを言ってもらってもよく分からないから、住所は、年令は、趣味は、などいろいろ聞いて情報集めをするのです。本来は名前だけで十分なんです。
 試しに、例えば「クリントン大統領」というと、それだけでいろんな彼に関することがワーッと出るでしょう。素晴らしいですね。「クリントン」というあの文字だけでよく分かるんです。
 南無阿弥陀仏というのも様々な徳を持っている仏様の名前です。この名前のところに仏様の力のすべてがあるんですね。その名前を称えるわけです。称えるというのは口で南無阿弥陀仏と言うことです。称えるという時には、この「称」の字を書かないといけません。しかし二十年ぐらい前でしたか、当用漢字が常用漢字に替わりましてね、この「称」の字が使えなくなったんです。「となえる」は「唱える」と書くようになったんです。ですから小学校で「念仏を称える」と 書いたら、間違いということになるのかもしれないですね。
 しかし、「念仏を唱える」というのは間違いです。「唱える」は合唱するというように、声を出してうたうというという意味です。そうすると、もし「唱名」になったら、南無阿弥陀仏という発音を声を出して言うだけのことになるんです。これは間違いですね。
 なぜかと言えば、「称」の文字には歴史的な受け止めがあるわけなんです。今日の漢和辞典を見ても、「はかる、となえる、あげる、たたえる、ほめる、かなう」などの意味があります。「はかる」とか「かなう」というのは、たとえば大きな 天秤計りがあるとしますね。右のお皿に私が乗る。そうすると左のお皿に何を乗せると釣り合うかという問題です。他のものでは釣り合いません。ただ、南無阿弥陀仏を乗せることによってのみ釣り合うんだという意味です。即ち、私という 存在を本当に生かすのが南無阿弥陀仏なんだとう意味合いです。
 私が皿の上に乗るといっても、身体測定のようにじっと静かにしているわけではありません。私の現実の全てが乗るのです。迷いもあれば、苦しみもあります。 空しさもあれば、愚かでもあります。自惚れてもいれば、不条理に泣くこともあります。そのような私という人間が、自己自身を確実に受け止めて、世を怨まず、明るく堂々と、しかも社会に向かって生産的なことに身を捧げていく。こういうようなことがいったいどうすればできるのか。それが、南無阿弥陀仏なのです。南無阿弥陀仏の力によってできるという意味合いなのです。
 本当に私を生かす力、それが南無阿弥陀仏。そういう意味でこの「称」の文字が使われてきたのです。

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8.真実をたたえるに進む
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