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4.自己にめざめる
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 そこでめざめるということなんですが、いったい何にめざめるかということで すね。歴史的に仏教が起こって二千五百年ぐらい経ちますから、その間いろんな方が、めざめるということについておっしゃっておられるわけです。その中、代表的と思えるものを挙げて考えてみたいと思います。
 第一は何といっても私自身、自己自身にめざめるということです。自分が何であるかが分かるということです。これは大問題です。一生をあげて尋ねていくような問題ですね。
 私は教えを聞き始めた頃、今から三十年ほど前ですが、生まれて初めて聞くわけですから右も左も分からないですよね。何か感銘をするものはもちろんあるんですが、言っている内容がよく分からないんですね。
 その頃私には、めざめるとはどういうことなのかという問いと、もう一つそれよりももう少し何処か奥の方で、なぜ目覚めなければいけないのかという問いがずっとあったような感じがします。教えを聞いていきましたら、自分というものをだんだんと知らされていくんですね。しかしそれは、「何と素晴らしい自分である ことか」というようなことではないんです。知らされてみると本当にお粗末というか、自己中心的というか、欲の深いというか、愚かというか、自己保身というか、 真実の道理などまったく問題にせず、俺が俺がというようなところで生きている 自分なんですね。
 それはもう一口に言って、明るい自分では決してないんですね。これでいいぞと言えるような自分でもない。そういう自分を知らされていくわけですから、実感として、よしこの道をどんどん行こう、というようにはならないんです。ですから、もしやめられるものならやめようか、という思いが起こってくるんですね。聞き始めた時はそれなりの感銘があって、よしこの教えを聞いていこうと思ったにも拘わらず、しばらくすると、やめられるものならやめようかという思いがおこる。それは人それぞれにあるんでしょうけれども、私の場合、最初の二、三年はひどかった。聞いていこうという一番最初の思いもかなり強かったんですが、やめようかという思いもまたかなり強くなって、大いに矛盾しているんですね。
 それで手帳のカレンダーに、やめようと思った日に丸印をつけました。二年ぐらい経ったら、六、七十程丸印がついていました。毎週一回程度はやめようと思っていたんですね。本当に波があったんです。  そういうようなこともありましたから、なぜ自分を明らかにしないといけないのか、なぜ自分に目覚めていかないといけないかという問いがどうしても起こって きます。実はそこのところを、仏教は大きく答えていたんです。
 人間とはどのようなものかというと、ターニングポイントと言うか、転換点がある んです。人はもし本当の自分がどんなものであるのかが分かれば、その分かったという時点からワーッと力が出て、明るく元気に願いを持って、どんなことが起こっても自暴自棄にならず、現実に取り組んで生きていくことができるんだと。そういうふうに生きるのが本来の人間の生きる姿なんだと。こう明らかにしたのです。
 初めはそうなってないですね。そうなってないものが遂にそのようになっていく、その転換点、それが「私がめざめる」という一点なんです。それを仏教は明らかにしたんだと思います。
 そこのところが分からなかったんです。それはもう分かるはずなどないと言えばその通りです。何と言っても自分自身が分かっていないし、仏教の教えも分かってないんですから。仏教が明らかにしたのは、「自分がハッキリと分かる、そこから人は変わる」ということだったんです。だから、目覚めていけ、ということを仏教は切々と説くのです。

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5.道徳とのたたかいに進む
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