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18.主体性
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 その願いを主体性と申しましたけれど、正にその願いのところに私というものがあるわけですね。ですから、仏教というのは決して何か借り物というものではないんですね。
 自力、他力という言葉があります。この言葉で私達は実際のところ随分惑わされているという感じがします。振り回されているんですね。この字を見ると、自力は自分の力、他力は他人の力と、普通こうなってしまうんですね。それは、もちろん無理はありません。自力・他力はもともと世間で使っていた言葉ですから。
 そこで大事なことは、これを仏教が取り入れたときに、何を自力と言ったか、何を他力と言ったか、そこを確認しないといけないわけですね。自力というのは自分の力には違いありませんが、具体的な中身があるわけです。それは自己中心の力、自己肯定の力、自分でものの善悪が何でも分かるんだという思いですね。他力というのは仏様の力です。南無阿弥陀仏が他力です。ここを踏まえれば、この言葉は随分使いやすい言葉だと思います。しかし実際は、なかなか本来の意味で受け止めてこられなかったようです。
 そうしますと、仏教というか特に念仏の教えというのは他力によるんだというわけですから、他力によると言えば何か他の人の力によるのであって、自分の力はどうなるのかという疑問が起こったりするわけです。自分のこの力は一体どうなるのか。もう何の用もないのか。何か他力というのをもらって、それで生きていくとなったら、他力に誘導されたロボットのような感じでしょう。私の思いの中には、そのような問題がやっぱり残るんですね。
 他力は仏様の力です。南無阿弥陀仏の力ですね。その南無阿弥陀仏のはたらきを受け止めたのが信心で、それはその人自身のものとなって、決して借り物ではないんです。正にその人の主体なんですよ。自己に目覚めていくということは、借り物の意識とか認識とかいうものではないですね。まさに本当の自分の認識ですね。そしてそこからおこってくる願いも借り物の願いではありません。自分の願いです。はっきりと人を主体的に生かしていく。仏教はそういう事を明確に言っていくんです。
 私にとって、仏教が面白くない、やる価値がないと思っていた理由はいくつもあったんですが、その内の一つがこの主体性の問題でした。人が生きるんだから主体的に生きなければダメなんだと。その思いが強く前提にありました。ところが仏教というものを見ていると、なぜか主体性というものを感じないんですね。もし若い人達が、主体的に元気に仏教をどんどんやっている雰囲気がこの日本に満ち溢れておれば、それはもう初めから認識は違っていたと思います。
 しかし、それは、明らかに私に見る目、感じる力がなかっただけのことで、実際仏教に触れていってみれば、仏教ほど人を主体的に生かすものはないということを知らされてきました。そこのところはもっと強く言うべきではないかという感じもします。そうでないと、ひょっとすると、以前の私と同じように、若い人たちにやろうと言う気持ちが起こってきにくいのではないかと思うんです。民主主義の時代になればなる程、そうでないかと思います。
 そのように主体的な願いに生きる、そこに信心がはたらいているわけですね。その願いが大乗の願いですから、自らなんとしてでも尋ねぬき歩みぬいていこう。そしてできる限りの配慮や工夫をして、人々にこの教えを伝えていこう。その願いで今日も一日生きていこう、となるのです。  
 私のことで恐縮ですが、仏法にまったく反発していたような私が、なぜその仏教を聞くようになったかと言えば、もうそれは間違いなく、向こうの方から、つまり、いろんな方が心を込めて「仏教をどうぞ」とわざわざ勧めてくださったんです。私の方から探し求め、かき分けて聞こうとしたことなど一度もありませんでした。向こうの方から、どうかとこれをと勧めてくださった。そのお勧めがなかったら、おそらく一生涯聞くことはなかっただろうと思います。まったく無視していただろうと思いますね。
 そういうわけで、私自身はこれから何をしようかと考えた時に、やはりあの出発点だという思いがあるんです。要するに「仏法に出会える機会」なんです。仏法に携わっている者の方が、こういうものがあるんですよと、自分に閉じこもらずに、できるだけその存在を現わしていかなければいけない。ここに仏教があるんですよということをですね。そうしないと、向こうの方から進んで尋ねて来るということは非常に少ないわけです。お互い自分の世界で生きていますから。ですから、そのような「仏教の機会」というものをできるだけ沢山作って、どこかに打ちあたっていただければと言い思いがします。

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19.はたらきかける仏に進む
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