今よみがえる観無量寿経 第5回 「化前序(1)」
 

るいれつの会(2011年9月12日)講義録

講師 岡本 英夫先生

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 ≪聖典の引用について≫
    以後、聖典の引用箇所を示すことにします。
         東=東本願寺聖典
         西=西本願寺聖典(注釈版)
         島=島地聖典
       右の略字で表わします。

(一)化前序――本願と人間

 八月は夏休みにさせていただきました。二ヶ月ぶりの会ということになり、少し間が開いた感じもしますが、しかし長期戦となれば、一年に一ヶ月の休みはあったほうがいいかもしれませんね。
 今回は「化前序」に入ります。「化前序」は序分の一部ですが、一部といってもなかなか大きな問題をはらんでいて、数回にわたって頂いていくことになると思います。
 さて、『観経』についてまだまだ始まったばかりで、最初の序分のところを頂いているわけですが、序分には、大事な問題がいろいろあります。本論の教えに入る前に、相当に重要な問題が出てくる感じです。なんと言っても、韋提希(イダイケ)を代表として人間存在がどのようなものであるかが明らかにされます。その人間に対して如来はどのような位置を占めているのか。両者の関わりが示されます。その関わりについての序論でもあるわけですね。
 そのような構成になっているということ自体が、人間存在を真に救う経典の姿だという感じも致します。すなわち、本論に先立って明らかにしておかねばならない問題が人間の側にも如来の側にもあるということです。人間と如来の関わりについての多くの問題が出されます。「化前序」はそれらの問題のうち、横綱級のものと言っていいでしょう。

証信序
 序分は大きく二つの内容に分かれていることを申してきました。一つは証信序、もう一つが発起序ですね。この二つの内容と次第は非常に筋の通ったもので、経典の読み始めを滑らかに推し出してくれます。本論である正宗分に先立って、序としてこの二つのことを明らかにしておく必要があることは、よく(うなず)ける感じがします。
 証信序は、簡単に言えば、これから説くのは真実の教えであることを証明する一段です。その証明はどのようにしてできるのか。それが前回のお話しだったわけです。「如是我聞」という、経典の初めに位置するこのことばが証信序。「このように教えをお聞きして私は救われることができました。私を救った教えを今から皆さんに示させて頂きます。どうか皆さんもこの教えを聞いて歩み、救われてください。」と。「我」で表わされている人が、自分を救った教えを今から表わすというわけです。
 その教えが説かれているのだということ、このことを受けとめるのが大事なところです。私たちがお聞きする教えは、やってみなければまだ本当のものかどうかわからないものというのではなく、既に人を救い、それによって真の教えであることが証明され、救われたその人自身が私たちに勧められるものなのです。間違いなく人を救うことができるものであるが故に説かれているものなのです。この教えを聞き救われた者には、次なる人に勧めていきたいという願いが当然起こってくる。こうして繰り返し人から人へ伝えられてきたわけです。

 私たちも「お話を聞きに行きませんか」と人を誘う。あるいは誘われる。その人はなぜ人に勧めのるかと言えば、その教えによって自分が救われたという事実があるからなのです。「聞きに行きませんか」と勧めるところに、勧めるその人とその人を救った教えの二つがそこにあるわけです。その教えによって救われたその人を通して、私たちはその教えを勧められ、聞いていく。真実の経典であるという証明をもって勧められていく。この証明が次なる人を生み出し、一人また一人、次々と仏法者が誕生していくというわけです。

発起序
 もう一つが「発起序」です。その経典はどのような経緯があって説かれたものなのか。説かれるにいたる状況・事情が示されます。ここは甚だ大切なところです。証信序も大事。発起序も大事。大事なものばかりですね。
 前回は証信序の教えを尋ねまして、それを講義録の第四号に書きました。八月の真夏の何日間かをかけてウンウン言いながら書きました。読んで頂いている方にはまことに有り難くも申し訳ないことで、読みづらいところがたくさんあると思います。しかしあの講義録は読むコツがありまして、ウンウン言いながら書いたものは、ウンウン言いながら読む。波長を合わせると読みやすいのではないかと思います。ウンウン波という波長ですね。やってみられるといいと思います。
 冗談はそのくらいにしまして、一般に序分は、証信序と発起序の大きく二つに分かれるということなのですが、私たちが参考にしている善導大師の『観経疏』の読み方は普通の分け方を超えて、大変独特なものになっているわけです。しかし、この分け方をも又私たちは尋ねていくべきでしょう。善導が説こうとした深いお心を少しでも憶念しながら。そして「善導独り仏の正意を明らかにせり」と善導の領解(りょうげ)を高く讃嘆された親鸞聖人のお心をもまた少しなりとも推し量っていきたいと思います。

化前序を見出す
 『観経』の証信序を一般的にみれば、経典の冒頭「是の如く我れ聞く。一時、仏、王舎城耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の中に(ますま)し、大比丘衆(だいびくしゅ)千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千あり。文殊師利法王子を上首と()り」(東89 西87 島2‐1)の文を指します。
 この証信序が六つの内容に分かれていて、「是の如く」が「信」成就で、この教えを聞くことによって私は信心を得ることができたことを表わします。次の「我れ聞く」が「聞」成就。聞くべきものを聞き得たということですね。聞くことによって信心が成就した。第三が「一時」で「時」成就。説くべき時が遂に来たわけです。第四が「仏」で「主」成就。教えを説かれる方が現れた。第五が「王舎城耆闍崛山に在して」で「処」成就。教えが説かれる場所が確定した。そして第六が「衆」成就。「大比丘衆千百五十人」以下の文です。教えを聞く人を表わします。これが六事成就の一般的な押さえですね。

 ところが、善導大師という方は、もちろんこの六つを証信序とするという考え方は基本的に受け入れますが、さらにもう一つ深く分け入って大事なことを見出していかれます。それが「化前序」です。証信序の後半、時成就以降の四つを証信序から外し、次の発起序の中に「化前序」として納める。それも実質的には発起序全体にわたって、これを下から支える位置にあるものとして。
 「化前序」の語を親鸞聖人が返り点をつけて読まれるときには、「化の前序」と読まれます。「化前序」と読むのとどこか微妙にニュアンスが違いますね。内容は同じですが、聖人の読みのほうが内容がより鮮明になる感じがあります。
 化前序の化は教化です。お釈迦様が王舎城のお城の中に閉じ込められている韋提希のところへ行き、教えを説かれ教化されるわけです。それが経典の本文の内容になります。その教化の前にあったことを「化前序」の言葉は指します。

 教化の前に何があったのか。「前」というのは、時間的な「前」もありますが、意味の上から言って「前」ということでもあります。構造的に前のもの、下のものという意味です。私たちがここにこうしているということは、(ゆか)があるからでしょう。床と私がどっちが先ですか。床の方が先です。床があるから立っておられる。そこで、床の方を「前」というのです。私たちがここへ現れる前に、既に床があったと。私たちが現れたので、急いで床を作ったのではありません。ですから時間的な前でもあるし、全体の構造から見て、元であり、下である。それを「前」で表わしているのです。
 一人の人がお釈迦様から教化を受ける。教えを聞き、教化の世界を歩む。このことが起こるには、その前に一つの大事なことがあるわけです。その大事なことがなければ、このような教化は起こらない。大事なことが教化の前に起こった。それを説くのが化前序というわけです。

 私たちは、ものごとが起こっている一番の末端、結果のところにいるように思います。たとえば、ご飯一杯でも、食べるのはその結果のところです。ふっくらと炊けたご飯か、冷えているのか。味はどうか。ほとんどそこでご飯と接する。ご飯の歴史の一番末端のところです。
 その時に、このご飯はどのようにして出来たのかとその元を尋ねると、ガラリとご飯を中心にして世界観が変わりますね。(もみ)をまく、苗代を作る、田植えをして、何度も手を入れて、灼熱(しゃくねつ)の太陽に照らされ、風雨にさらされ、刈られてやっとここまで来た。そのことをさっと思うだけでも、ただガツガツと食べるだけの自分がその歴史に照らし返される感じがします。

 今韋提希に対して、お釈迦様による救いの教えが説かれる。しかし、この場面に登場しているのはただ、今の韋提希と今のお釈迦様と、説かれる教えだけではないのです。韋提希にも過去があり歴史があった。お釈迦様においてもそうです。そして、説かれる教えも大いに歴史のあるものなのです。その歴史がなければ今の教えもない。
 教えを聞く。その教えには歴史がある。すなわち「前」があるのです。これを忘れてはいけない。ご飯もじつは大変なご苦労の上にできているのだということがわかれば、もはやご飯に対する感じ方は以前と同じではない。
 ですから、教えを聞いて、ただ自分が救われればいい、救われるという結果を得さえすればいいというのではないのです。この私を救おうとしているものがある。その存在に気づいて救われるのと、それに気づかずに、ただ救われればいいという結果だけを得ようというのとは、たいへんな違いがあるのです。

 私たちを救うもの、その一番の根源は何か。その根源から私たちを救おうとはたらきかけてくる。そこにどういうことが起こるのか。どういうことが起こったから、根源から南無阿弥陀仏という仏さまが、この私という存在に具体的に関わりを持つようになるのか。何がその間にあったのか。このようにいろいろなことが問題にされてくるのです。

救いを生み出す根源のもの
 善導大師は、広く全体を思われてと言うべきか、『観経』で韋提希が、すなわち私たちの代表である韋提希が救われ、人生に対して有り難うございますと言えるようになるのは、いったい何がどうなっているからなのか。このことを一番根本のところを考えられたのです。
 当然そういう一番根本のものがありますから私たちの救いが起こってくるわけで、その根本のものを明らかにしなければいけない。それは経典を解釈する上で、根本があり救われる者がいるという経典の全体像を明らかにするという意味もありますし、そもそも救われる私たち自身が、私を救う一番根本の部分に出遇っていかなければいけない。
 何が私を救ったのかわからないけれども私は救われた、ということではいけないのです。私を救うものに出遇っていく。その出遇いのところにこそ救いはある。それを、出遇わずに、救いという結果だけを得ようとするところに、ほんとうの救いはありません。

