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5.道徳とのたたかい
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 教えを聞いていく初めのうちは大変です。初めの私達の思いというのは、どうしても道徳的というか善悪でものを考える。そういう考え方がもう骨身に染み付いていますから。聞いていくとそういうお粗末な自分、醜い自分というのが少しずつ見えてくる感じがするわけです。その見えてきた自分をどう受け止めるかとなると、これまで持っていたその善悪の考え方で見てしまうわけです。
 教えを聞くと、善くない自分が見えてくるわけですね。これは悪いと思うわけです。そこで、教えを聞くと自分が悪くなるわけですから、だから聞くのを止めようというふうになるんです。私の場合初めは本当にあえいだと言うような感じでした。
 最初は、善いことは文字どおり善いわけで、悪い事はどうしても悪いんだとい う思いがありますから、悪い自分というのが見えてきて、それを受け止めることができないんです。それが正に、正真正銘の自分なんだと受け止めることができない。それは善くないんだから、もっと頑張って善い人間になっていかなくちゃいけないんだという方向に気持ちが動いていくわけですね。その思いでまた仏法を聞くと、いやそうじゃなかったんだと、また悪い自分というものを知らされるというわけで、本当に行ったり来たりなんですね。
 それで、私の場合をあまり申してもいけないんですけど、学生時代に聞き始めて、同じ学生で一緒に出発した仲間が何人かいたんです。その頃の雰囲気というのは、なかなか暗い雰囲気だったんですよ。教えを聞く友達同志が集まって話しをするんだから、皆元気で明るいのかといえば、そうじゃなくて、いつやめようかという話なんです。何とも若者らしくないような話しなんですね。それでこっちもね、やめていこうとする人に「やめるな」と言うことができないんです。その力がないんですね。こっちも明日やめようかと思っているんですからね。それで実際、何人も友達がやめていきました。申し訳ないことだったなと思います。お互いそういうことが多かれ少なかれ、やっぱりあるんだと思います。
 自分の持ち前の道徳的な考え方ですね、善いものはどこまでも善い、悪いものはどこまでも悪い、だから自分の内に何か悪いものが見えてきたら、これではいけないんだと思ってしまう。これが人間の考え方でしょう。仏法は違うのですね。自分の内に善いものであろうと悪いのであろうと、何であろうとそれは構わないというか、実は二次的な問題なんです。教えによって自分を知らされてみて、こういう自分が見えてきた、それが善い自分であろうと悪い自分であろうと、それは次の問題で、大事なのは教えによって自分自身を知らされるということそのものなんですね。ここが本当に大事なことだと思います。

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6.願いを持つに進む
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