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19.はたらきかける仏
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 仏教の目標ということをすこし考えてみようと思います。これまで見てきましたように、わかりやすく考えれば、「仏」と「教え」いうのがポイントですね。「仏教」の読み方は、「仏となる教え」という読み方が一つできます。それは私が仏となる、その教えが仏教なんだと。これが標準的な読み方と言えるかもしれません。
 そうしますと、仏となるというのはどういうことか。そもそも仏とは何か。今、これを分かりやすく、座った仏像と立った仏像で表わしてみましょう。仏像には座った仏像と立った仏像とありますね。どちらも仏像だから変わりはないように思えますが、立つと座るでは言わんとする意味が異なります。同じ仏と言っても二つの側面があることを現わしているわけですね。
 座っている仏像は涅槃(ねはん)を表わします。涅槃は涅槃寂静(じゃくじょう)の世界、正に真実の世界、沈黙の世界ですね。その涅槃の世界から私達を救わんと立ち上がった。立っているというのは立ち上がった姿なんですね。それが立った仏像ですね。涅槃の世界から立ち現われたのが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏と言っても、阿弥陀仏と言っても実質は同じものです。これを現わすのに立ったものとして現わすわけです。
 これは、また、おかしな問いをしますけれど、仏となるということなんですけれども、涅槃も仏、南無阿弥陀仏も仏、どっちの仏がいいですか? ということです。私はかつてはもう圧倒的に涅槃の仏になりたいと思っていました。涅槃寂静の真実そのものの世界の中に何か溶け込んでいくようなね。しかし、浄土真宗という仏教では、何を真実なるものとして讃えるかと言った時に、涅槃の仏ではないんです。南無阿弥陀仏なんですね。涅槃の仏を無視すると言うのではないですよ。涅槃は南無阿弥陀仏の背後にあるものです。直接的に私達は、南無阿弥陀仏を讃えていく、ここにこそ具体的な真実があるんだ、真実のはたらきがあるんだと言うことなんです。
 真実とは何か? という、驚くような問いが経典の中に書いてあります。真実とは何だろうと思ったら、如来なりと言うんですよ。「真実とは如来なり」。如来と言うのは、南無阿弥陀仏のことです。南無阿弥陀仏というのが真実なんだと。私は、涅槃のことを真実と言うのかなと思っていたら、具体的には南無阿弥陀仏なんです。涅槃は動きがない。南無阿弥陀仏は、動いてはたらく力ですね。
 涅槃という永遠普遍の真実が、いわば立ち上がって前に出、私の方の向かって来る、その事実をあのような形で現わしている。その仏に私たちが出会っていくのです。ですから、はたらきかけるものに出会って救われたものは、今度は同じように、その人自身が人々にはたらきかけていくんですね。伝えていくんです。
 仏様が前に立ち上がって私にはたらきかけようとしている、そのはたらきが私の上に成立する。成立したところが信心ですね。そうすると今度は、私自身が立ち上がって、前に向かっていくんです。歩み出していくんですね。前にと言うのは、何がそこにあるのかと言えば沢山の人々がいるわけです。その人達と共に生きていこうというのが大乗なんですね。ですから、この世で何を最も大事なものとして私達は讃えていくか、それによって自分がどのように生きる存在になるかが決まっていくわけです。
 私達のご本尊は南無阿弥陀仏なんです。南無阿弥陀仏だということははたらきです。人々に対してはたらいて、その人々を本当に生かしていこうという力ですね。そのようなものが具体的な真実だと。その南無阿弥陀仏というものが明らかになると、私たちもまた人々に対して願いを持つ生き方をするようになる。仏教というのは、そのような人を生み出したいんですね。
 人間というのはどんな生き物なんだろう、どんな存在なんだろう。それを仏教で言えば、真実の教えによって自己と仏様に目覚めて、自分自身も歩み、縁ある人に対してはたらきかけていく、その願いに生きていく人なんだというわけですね。
 そこのところまでいって、やっと仏教なんですね。途中で終わったら一寸残念なんですよ。私達の歩みは初めはもちろん第一歩からやっていかないといけないけれども、そこにもいろんな問題があるわけですけども、仏教というのはこのような人を誕生させたいという願があるんですよ。誕生させたいその人間像というのは、主体的であり、生産的であり、生き生きとしていて、願いに満ちてやっていく人なんですね。
 このへんで終わりにさせていただきたいと思います。(完)

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