 教えを聞いていくということは、時間もかかるし、大変な作業だと思います。しかし、教えを学び頂戴(ちょうだい)していきながら、その(いたわ)しさに敢えて身を挺して何を明らかにしようとしているのか。その一つが、今申している私を救おうとしているものを明らかにしようとしているのです。即ち仏様、如来です。仏様のまごころに出遇っていくのです。そのことは、仏様のまごころから表れ出た教えに出遇い、それを聞かないとわかりません。私がいくら考えてもわかりません。

 そういうわけで、一番根源のものがある。それを明らかにしなければ、人を救う経典の全体像を根本から明らかにすることはできない。そこで善導大師は、化前序という序を、序分の発起序の内容の一部として独創的につくりました。お釈迦様が韋提希を教化する前に、あるいはその下、その元に、既に韋提希を真に救うもの、即ち阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏が明らかにされていたことを表わすのです。それが一番根源なのです。
 それは教化の前でもあり、韋提希を下から土台として支え生かすはたらきでもありますから「下」といってもいい。本願が明らかにされたが故にその教化が実践されるということで「因」の位置でもある。それを今「化前」という分かりやすい視点で表現されたのでしょう。

 『観経』が進むにしたがって、韋提希の聞法の歩みも進んでいきますが、韋提希が教えを聞きながら、その歩みを進め自己を深めていくことができる。如来が何であり自己が何であるかが、次第に明らかになっていきます。
 なぜそのように深まり明らかになることができるのかと言えば、一番根本に南無阿弥陀仏のはたらきがあるからです。南無阿弥陀仏が私たちにはたらきかけられてあるからです。ですから、お釈迦様もそのはたらきに同じて教えを説くことができ、私たちはそれを聞いて南無阿弥陀仏の力によって歩みを進めることができ、次第に深まることができ、自己に目覚めさせられていくことができるのです。
 それら一切を生み出していく一番もとのものが、阿弥陀の本願、南無阿弥陀仏。端的に言えば、それを化前序で表わしたということでしょう。

大地の如し
 本願が土台となってその上にあるものを歩ませるということを申しましたが、親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の本願のはたらきは大地のようなものであると表わしています。「なお、大地の如し。三世十方の一切如来、出生するが故に。」「なお大地の如し。能く一切の往生を(たも)つが故に。」(教行信証・行巻 東202 西201 島12‐48)
 南無阿弥陀仏こそがあたかも大地となって、あらゆる時代あらゆる世界の如来を生み出すものである。そして、あらゆる者の往生の歩みをなさしめるものである。如来の世界における誕生と往生が、一番根源の南無阿弥陀仏によって、大地のごとくはたらきがなされるのだと。このように親鸞聖人は受けとめておられたわけです。

 聖人はその生涯において、ある意味で様々な大地に立ったお方だと言えるでしょう。吉水の教団でよき人法然上人や同朋と念仏の教えを讃嘆される大地の上に。法難に()い、不本意の流罪の北陸の地を我が大地として。関東では聖教を学び東奔西走、人々の胸から胸へ語り続けた教化の大地。御晩年は京都に帰られ、身を隠すようにして住み、その中で書物を書いて人々に伝えたい願いに燃えた最後の大地。
 大地の底から如来本願の呼びかけを聞き、念仏者としての誕生をなさしめ、その後のどんな境遇の中をも歩ませた大地の本願をいかに強く幾度憶念したことでしょう。燃焼する信心の炎はいよいよ輝きと熱を高め、その全体をわが身に回向してくださる如来のご恩に、身を粉にしても応えていこうと全身をもって歩まれた聖人。
 親鸞聖人はこの世界の一番の根源を尋ね、それをいよいよ明らかにし、あるべきその根源との関わりを尋ね抜かれたのです。大地の人親鸞聖人のお姿が目の前に現れるようです。

化前序の位置づけの工夫
 さて、化前序を具体的に経文の上で表すのに、善導大師は大変おもしろい方法を取られました。ここのところはよくよく考えられたのではないかと思います。普通は六事の成就で証信序となるのですが、善導大師は、初めの信成就と聞成就の二事成就だけをもって証信序としたのです。残りの四事成就は、発起序の方に入れました。
 そのように六事の位置づけを変えた場合、信成就、聞成就、時成就などの名称で押さえる押さえ方は従来のままかと言えば、どうも違うようです。善導の表現には、直接にはこれらの名は出てきません。内容の確認については六つに分け、それぞれの意味を尋ねています。
 「如是我聞」を証信序とし、「一時仏」以下を発起序の中の化前序としたとき、もはや「六事成就」の考え方は、一応踏まえるにしても、その枠組みは取られ、「六事」は独自の位置役割をもって『観経』の中に居場所を新たに整えられたということではないかと思います。
 その具体的内容は、証信序の「如是我聞」については前回見たところであり、「一時仏」以下は、これから「発起序の中の化前序」として見ようというわけです。
 発起序は、はじめに化前序を置きます。これは文章で表わせば最初の位置だけに来るわけですが、実際は次の六縁で表わす発起序の内容全体に関わるものです。
 その関わり方が先ほどから申している「前」「下」「元」「因」「底」など、いろいろと呼べる関わり方です。このように発起序の全体に関わり、さらには発起序を超えて、正宗分全体、『観経』全体の底に位置するものと言うべきでしょう。

如来の縁
 発起序は、全体に関わる土台としてまず化前序が説かれ、その土台の上で展開する内容として六縁が説かれます。六縁についてはこれからゆっくりと見ていくわけですが、今は特に「縁」について概観してみたいと思います。
 善導は序分で、化前序の土台の上で展開される内容を六つに分け、それぞれ「何々縁」と言って、これらは縁であるという押さえをします。この六つのことを縁にして、土台である阿弥陀の本願は人生のところ、韋提希のところへはたらきかけていくのだということです。
 六つの内容は悲劇とその後の展開ですが、悲劇で象徴される人間の現実が、ただ悲劇で終るのではなく、阿弥陀の本願が人生を生きる人間存在の上にはたらきかけていく縁であり、接触面であり、入り口であることを表わすのです。人間の悲劇は単に悲劇で終らない。悲劇こそが如来の縁になる。ということは、人間の側から言えば、ただそれで終るのではなく、終っていいのでもなく、人間の上に何が起ころうとも、それが如来の縁になるというこ、ならねばならないということです。

 悲劇について、「人間の悲劇」ではなく、「悲劇の人間」であることを申しました。そうであれば、人間存在そのものは、既にその存在性という根本の次元のところで、如来のはたらきを受けるものとして存在していることになります。人間の本来の姿は如来のはたらきを受けるところにあることが、この「縁」という押さえで表わされているわけです。
 このことはとても有り難いことで、仏教の人間観・救済観が如実に表われているところだと思います。如来は人間を悲劇の存在であると明らかにし、その悲劇の人間を縁にしてはたらきかけていく。如来と人間の絶対の関わりがここに示されています。

 最初の禁父縁と禁母縁の二縁は、いわゆる「王舎城の悲劇」を表わす一段です。阿闍世(アジャセ)が父を殺そうとし、母をも牢に閉じ込めるという大変な事件です。しかしその悲劇もじつは如来の縁なのです。如来がその現実のところにはたらき来たり、人はその現実の中で苦しみながらも、来たる如来に出会っていくことができる。ここに悲劇の持つ深い意味があるのです。悲劇は悲劇だけで終わるのではない。悲劇が内に持っている深さに気づかねばならないのです。そのためには聞法よりほかにないでしょう。

 三番目の厭苦縁と四番目の欣浄縁は、牢に閉じ込められた韋提希のところにお釈迦様がやって来られて、両者の間にいろいろなやり取りが展開します。両者はこれが最初の出会いではないのですが、王舎城の悲劇以降では最初の出会いです。
 現実を厭い苦しみ、受け止めることができず、そこから逃げようとする韋提希。その韋提希に対してお釈迦様は、その苦しみを受けとめて阿弥陀に向けて歩む人間本来の道を出発させようと心を砕かれます。救いに向けての歩みの確かな出発をなさしめようとしたのです。お釈迦様は力を発揮されます。そのようなお釈迦様と韋提希とのやりとりにおけるそれぞれの在り方。これらをまた縁として、如来のはたらきかけがなされ、韋提希の歩みが展開されていきます。

 五番目の散善顕行縁と六番目の定善示観縁は、韋提希が、「阿弥陀の世界に生まれていくために、こういうことをすればいいと私は思っています。だからそれができるための教えを説いてください」という要請をお釈迦様に向けて行います。その心こそ問題の定散心なのです。善ができると思っている心です。仏道という大善でも自分でできると思っている。自分でできるから如来は必要でないのだと。
 しかし、それは思いだけであって、実際はできないのです。けれどもできない自分であるという自覚がない。自覚を持たずに如来を否定する。まことに始末の悪い存在です。これが韋提希、即ち私たちの問題の根本なのです。この定散心、即ち定善の心と散善の心が問題にされるのがこの二縁です。

定散心を縁として
 この定散心の問題がまた、如来が私たちに来たる縁となり、私たちから如来へ至る縁ともなる。私たちの大問題が私たちを救おうとする如来との必然的な関わりを引き起こすのですから、真実の道理とは驚くべきもの、恐るべきものですね。
 定善という心の善ができると思う心、散善という行動の善ができると思う心。この心、この定散心で人生を送っていこうとするのが私たちです。自分の人生のことは自分でする、幸せになって見せると言って、実際はどうだったか。できないでしょう。隠しても誤魔化してもいけませんよ。真実なるものの前で、私はできましたと果たして言えるか。いや、真実の前に立つことさえ(はばか)られるのではないでしょうか。

 大切なことは、本当の自己に目覚めること。目覚めれば大変なことになるのではないかと思っておられるのではありませんか。そうではないのです。目覚めることに恐れを持つのは、それが人間的な理性分別が考えた目覚めだからです。本当の目覚めは真実だけが成し遂げてくださる。真実なるものの大いなるはたらきによってはじめて目覚めが起こる。だから、目覚めたその場所は、大いなる真実の世界なのです。
 自己に落在すると言って、どこか大変なところに堕ちてしまうのではない。大いなる如来真実の世界を我が世界として、そこに落着するのです。初めて、真に生きる大地を獲得するのです。この大地を与えんために、大地自らが私の根本問題に向けてはたらきかけてくる。私の問題が、じつに如来の縁になる。ここに如来の、必ず私を救おうとする慈悲と、私の問題を見極める智慧の姿が如実に表われていると言うべきでしょう。

 この「縁」の世界で、私たちは救いへの道を、救われて生きる道を歩んでいく。それは仏から賜った真実の心が原動力なのです。真実信心を賜って、それによって歩んでいく。真実信心を賜るという大事は、それに正反するような我が定散心が縁になるのです。人間の根本の問題であるが故に、これが如来にとっての真実の縁となって展開する世界において、本当の自己が明らかにされていきます。
 まことに不可思議なことです。悪を否定し善を肯定して、その善を目指してどこまでも行けると考える人間の理性分別には、この真実の道理は到底理解できないことです。なぜ悪を罰しないのか。なぜ善を志向しないのか。このひたすら向上しようとする理性分別の人間観と人生観は、ついに、自己でありつつ、自己の何であるかがわからずに、生涯を空過の内に終えさせてしまわざるを得ないでしょう。恐るべき迷いの存在。自己をよしとし、如来を否定しようとする恐るべき心が私たちの心深くに()みこんでいる。その心こそが「私」なのです。

 そういうわけで、人間の悲劇も、悲劇の中での(もだ)えも、そして自分自身がこれでいいと思っているやり方も、すべてが縁となって、真の救いへの道が開かれていくのです。すべてが縁となる。なんという大いなる不可思議な如来の慈悲と智慧の力ではありませんか。
 これらが発起序の「六縁」です。化前序が終りましたら、次はここに入ります。なかなか楽しみですね。

結果のみを欲しがる者
 善導大師はこのようにして「化前序」を設けました。しかしこれは不思議なことですね。経典を普通に理解しようとする人からすれば、「お前、何を勝手なことをしているのか」と批判の声が上がるでしょう。しかし善導大師には考えがあるのです。この六つの縁で表わされる人間の迷いの姿と問題点のその下に、あるいはその基盤に、如来本願ましますという意味内容をもって化前序が位置しているのだと。
 化前序の内容は、今の時点でお話をしていく都合上、結論を簡単に申しますと、「阿弥陀の本願まします」「南無阿弥陀仏まします」ということです。これを明らかにしたのが化前序ということなのです。如来本願、南無阿弥陀仏が根本にましまして私たちを支えている。これが世界の構造である。このことを表わしたいのです。
 
 私たちは「救われたい、救われたい」という関心が強いですね。ひょっとすれば、救われさえすれば、救ってくれたものなどすぐに忘れて、自分だけの救いの世界を楽しむかもしれません。人は「救われる」という結果のところに関心がいきやすいのです。聞思の歩みは大変な内容を持ってそれなりに時間のかかるものです。大事なのは、その一日一日の歩みです。しかし、私たちは過程を軽んじ、結果である救いだけに大きな関心を寄せやすい。
 アメリカ・ウォール街の「強欲資本家」が問題にされていますが、私たちは結果に対して資本家と同じく「強欲」と言うべきかもしれません。なりふり構わず、ただ結果だけを求めて、誰がこれを与えてくれたかを一顧だにしない。貧富の格差の例で言えば、犠牲となった人たちのことはなんら考えようとしないとすれば、それは大変なことです。
 そうではなく、強欲であると言うならば、それは過程に対して、一歩一歩の歩みに対して強欲でなければならない。どうしても、どんなことがあっても、今日一日を如来の前で歩むのだと。誰が(さえぎ)っても、いや、私の居場所はここ如来の前なんだと、その場所に居り続ける。そのことを頑張らないといけないのです。その過程の歩みを抜きにして、結果だけを得ようとしてはいけない。結果はむしろ如来に任せて、私は今の一歩に力を尽くす。こうでなければならないでしょう。

 今日の一歩の歩みがなぜできるのか。自分で歩もうと思っているから歩めるのか。それであれば、先ほどの定散心かもしれません。そうではありません。自己に目覚めていく道をどうして毎日歩めるのか。それは如来本願が根底から私にはたらきかけているからです。
 このはたらきを頂くことなしに人はどうして真の歩みを進めることができるでしょうか。進むということは自己に目覚めていくということです。当然それは同時に如来に目覚めていくこと。自己に目覚めない歩みは、名は歩みと呼んでも、流転なのかもしれません。

 根底にあって日々私にはたらきかけるもの。それを化前序として表わしたのです。経典の全体像を人間的な偏見や理性分別の眼で見て、自分が欲しいと思っている救いという結果を説いているものだとみなしてはいけない。因がなければ果はないのです。結果だけを奪い取ろうと(よだれ)を流しつつ獲物を(ねら)う獣のようであってはいけない。善導は『観経』をまず頂くに当たって、その全体像を明瞭にしたのです。この経典は如来本願が人間の根底に自ら位置して、人間にはたらきかけ救っていく経典であるのだと。それを先ず序分において「化前序」で表わしたと言うべきでしょう。

本願の大地を持たない者の姿
 「化前序」は発起序に含まれます。その発起序が正宗分を発起する序文なのです。即ち、正宗分で説かれる教えは、なぜこのような説き方であり内容なのか。それは事情があったのです。その事情を説くのが発起序ですが、事情とは何か。それは王舎城の悲劇であり、悲劇に苦しむ者がいたから、正宗分でこのような教えが説かれたのだと、こう考えやすい。
 しかし、そうではないのです。人間の悲劇だけが「事情」ではないのです。人間の悲劇を縁にして、それを救っていこうとする如来の本願ましますということも事情の内なのです。これがなければ、悲劇が起こっても、救いの教えを説くことはできません。従って救いは起こりません。如来本願在ますから、救いの教えが適切な方法と内容で説かれることができるのです。如来本願ましますことを表わす「化前序」は、どうしても「発起序」の中に位置しなければならないのです。

 ではもし、私たちを下から支える如来本願が無ければどうなるのか。無くてもいいではないか。なくても私たちは満足出来るのだと、この思いが私たちの中にはあります。如来本願、南無阿弥陀仏の力などは借りずに、どんなに悲劇が起ころうと、自分の力、人間の力で救われていくのだということですね。
 じつは大きな意味で言えば、この思いが出発点であり、出発の踏み台となっているのです。私たちは何らかの因縁で仏法の教えを聞き始めたわけですね。「聞き始める」ことは素晴らしいことですが、裏を返せば、それ以前は、仏法など要らなかったということでしょう。自分の力で間に合うと思っていた。その私が聞き始めたということは、どこかに(ほころ)びが出始めたということでしょう。
 自分で自分を救うという考え自体は普段あまりしないでしょうが、じつは、そのように考える必要が無いほどにそう思っているのでしょう。自明の事なんですね。その自分にほころびが出始めたのです。どうしてもうまくいかないことが出始めたのです。

 本当の意味で私を支えるものは何か。自分に本当に必要なものは何か。そういう問いはなかなか起きない。私たちはそれでずっとやってきたのです。私もそうでした。二十年ほど、つまり学生時代まではそうでした。しかし、なかなかうまくいかない。それなら他に道を探せば、となりそうですが、そうもいかない。すべてを自分の中で解決するというのが大前提となっているのです。如来真実をも視野に入れて客観的に検討するというようなことはまったくないのです。だから戸惑う。隠し覆う。嘘をつき内にこもる。それが生活に反映し、悪循環となる。
 反発しながらも結局仏法に耳を傾けたのは、一方で自分自身が目に見えないようなところでそういう事態を迎えていたのではないかと、後になって思われます。その頃の私は相当暗い顔をしていたのではないかと思われます。あなたの生き方は本当にそれでいいのか。私の生き方そのものが私自身に問うていたのですね。

 如来真実に支えられようとせず、自らを過信し、そこで起こる生きることの不満足から目を反らせ自己を覆い、将来を夢見ることで自分を支える。足が地に着かない生活。その状況によって起こる私たちの生きる姿とは何なのか。
 その一つは対象化的責任転嫁と言うべきものでしょう。自分が行なった行為自体に問題があるのに、自分を問わず行為の先の相手を責める。その相手を、もはや自分といのちの通いもないものへと(おとし)めているのです。相手をいのちの繋がりにおいて殺し、責任を転嫁する。その時はうまく難を逃れ、正しい自分であることが確認でき、道が開けた感じがしても、次第に事実が顔を出してくるのです。
 責任を負うべきは自分ではなかったのか。正しい自分であると偽ろうとする思いがあるのではないのか。その問いかけが次第に強くなり、道は閉ざされていく。そこでまた、憂さを晴らすように、次の犠牲者を選ぶのです。こうして悪業は繰り返されていく。如来は大地の底で泣いている。ここにはまさしく「外道」の姿があります。

 外道の生き方に沈み、そして戦った人が阿闍世です。阿闍世のことは『観経』や『涅槃経』などに説かれています。『観経』に登場する阿闍世の行業は凄まじいものです。自身の出生の秘密を提婆から教えられ、愛すべき父が一転して(あだ)となり、牢獄に閉じ込め食を絶たせます。これを助けようとした母をも捕らえ、謝り入る母の髪を(つか)んで剣を抜くのです。家臣によって殺すことは思いとどまりましたが、これもまた牢に禁じます。
 父は結局阿闍世によって殺されるという形を取って亡くなりました。悪逆・逆害の徒阿闍世。しかし、彼には何の罪の意識もなく、従って苦しみがない。悪いのは父であり、私はなすべきことをなしたまでであるのだと。ここに外道の存在・阿闍世があります。
 しかし、如来本願ましますこの世界にあって、誰が彼をそのままにしておくものでしょうか。よき師あり、よき友がある。その根源に阿弥陀の本願の慈悲があり智慧があるのです。外道の家臣たちの度重なる誘惑に迷い、何とかそれを退けながらも阿闍世は苦しむ。亡くなった父が天から声をかける。外道に(だま)されてはいけない。お釈迦様のところへ行けと。この痛切な親子の愛情の原点からの声を聞き、阿闍世の心は動くのです。
 耆婆(ぎば)は阿闍世を助け、お釈迦様のところへ行って教えを聞くことを勧める。躊躇(ちゅうちょ)する阿闍世に、お釈迦様は大丈夫だから来いと思いをかけられる。そしてやっと耆婆とともにお釈迦様のところへ行き、丁寧な教えを頂き、生ずべき理由がないにもかかわらず信心が生じたことをお釈迦様にお礼申し上げるのです。そして、迷惑をかけた国民が真に救われるために、自分は地獄に堕ちてもいいから王としての仕事をするぞと誓う。
 
 阿闍世とは誰のことでしょうか。親鸞聖人は彼を父を殺した五逆の存在と押さえられます。五逆はご恩を頂いた方に、報いるどころか反逆する行為です。それは根本には仏法を無視し(そし)誹謗(ひぼう)正法の心から起こっている。この五逆誹謗正法こそ、如来によって目覚めよと呼びかけられている私たちの姿そのものなのです。阿闍世とは私たちのことでしょう。そして同時に、如来によって目覚めよと呼びかけられている者のことです。
 
 「自己弁解」もまた如来本願の大地を持たないところから起こる私たちの姿でしょう。私たちは弁解をします。それは説明であり、言い訳であり、時には自己正当化であり、場合によっては嘘です。
 政治家の失言が度々起こり、その都度弁解がなされます。ニュースだけではよくわかりません。実際はどうだったのでしょうか。不祥事を犯した責任者が並んで頭を下げます。尽きることのない現象ですね。その時の発せられる謝罪の言葉はどうなのか。多く次のような言い回しを耳にするようです。「今度の件につきましては、国民の皆様に大変なご迷惑とご心配をおかけしました」。
 この言い回しを聞くたびに、私はおかしいなと思います。すっぽり欠けているものがあるのではないか。謝罪であれば、「私はこのような間違ったことをしました。ごめんなさい」と言うべきでしょう。自分がやった不祥事そのものを言わないといけないのです。それを言わずに「ご迷惑をおかけしました」では、謝罪にはならないのではないかと思います。
 「ご迷惑をおかけしました」よりも一番肝心なのは、私はこういう悪い事をしましたという、そのことを言わないといけない。ほんとはそれを仏様に向かって言わなければいけないのです。謝罪が実質的な謝罪になっていない。
 謝罪の本質は懺悔でしょう。真実である如来に向かって、自己の犯した仕業を申し上げる。わが悪業のすべては、如来を如来と思っていない、深い自己肯定の定散心から起こったものである。如来よ、申し訳ありませんと。このことを口に出して言わねばならない。自己の思いを真に申し上げることを「言う」というのです。そこに嘘があれば「言う」とはいわないのです。そしてこの仏に向かって「言う」という懺悔が、南無阿弥陀仏申し訳ありませんと念仏申すところに、実質的になされていくのです。

 善導大師は、念仏申すことに次の意味があることを明らかにしました。それは「嘆仏」であり、「懺悔」であり、「発願回向」であり、「一切善根荘厳浄土」であると。
 その中、懺悔については、「南無阿弥陀仏を称うるは、すなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。」(東520 西655 島17‐5)と述べています。他への迷惑や心配もお詫びすることではありますが、私の罪業そのものを取り上げないといけないのです。このことが言える大地を持たなければなりません。

往生の歩みをせよ
 私たちは自分自身のまわりに強力なバリヤーを築き、何者も入らせないようにしている。逆に自分のほうからはバリヤーを自由に通過して、どんな心でも出て行く。自己をよしとする装置です。よくない自己をよしとするためには、この強力な壁が必要になる。その壁を取れよと大地の如来は呼びかけているのです。
 もしこの呼びかけを聞くことがなければ、私たちの生き方は、自己をよしとして肯定し、周囲に壁をつくり、責任を転嫁し、心から謝りもせず、その他悲惨な状況を展開させることでしょう。

 『大経』の中でお釈迦様は説かれます。如来本願の姿をほぼ説き明かした後でのことです。「無量寿国の声聞菩薩の功徳智慧、称説すべからず。又其の国土は微妙安楽にして清浄なること(かく)の如し。何ぞ(つと)めて善を為し、道の自然なるを念じ、上下無く洞達無辺際なるを(あらわ)さざる。宜しく(おのおの)勤精進し努力して自ら之を求むべし」。(東57 西53 島1‐51)
 意訳してみますと、「阿弥陀の世界を生きる人たちの素晴らしい徳と深い智慧は、(これまで説いたように)讃え尽くすことができない。またこの世界はいかに整い安らかで清らかなものか、これも讃えることができない。それなのにどうして阿弥陀が選び取った真の善なる本願念仏を力を尽くして頂かず、本願の一道を信ぜず、どのような者をも差別なく救う広大無辺な本願のはたらきを受けとめようとしないのか。一人ひとりが努力精進してこれを求むべきである。」
 これはお釈迦様の勧誡と呼ばれる教えの一節ですが、私たちが置かれている位置がよく表わされているように思います。根源に如来まします。あらゆる者を平等に真に救おうとなさっておられる。一方私たちは、そのことも気づかずに、世間の微妙でなく安らかでなく清らかでないものを飢え求めて、徳も身につかず智慧も深まらない。その私たちに、如来本願をよく知るお釈迦様は、どうしてこれを求めないのか、努力精進すべきはこれではないかと、私たちを(いまし)め勧められるのです。

 『大経』のこの言葉の次に、重要な教えが述べられます。「必ず超絶し去ることを得て安養国に往生せよ」。必ず生死海を超え、迷いを絶ち切り、空過の世界を去ることを成し遂げて、阿弥陀の国に往き、そこに生まれて生きる者となれよと。
 ここにあげられる「超・絶・去・往・生」の五つは、生死海に沈む私たちを阿弥陀の国の住人たらしめる必要不可欠の行為です。この五つが私たちの上に成就しなければならない。これをなさしめるものは我らの根源にある。生涯をかけてのこの五つの成就の歩みを継続一貫成さしめる力が大地の下にあるのです。

 親鸞聖人はこの教えを『尊号真像銘文』に『大経』の教えの一つとして掲載されました。阿弥陀の本願・南無阿弥陀仏が生まれた根源を説く『大経』の大海のような教えの中、浄土真宗を的確に表わすものとして、厳選の果てに最後まで残った三つの教えの一つなのです。聖人によって問いに問われ、頂きに頂かれ、讃えに讃えられたお言葉と言うべきでしょう。
 「必得超絶去」を聖人は「娑婆世界をたちすて、流転生死をこえはなれて、安養浄土に往生を得べしとなり」と受けとめられます。このように受けとめる聖人は、捨てがたい娑婆世界を絶ち捨てさせ、超えがたい流転生死を超えさせ、そして得がたい安養浄土への往生を得させるもの、その一つの真実が如来本願・南無阿弥陀仏であることが明らかとなり、これを全身全霊をあげて讃嘆し、私たちに勧めておられるのではないかと思います。

 「必得超絶去」は私たちの救いの姿であると同時に、実際は生涯にわたる歩みの姿でもあります。娑婆を断ち切る歩み、生死を超える歩み、即ち往生の歩みです。先に述べた、念仏は「なお大地の如し。能く一切の往生を(たも)つが故に。」のように、今日の歩みの一歩を大地の念仏はなさしめる。本願に支えられ促されての一歩一歩の歩みが大切なのです。

 私たちには、自分自身の中にじつは一番の問題があるという認識はまず無いでしょう。しかしそのように言われて、直ちに、大きな問題を持った存在なのだと自分を問い責めてはいけない。そういう考え方をしてはいけないのです。できるはずもありませんが。出来ない考え方を無理にしてはいけない。そこは焦ったり深刻になってはいけないのです。そうではなく、そういう考え方に自然になるような道を歩まないといけないのです。そこは具体的にかなり大事なところ、応用問題のようなところだと思います。
 一口に、教えを聞いて歩んで行くと言いますが、具体的にその在り方が確立するのは案外難しい面があるように思います。やはり試行錯誤を要するでしょう。そこは言葉で言えば、焦らずに自然な形で自己が問われて、それが歩みなっていく在り方をすればいい、ということになるでしょう。
 けれども実際は、自分でもよく考え、人にも相談し、そのことを繰り返していく中で、次第に地がならされていくという感じではないでしょうか。その相談するということで、やはりよき師よき友を持つことが大切になってくると思います。

 そのような中で、歩みはなされていきます。大地の上の様々な営みはそれで大事なことですが、その営みにおいて歩めるということは、大地のはたらき、即ち如来本願ましますからなのです。これが一番の根本ということですね。根本の本願が私の現実に縁を作り、自己を問い道を求め師に尋ね友と語らう等、様々な営みを、じつは如来のはたらきが生み出しているのではないかと思います。根本の力とはそれらのものまで生み出すのでしょう。

 悲劇を縁にし入り口にして仏様のはたらきが私に注がれ、遂に私という存在そのものが変わってくる。以前の自分は、ただ自分が思うだけの自分、自分の思いでどう生きてもいいような自分であったわけです。
 しかし、そうではなかったんだと。自分という存在は、如来本願のはたらきを受けとめて生きる存在だったのだということが次第に明らかになってくる。これはもう革命です。人間存在における一大革命です。もの凄いことですね。その革命のところに具体的な救いがあるわけです。
 悲劇を縁にして仏様が私に触れ、はたらきを及ぼすことができる。しかしそのはたらきはいわゆる悲劇のところだけではたらくのではない。具体的な悲劇といっても、人間存在そのものに問題があるわけです。それは仏様にはよく分かっておられる。人間存在そのもののところにはたらきかけていかれるのです。

 王舎城の悲劇直後の第三の厭苦縁で、牢に閉じ込められた韋提希は、お釈迦様に弟子を遣わして慰問してくれることを求めます。これは表層的な考えにもとづく願いです。しかしお釈迦様は、韋提希のこの要請を聞き、韋提希の心の底の叫びに応えようと山から降り、韋提希のところへ行かれるのです。心の底の叫びは彼女全体の叫びです。「仏の自来赴請」と言われるところです。仏の願いは韋提希全体の救済です。そのポイントが心の底の叫び。その一点を確認したとき、仏は必ず仏自ら動き始める。それが仏が真実である所以(ゆえん)でしょう。

 この仏と人間存在との関わり、その根本の原則を、特に仏の側から表わすのが化前序と言ってもいいと思います。序分のわずか一点の化前序が、しかし仏法の世界、浄土真実の世界全体の根本原理をその視野におさめていることは、驚くべきことです。善導の慧眼です。経典には必ず如来本願ましますことが根本であることを表わす一点があるのだと。

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(二)浄邦の縁

難思の弘誓と無碍の光明

 阿弥陀の本願ましまして、それ故に我らの救済が起こる。この次第で表わされる浄土真宗の世界を、親鸞聖人は『教行信証』の初め「総序」の文で簡明に表現されます。
 「(ひそ)かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり」。(東149 西131 島12‐1)
 短い文章ですが、この文で如来本願を表わしているわけです。経典に帰れば『大経』で説き明かしていることですね。本願そのものを「難思の弘誓」と。「難思」すなわち「思うことが難い」とあります。私たちの人間的な思いではとても思い量ることができない。「弘誓」はひろくあらゆる者を救おうという如来の誓いですね。
 この「難思の弘誓」こそが「難度海を度する大船」。われらが生死海は渡ること難き海。途中で沈没するしかないわれら。救われ難きわれらの状況を難度海の語はよく表わしているようです。「難思の弘誓」はこの生死海を本当に渡らせて下さる大きな絶対真実の船なのであると。

 「無礙の光明」これが本願のはたらきですね。「無明の闇」人間存在そのものを表わす表現です。存在そのものが無明という大悲劇である私たち。行為にももちろん問題や悲劇性はあるでしょう。しかし、存在そのものが大悲劇。試しに、真実とは何であるか言ってください、と尋ねられると、わが存在のすべてを動員しても答えは出ない。まったく別次元のところを生きている自分が瞬時に照らされるようです。真実がわからずに生きているもの、それが人間。恐るべき生き物、悲しむべき生き物と言うべきでしょう。
 その真実への無知を生み出しているものが「無明の闇」なのです。真実を愛し親しんで知りたいのではなく、真実に対する深い反発と誹謗無視の心を持っている。この心を照らし出し、(そし)っている如来真実の前において懺悔せしめるものは当の如来真実のみ。これを「慧日」智慧の太陽と譬えています。太陽のごとく燦然(さんぜん)と輝き照らす如来の智慧のはたらきですね。
 このように如来本願が智慧の光明となって生死海に沈む我らの無明の闇を打ち破ってくださる。人間存在そのものの悲劇性、大問題性というものを打ち破ってくださるのです。これが人間存在に対する如来本願のはたらきの全体的な姿ですね。
 
 『大経』に基づくこの一文を『観経』の中で表わしたのが「化前序」だと言えるでしょう。今から具体的に韋提希に対してお釈迦様の教化がなされていく。その教化の前に既に足下に、あらゆる者を救おうという如来本願ましますことが『大経』で明らかにされた。明らかになったが故にお釈迦様は韋提希のところに自ら行かれたわけです。目的は阿弥陀の本願を説くことによって彼女を救おうということですね。

必然の法則
 次の文は「然れば則ち、浄邦縁熟して、調達闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業の機彰れて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまえり。」『大経』と『観経』の関係、如来本願と人間存在との関わり具合がよく示された見事な文です。
 「然れば則ち」この接続語に両経の関係が言い尽くされているようです。「だから必然の法則として」という意味合いになるでしょうか。人間存在とは何であるのか。その問題性・悲劇性を根本からつぶさに明らかになさった如来は、慈悲と智慧の真実の存在であるがゆえに、この人間存在に向けて万全の救済方法を確立して近づきはたらきかけていかれる。これが如来である。
 だから必然の法則として、生死海の現実の中を迷い苦しんで生きるものを必ず救い、阿弥陀の真実の世界を生きるものたらしめることができるのであると。

 必然の法則がある。人間救済の必然の法則がある。なんという有り難いことでしょうか。なんと嬉しいことでしょうか。「必然」、このことを私たちは探し求めて迷い続けてきたのでしょう。しっかりした考えを持っていそうではあるけれども、実際に繰り広げられる現実の局面は、曖昧であり、過度であり、不足であり、強制であり、逃避であり、空しく、真の充実をもたらさないものばかり。
 どこにどのような生き方に必然を約束するものがあるのか。毎日が砂に書かれた必然の文字を自ら崩していく日々。人生の疲れだけが必然的に襲ってくる。親鸞聖人はじつに「必然」を見出されたのです。
 この必然が、発起序の下に「化前序」を置いた善導のお考えでもあったでしょう。化前序の阿弥陀の本願は、必ず発起序で苦しむ悲劇の人間を救うのであると。

 親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」についての直接的な領解をなさいます。六字釈です。ここに「必」の道理がきわめて重要なものとして明らかにされています。六字釈については歴史的ないきさつがあり、今詳細は略しますが、中国において念仏で往生ができることを否定する人々が現れ、彼らに対して善導大師が応えたものが基礎になっています。
 善導は念仏によって必ず往生を得ることができるのだと言われます。「必得往生」なのだと。すなわち、この現実人生において如来のはたらきを受けとめて生きることが念仏申すところに必ずできるのだと。
 この「必得往生」を聖人は丁寧に受けとめられて、幾通りかの領解をされます。まず、直接善導大師の「必得往生」に対する解説として、「かならず往生をえしむというなり。『必』はかならずという。かならずというは自然のこころを顕わす。自然ははじめてはからわずとなり」(島17‐6)と述べられます。
 「必」ということは、この世界のいったいどこで起こるのかと言えば、如来の願力自然のはたらきのところに起こるのであると。私たちのどのような行動のところにも決して起こるものではないということです。

 また行巻において自らの六字釈を述べるところでは、「『必得往生』と言うは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。」(東178 西170 島12‐25)と述べます。煩悩具足の存在の上に真実が成就するというこの最難事は、具体的には不退転という生き方のところに成就するのであり、その成就は念仏によって必ずなされることが述べられます。さらに「『必』の言は(つまびらか)なり、(しからしむる)なり、分極(あきらか)なり。金剛心成就之(かおばせ)なり。」と述べます。

 「審」に「つまびらかなり」と註が付されています。この字はもと、神に供養する犠牲の獣は完全で、角や爪などに傷があってはならないので、詳しくその体を調べるという文字です。その調べる行為が「つまびらかにする」と表現されているわけです。そのように犠牲のものを(つまび)らかに見て、どこにも傷がなく犠牲の供物として完全であると判明することになります。
 そのように、念仏申す者を、往生を遂げることができるかと審らかに見て、なんら問題は無く完全であると判定する。そこに「審」の意味での「必」ということがある、ということでしょう。念仏によって人は完全に往生の身となるのです。

 「然」には「しからしむるなり」と註が付されています。聖人は先ほどのように『尊号真像銘文』で「必」について「必はかならずという。かならずというは自然のこころを顕わす」と述べています。これは『略本』の記述です。聖人は八十三歳の時に『略本』を書かれ、八十六歳の時にもう一度、少し増広して『広本』を書かれました。両者の間には多少の違いがあります。今、「必」については、『略本』では「かならずというは自然のこころを顕わす」とあり、『広本』では「かならずというは自然に往生をえしむというなり」となっています。

 また、『大経』の「必得超絶去」の「必」の語については、『略本』では「かならずというは自然というこころなり」、『広本』ではこれに加えて「必ずというはさだまりぬというこころなり。また自然というこころなり」とあって、「さだまりぬというこころ」を聖人は加えられました。「必定」ということでしょう。念仏によって往生は必定であることと、往生は如来の本願の力によって自ずからなさしめられるという二つの意味を引き出しています。

 「分極」には「あきらかなり」(坂東本)と「わかち、きわむる」(清書本)の二種の説明を聖人は付しています。そもそも「必」の意味を「分極」として押さえたのは『説文』によると言われます。後漢の許慎が作った辞書で、詳しくは『説文解字』と言います。この辞書は、漢字の元の甲骨・獣骨文字の存在を知らない許慎によって作られたもので、多くの誤謬があるようです。
 「必」を「分極なり。八・(よく)に従う」とし、「八」は分ける、「弋」は杭を打つの意として、分けて杭を打ち境界をはっきりさせるという意味にとっています。「必」の字の形を見て「八」と「弋」に解体したのでしょう。許慎はこのように解釈をしたようです。しかし、「必」の元の甲骨文字の意味は、(ほこ)(まさかり)の頭部を柄に装着する部分を主とした形をもとにして作られた文字です。
 聖人は「分極なり」と、『説文』の解説をそのまま記していますが、それに付した二種類の註のうち、「わかち、きわむる」のほうが「分極」の語の意味を忠実に取ったもののようであり、「あきらかなり」のほうは、その解釈を一歩超えた聖人独自の領解のようにも思えます。

 最後に「金剛心成就之(かおばせ)なり」。「必得往生」とは、何ものによっても壊されない金剛のように堅固な心が成就した姿であると、金剛心成就のところに「必得往生」があることを表わしています。

浄土の縁が熟すということ
 「然れば則ち、浄邦縁熟して、調達闍世をして逆害を興ぜしめ」と、阿弥陀の本願ましますがゆえに浄土の縁が熟してくることを表わします。
 このように親鸞聖人は、「必」ということをとても大事にされ、如来本願がいかに真実であって、悲劇の人間の上に救いを成し遂げることが必然であるかについて、ことばを尽くされているようです。この必然が、如来本願の力であり姿なのです。
 阿弥陀のはたらきが韋提希に至る縁、すなわち突破口が成立したわけです。単に「成立」という一点だけをなさしめたのではなく、「熟す」という過程を成就したのです。縁が熟したのだと。縁が熟す内容や方法がわかれば、それはこの上ない有り難いことです。

 具体的には何を指しているのか。それは「調達闍世をして逆害を興ぜしむ」ということだと聖人は述べられます。いったいどういうことでしょうか。「調達」は提婆を表わします。Devadattaから来ています。提婆はお釈迦様の弟子であり、従兄弟でもあります。その提婆が阿闍世をそそのかして父の頻婆娑羅王を殺させようとする。逆害を起こさそうとする。「逆害」とは父を殺すことです。このことが浄土の縁が熟したということになります。
 どうしてそうなるのでしょうか。しかも、浄土真宗を顕わす『教行信証』の全体を代表する「総序」に、どうして逆害を起こさせた「提婆」のような者の名が出るのでしょうか。

 親鸞聖人の確認は、提婆は浄土真宗を顕わすのに、じつは大変大きな役割を果たしたのだということでしょう。王舎城の悲劇の具体的な発端は、阿闍世をそそのかした提婆の行為です。これがなければこの悲劇は起こらなかった。
 阿闍世をそそのかした提婆の話の核心は、阿闍世の「出生の秘密」についてなのです。自分がどのような経緯で生まれてきたかということは、自己とは何かを潜在的に決定する。もしそれが、生まれ出る自分を父が高殿から落としたということであり、そのことがわかったならどうなるか。提婆は阿闍世を根本から動かし操ることのできる「秘密」を握っていたのです。
 もしこの秘密が暴露されることがなければ、父子は互いに愛し信頼し合い、国は繁栄し、王位継承も願いどおりになされていたでしょう。しかしそれでは、如来本願ましますことが明らかにされない。

 大地の如来は突破口がほしいのです。いかに人間的幸福に覆われていても、人間の事実に真実がなければならない。その幸福は果たして真実なのか。地軸に届くほどの、如来の前に報告できるほどの幸福なのか。むしろ如来に背を向けることを大前提にしたからこそ生み出された幸福ではないのか。この幸福を人間はせっせと作り上げようとする。如来無視的人生観の完璧な営み。この営為のどこかに(ほころ)びはないか。どこかに突破口はないか。はたらきかけて行く縁はないか。
 その如来の縁、浄土の縁が今開かれようとしているのです。縁が見つかったわけですね。ただその縁も、縁として十分な形を持ってそこにあったわけではないのです。聖人は「浄邦の縁、熟して」と言われます。「熟す」ということがあるのです。「熟す」ということは、縁は一挙に開かれたのではないということですね。次第に縁となっていった。
 では熟していく展開とは具体的にどのような姿なのか。開けた縁は王舎城の悲劇です。この悲劇が起こるために「熟」していったものは何か。

 そこで、王舎城の悲劇という縁が開かれるに至る歴程を簡単に見てみますと、
  ① 三年たって阿闍世に生まれ変わると予言した仙人を王は直ちに殺害する。
  ② 韋提希が阿闍世を懐妊し、不安の日々を送る。
  ③ 時来たって夫婦相談し、高殿から阿闍世を産み落とす。
  ④ 阿闍世は指を折るだけで助かる。
  ⑤ 十六歳まで安らかに成長。
  ⑥ 提婆が阿闍世をそそのかす。
  ⑦ そそのかされて阿闍世は父王を収禁する。
  ⑧ 父王を助ける母韋提希をも収禁する。
 こうして王舎城の悲劇が成立します。この悲劇が縁となるわけですから、悲劇の成立に至るこの流れ全体が「浄邦の縁、熟す」姿を表わしていると言っていいでしょう。
 しかし、それと同時に、「調達闍世をして逆害を興ぜしむ」と押さえた聖人のお心も尋ねなければなりません。阿闍世が興ぜしめた逆害は、⑦以降です。⑦の父を禁ずる行為が成立するためには、⑥の提婆が阿闍世をそそのかす行為が効を奏さなければなりません。善導が注目したのはこの点なのではないかと思います。
 
悪行が熟していく
 阿闍世に父王を殺させようともくろむ提婆の計略のポイントは、③の父王が韋提希に阿闍世を産み落とさせて殺そうとしたかつてのことを信じさせることにあります。これを信ずれば、人は誰でもその相手に復讐をしようとするに違いない。これが提婆が考えていた人間の法則でしょう。
 信じさせる証拠はあります。折れ曲がっている小指です。高殿から落とされた阿闍世は奇跡的に小指一本を折るだけで助かったのです。折れ曲がった小指、即ち「折指」、これを最後に決め手として出す作戦です。しかし、これが実質的に決め手となるには、父が自分を高殿から落としたということが、ある程度阿闍世に信じられていなければなりません。焦点はここにあるのです。

 いかにして③の事実を阿闍世に信じさせるか。提婆はこれを考えます。これを考える提婆の心には、彼の悲しい宿業と現実が一点に凝縮し、炎となって燃えている様が伺えます。
 提婆はお釈迦様とは従兄弟の関係です。男五人兄弟の長男の子がお釈迦様。三男の子が提婆です。ここですでに差があります。少年・青年期はどのような学芸においても二人は優秀でしたが、提婆はお釈迦様にどうしても勝てなかったと言われます。
 悟りを開いたのもお釈迦様です。多くの友が仏弟子となるに従って提婆も仏弟子となります。しかし、心の底にはお釈迦様に対する恨みが積もり積もっているのです。何度もお釈迦様を殺そうとします。ある時は崖から岩を落とすことによって。ある時は象を酔わせて走らせることによって。岩はお釈迦様の足に当たり、爪を()いだと言われます。
 このような行業をする提婆の言は、誰にも直ちに信用されない。この自己の現実を直視します。そして、いかにすれば阿闍世に自分の言葉を信じさせることができるかを考えるのです。

 阿闍世はこの時十六歳であったと言われます。もはや子供ではないが大人でもない微妙な年齢です。おまえはまだ子供だからと言えば、いやもう大人だと答える。あなたはもう大人なのにと問えば、いやまだ子供だと答える。年齢的に揺れ動くこの時期を提婆は待っていたのかもしれません。提婆は阿闍世の子供の面と大人の面の二重性を利用し、両面それぞれに巧みに近づくのです。

 この間の様子を善導は克明に記します。詳細は禁父縁を読むときに申しますが、簡略に言えば、マジックのような芸当をして阿闍世を感心させ(とりこ)にし、赤ん坊に化けて阿闍世に抱かせくちづけをさせるのです。これが提婆の言葉を信用する阿闍世の側の根拠になります。くちづけをして心を許した相手の言は信ずるのです。これが提婆が考えた戦術です。しかし、これには大きな課題が彼にある。このような芸当をする術をマスターしなければならないということです。
 提婆はいろいろな仏弟子にこれを尋ねますが、提婆の魂胆を知る仏弟子たちは教えようとしないのです。困った提婆は弟の阿難にこれを尋ねます。提婆と阿難は兄弟ですが、格ははるかに提婆が上です。その提婆が、弟でもあり格下でもある阿難に頭を下げて教えを請うのです。ここが準備段階の頂点でしょう。
 何者にも頭を下げようとしない提婆が、弟に頭を下げる。悪事の成就に向けてではありますが、自己を超えるほどの勢いで力を尽くす一生懸命の提婆の姿がここにあると言っていいでしょう。こうまでしてお釈迦様への恨みを晴らし、自らの野心を実現しようとするのか。

 悪への意志はじつに強靭なものです。しかし、これが現実生死海の実相なのです。善は強く、悪が弱いのが現実ではない。善が強くても、それに遥かに増して悪の跳梁が繰り広げられるのが現実生死海なのです。では、その事態は否定されるのか。あってはならない世界として一蹴されるのか。そうではないのです。悪が走る現実、驚くべき厭うべき避けるべき現実が、じつは大きな意味を持っている。「浄邦の縁、熟す」という意味を持っているのです。

 仏教はこの世界を明らかにしたのです。しかしそれは、客観的対象的に明らかにしたというのではありません。このやり方は人間理性による方法です。仏教がものを明らかにするというのは、そのものを摂取するということなのです。人間の行為すべてを如来本願成就の世界の中に摂取する。人間社会のすべてに対して、あなた方の救いはすべて私が責任を持つと、「救い」において私たちとの深い関わりを持つことができたということなのです。
 提婆の悪事成就の歩みを、考えを尽くし恥を忍び耐えに耐えて命懸けでことをなそうとする提婆の精神と行動の最も深い領域にまで食い入って善導は表わしぬこうとした。その善導の思いの中にあったものは、「化前序」の如来本願が大地となって、地上の阿闍世に関わる悪事の展開を摂取し、「浄邦の縁、熟す」の行為とならしめた、その全貌を(つぶ)さに明らかにしたいという思いからではないでしょうか。従って、阿闍世の悪事に関する描写は、如来本願の縁が熟していく事実ここにありという、讃嘆の大枠の中で(つづ)られている文ではないのか。そのように思われます。

 私たちもまたお互い、日常生活の中で様々に迷いや悪業を繰り返している。それは当の自分自身には、その行為に自覚がなかったり、このくらいのことはたいしたことはないと流したり、どうしよう大変だ、私はどうなるのかと自分を責めたり、いろいろな受けとめ方をしているのですが、この行為が如来の縁が熟している行為だとは、先ず絶対にと言っていいほど分からないものでしょう。
 それが、人間に智慧がない、真実がないということなのです。自分のやっていることの真の意味が分からないのですね。しかし仏教は、如来の縁が熟す行為が繰り広げられている、それが生死海の現実が持つ意味なのだと喝破(かっぱ)されるのです。

 このように、善導のこの詳細な解説を、親鸞聖人は「浄邦の縁、熟す」の内容として受けとめられたのではないかと思います。提婆の所業は悪行への邁進(まいしん)です。当然普通の考えでは否定されるべきものです。しかし、提婆のこの執拗(しつよう)な悪行への営みがあったからこそ、自分の言葉を阿闍世に信じさせることができ、父王の行為を信じ、父王を殺す方向へと阿闍世を進ませ、助けようとした韋提希をも閉じ込めることとなり、王舎城の悲劇は完成したのです。
 そしてこの悲劇のどん底において、お釈迦様の丁寧な教えにより韋提希は阿弥陀の国に生まれたいと願いを起こした。これによってお釈迦様は阿弥陀の本願の教えを説くことができるようになったのです。

 この間のことを親鸞聖人は『教行信証』の中で、「達多・闍世の悪逆に()りて、釈迦微咲(みしょう)の素懐を彰し、韋提別選の正意に因りて、弥陀大悲の本願を開闡(かいせん)す」(東331 西382 島12‐165)と表わしておられます。
 提婆と阿闍世の悪逆によって、お釈迦様は長年心の中に持ち続けていた阿弥陀の本願を説きたいという願いを、遂に実現することができるようになった。悪逆による悲劇によって、韋提希はお釈迦様の教えにより阿弥陀の世界を求めることとなり、ここに阿弥陀の本願の教えが開かれることとなった、と聖人は受けとめておられます。

 提婆のこの悪行の歩みが、単なる悪行という判断で終わらず、浄土の縁が熟す歩みであると認識されたことに、私は驚きと感謝の気持ちを禁じ得ません。人間の行為の正体をこのように認識した如来の智慧と、その根底にある必ず救おうとする慈悲の心を思わざるを得ません。
 真実とはいかに私たちの次元を超えているものなのか。いかに難思の世界であるか。この認識の広大深高さをなんと表現していいか、その言葉を私は知りません。ただ、ここに真実がある。この感動に震えるしかないのが正直なところです。

人間本来の姿が明らかとなる
 さてその次に、では浄邦の縁が熟して如来本願がその者の上に至り始めれば、その者はいったいどうなっていくのか。この問題が明かされます。それが、続く「浄業の機彰れて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまえり。」の文です。
 如来本願のはたらきを受け始めることによって、すなわち如来本願ましまして、私を救おうと是の如くの歩みをしてくださっていることを知らされ始めてみて、人は「自己とは何であるか」に目覚めるのです。

 「浄業の機彰れて」。この「彰れる」と違って「顕れる」という文字は、初めから表にあらわれた状態になっていることです。それに対して「彰れる」は、初めは隠れている状態であったものが次第にあらわれて、遂に表に顔を出す。そのような意味合いでしょう。
 読み方は、「浄業の機彰れて」とも読み、「浄業の機彰して」とも読みます。二つの読み方があるようです。これは主語の違いによるのでしょう。阿弥陀の本願のはたらきが韋提希に至り、真の韋提希とは何であるのか、人間とは何であるのかということを彰した。如来が明らかに彰した。それが「浄業の機彰して」。
 そして、このように彰すことによって、真の韋提希の姿が彰れた。明らかになった。それが「浄業の機彰れて」ということでしょう。阿弥陀はじつに人間の本当の姿を明らかにする力を持った方なのです。

 「浄業」は浄土のはたらき。人間とは浄土のはたらきを受ける存在。阿弥陀の本願のはたらきを受ける存在。これが人間存在。これを「浄業の機」と言うわけです。
 「機」とは簡単に言えば、人間の真の姿です。しかし、これではまだまだ曖昧ですね。普通私たち自身を問う場合、「自己とは何か」というのが問いの表現でしょう。古代ギリシャでは「汝自身を知れ」と言う。その通り。自己とは何か。自己自身を知らなければいけない。これが私たちの最大の課題に違いない。
 そうなのですが、「自己とは何か」は問いの大枠を表現しているのであって、具体的には問う際に条件があるのではないかと思います。「自己とは何か」には省略されてある部分があるのではないか。それは「救いに於いて」ということです。このことばを加えて問うべきではないかと思います。
 「救いに於いて」「救いの地平において」「自分が救われるということに於いて」自己とは何か。この限定をしないと、「自己とは何か」だけでは抽象的で立つ足場が不明であり、答えが出にくいのではないかと思います。何を押さえても自己には違いないということになってしまう。

 自己を明らかにするということは、直ちに何であるか、というのではなく、どのような場面において自己というものは明らかになるのかを考える必要があるでしょう。たとえば、ここに一人の人がいる。この人がどのような人であるかをAさんとBさんに尋ねてみるとします。Aさんはこの人を愛し大事にして救ってやりたいと願っている人です。Bさんはこの人を嫌い憎み害を与えてやりたいと思っている人です。さて、どちらに尋ねたほうがこの人の本当の姿が分かるでしょうか。
 答えは明瞭です。Aさんです。なぜなら、Aさんはこの人を救おうとしている。ということは、Aさんは、救われなければならないというこの人の最奥の問題点を知っているのです。この人は、その問題点を克服することによって、心の底からの大きな喜びを得るひとなのです。ということは、その最奥の問題の一点こそが、この人の正体であるということです。
 この人が、その深い問題点に目覚めれば、私はこのような大きな深い問題を持っている存在でした。まことに申し訳ありませんでしたと懺悔することができる。これによって(ひるがえ)り、真の幸福を得ることができるのです。
 この人の中にこの問題点があることを知り、それ故にこの人を悲しみ、何とかその問題点を真に克服して大きな喜びと幸福を得てほしいと願うのがAさんなのです。

 一方、Bさんの言い分は、この人のいろいろな欠点や問題点を挙げつらい、それを批判し責めて悪く言います。そのように悪く言われるべきなのが本当にその人の姿なのか。よく見れば、多分にBさん自身の歪んだ見方に依存しているとも思える。案外、Bさん自身の思いや姿がこの人に投影されているのかもしれない。即ち、Bさんはこの人を見て、じつは自分自身のことを言っているのかもしれません。

 Aさんにおいて、即ちこの人を愛し大事にし救おうと思っている者において、この人の何であるかがはじめて明らかにされるのです。Aさんのこの人に対する見方を開いてみれば、この人の本当の姿と救われていく道と救いをもたらす原動力、それらが満ちて(そろ)っている。
 このAさんこそ阿弥陀仏なのです。阿弥陀仏はなぜ阿弥陀仏となられたのか。親鸞聖人は、私たちを救おうとする阿弥陀のお心を尋ねられます。阿弥陀の心を尋ねる! 何という行為でしょうか。およそこの世で尋ねるべき最大最深の課題と言うべきものでしょう。これを聖人は尋ねられるのです。
 ただ阿弥陀によって救われる、ということでは済まされない。それでは陶酔や恩寵(おんちょう)に終りかねない。私を救おうとされる阿弥陀の行為が起こるその元となる心はどういうものなのか。聖人は敢然とこれを尋ねられるのです。
 じつは如来の心が私たちに明らかになるところに、真の救いが起こるのです。救いは目覚めでなければなりません。陶酔は救いではない。曖昧な状態で終ってもいけない。如来の心というまさしく真実の原点とも言うべき領域を聖人は尋ねられるのです。そして明らかにされます。何という求道! 何という思索! 何という領解! 

如来の心の中にあるものは
 私たちを救おうとする阿弥陀の心は「至心信楽欲生」という表現で表わされています。『大経』が説く四十八願の中、第十八願で表わされるものです。親鸞はそのお心を「至心」「信楽」「欲生」の三つに分けて、それぞれの領解をされます。それを見ると、三者に共通しているものがあることが分かります。
 今、最初の「至心」についての領解を見ますと、「(ひそ)かに斯の心を(すい)するに、一切の群生海、無始より已来(このかた)乃至今日今時に至るまで、穢悪汙染(わぜん)にして清浄の心無く、虚仮諂偽(てんぎ)にして真実の心無し。(ここ)を以って如来、一切苦悩の衆生海を悲憫(ひみん)して、不可思議兆載(ちょうさい)永劫(ようこう)において菩薩の行を行じたまいし時…」。(東225 西231 島12‐68)
 「是を以って如来」以下が、阿弥陀如来が如来としてのはたらきをなされる内容です。そのはたらきはなぜ起こされたのか。それが「是を以って」で表わされています。「このような事実を確認し、それ故に、如来は一切苦悩の衆生を憐れんで」と繋がっているわけです。

 では、如来を動かしたのはどのような事実だったのか。それが「一切の群生海、無始より已来」以下の内容なのです。ここには私たち人間存在の実相が明らかに示されています。如来の大慈悲に基づく真実の智慧が、人間の真の姿を明らかにしたのです。
 人間存在とは、永遠の過去から今に至るまで、「穢悪汙染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」。まったく清浄真実の心のない存在であり、煩悩に汚染され、嘘偽りの不実の存在なのだと。

 「浄業の機」とあるように、人間存在は浄土のはたらきを受けとめて生きる存在。だから浄土のはたらきと無縁の生き方をしている人に於いては、自己とは何かは明らかにならない。もちろん、自分に関することの何を言っても、それは自己には違いないけれども、それでどうした、ということになりかねない。それで本人は、自己とは何かが分かったと思っても、救われることにはならないのです。自己とは何かが分かっても救われないとはどういうことか。いろいろなことが分かっても、それが分かれば救われるという自己はわかっていないのです。

 親鸞聖人が阿弥陀仏のおこころ、即ち「仏意」とは何かを尋ねていかれる。今はその中「至心」という心ですね。大きな如来のお心で、一番最初に出遇ったお心。それが、「清浄真実の心なし」という私たち人間存在の本当の姿。つまり親鸞自身の本当の姿を明らかにした如来のお心だったのです。
 如来は、人間をこのようなものであると明らかになさって、そこに大悲という絶対真実の悲心を起し、必ずこの者を救いきるぞと誓いを起された。「是を以って」如来はこの者を救うための歩みを永遠に渡って続けられていくのです。
 「清浄真実の心なし」という私の事実が、如来が至心となって私のところへ現れさせる契機となった。私の「清浄真実の心なし」の事実が、如来を動かしたのです。親鸞聖人が如来の心を尋ねて歩みに歩んで、遂に出会ったお心は、「清浄真実の心なし」の親鸞自身を大悲の中で抱く如来であったのです。

 如来の心の中に明確に表わされているこの姿は、自分も知らなかった本当の私の姿。如来に出遇うということは、本当の私に出遇うということなのです。ただ如来だけに出遇うのではない。如来の大いなる大悲の心の中で、そこで初めて自己自身に出遇うのです。それを自覚というのです。
 自覚とは、私が私の思いで私に覚めるというものではない。自己を見ようとするその目だけは少なくとも見ることができないように、自分で自分が分かることは起こりえないのです。ではどこで自己が明らかになるのか。それは如来の大悲心の中においてなのです。

 大悲の中で自己を見出した時、私たちは、申し訳ありません、南無阿弥陀仏。有り難うございます、南無阿弥陀仏、となるでしょう。如来に悲しまれ摂め取られてみてはじめて如来を疑い無視している私であることが分かる。その如来無視の私を、捨てず無視せず悲しんでくださって、必ず救うという大いなる願いを起してくださる如来がある。
 その如来の中に、今自分はいる。申し訳ない、有り難い。摂め取られて頂いた真実のいのちを大切に使い、力一杯私自身を、私の人生を歩んでいきます。このような願いが巻き起こってくるでしょう。如来の中で如来に対して、懺悔と感謝と願心が、私という存在を支え構成する中心の柱となって、そこに救われて生きることが始まるのです。新たな人生が幕を開けるのです。
 真の自分に出遇うということは、如来のお心に出遇うところにあった。そのような出遇い方を親鸞聖人はなさったのですね。

 人間だけを引っ張ってきてこれをじろじろ見る。それでは人間とは何であるかは分からない。この人間存在は仏様の真実の心の中にいるのが本来の位置。仏様の世界の中にいる人間を見なければ、人間存在が何であるかは分からないのです。それが救いに於いてということ。仏様の中にいるということが救いですからね。
 
 人は孤独というのはなくて、どんな状況の中でも仏様と共にある。仏様と共にあるというのは、私ははじめの頃はよく分かりませんでした。親鸞聖人と共にあると言ったりしますね。そういう大きなものと一緒にいると、頼りになって楽だろうなという感じで、なんだかちょっとずるいなという感じがしていました。
 しかし、そういうことではなくて、仏様と共にあるということは、いつも仏様のまごころの中にあって、本当の自己とは何であるかということを、いつも照らされ教えられ、そのように今日一日を生きているということなのですね。
 仏様の側にいるから俺はもう大丈夫というのではない。用心棒ではないんですからね。仏様のはたらきを受ける。そこに人間の本来の姿があり、本来性を取り戻すことが出来るから、大丈夫だというのです。

 そういうわけで、「浄邦の縁」私たちがおこす悲劇が如来が私たちにはたらきかけてくる縁となる。はたらきかける入口になる。仏様はそこを入口にして、私という人間存在そのものの一番奥にまでそのはたらきを及ばせて、遂に私とは何かということを私自身に於いて明らかにさせるのです。
 だから、客観的な表現で「人間とは」こうだということが明らかなったのではなく、「私とは」こういう存在なのだと言えるというのが、本当に人間が明らかになったということでしょう。私は「浄業の機」でした、人間は「浄土の機」でしたとはっきり言えるようになるのです。

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(三)あらゆる人を十五人の聖者として
 
公式文書に悪人の名
 『浄土和讃』を見てみますと、『大経』の和讃があります。『大経』は如来本願を説く経典です。二十二首歌われていますが、その中心は、私たちの上に真実信心を成就しようという如来の本願についてのものです。第十八願が信心を成就せしめる願です。
 この十八願が成就するために、私たちはまず人間的な考え方と価値観に立って歩みを始め、自己の不実性をどこまでも照らされていく。この照らされ抜く歩みに立つことが大切。その歩みのところに真実信心が開かれていく。その歩みをなさしめる本願が第十九願と第二十願です。この、第十八・十九・二十願が、『大経和讃』の中心を占めています。この三願で私たちを救うのです。
 このことが歌われて、次に『観経和讃』です。この三願のはたらきが韋提希に向けられていく。この展開は先ほどの、「総序」の『大経』から『観経』への展開と同じですね。見てきましたように、「総序」に人の名前が出ます。提婆や阿闍世、韋提希の名です。「調達、闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業、機彰われて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまえり」と。

 『教行信証』というのは公けにされるべく書かれた大論文です。その最初の、全体にわたる序文が「総序」です。序文というのは普通気品を持たせて、格調高く書くのではないかと思います。しかも「総序」ですから、なおさらのように思います。
 その「総序」の文章の中に具体的な人の名前が出るというのはどうでしょうか。それも提婆や阿闍世という悪いことをした人が。
 「総序」は「難思の弘誓は難度海を度する大船…」と、広大な『大経』の教えを強く圧縮して結晶となったような格調高い表現で述べられたかと思えば、「調達(提婆)、闍世をして逆害を興ぜしめ」と、悪行を犯した人の名と、「逆害」という悪行の行為そのものが並んで出されている。格調高き本願海と俗悪の人間世界とが行を隣にして説かれている。何とも不思議な文章ではないか。普通の発想ではこうなるところでしょう。

十五聖者
 もう一度『浄土和讃』を見ますと、『讃阿弥陀仏偈和讃』が終って『大経和讃』が始まるその前の位置に、四つのグループに分けて十五人の人(仏)の名が記されています。
 まず阿弥陀如来のグループが観世音菩薩と大勢至菩薩。釈迦牟尼如来のグループが富樓那(ふるな)尊者と大目犍連(もくけんれん)、阿難尊者。
 頻婆娑羅王のグループが韋提夫人と耆婆大臣、月光大臣。最後に提婆尊者のグループが阿闍世王、雨行大臣、守門者です。(東483 西565 島11‐17)
 これらの人々は、『観経和讃』の中でもう一度登場します。その時は、これらの人の名を挙げ、
 「弥陀・釈迦方便して 阿難・目連・富樓那・韋提 達多・闍王・頻婆娑羅 耆婆・月光・雨行等」
 「大聖おのおのもろともに 凡夫底下のつみびとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり」と。(東485 西570 島11‐19)
 この人たちを「大聖」と押さえています。
 提婆と阿闍世による逆悪は、じつは弥陀釈迦の方便であって、これら権化の聖者たち各々がそれぞれのありかたをすることによって、底下の凡夫を哀れみ、どんな逆悪の者をも摂取する阿弥陀の誓願に誘引し導かれたのであるのだと。即ち、この十五人の人たちは「大聖」であり「聖者」なのです。十五聖者と言われます。

その後にある和讃は
 「釈迦・韋提方便して 浄土の機縁熟すれば 雨行大臣証として 闍王、逆悪興ぜしむ」
 こういうところもなかなか細やかです。まさに現実的な局面です。浄土の本願の教えが表に現れるきっかけを作ったのです。雨行(行雨)という大臣が証明したことを取り上げています。
 阿闍世が提婆から、父王が昔お前を殺そうとしたという話を聞いて動揺します。本当なのか、確かめたくなりますね。それで第三者である雨行大臣に確かめたのです。父を牢に閉じ込め餓死させるかどうか、提婆の言を信じるべきかどうか、大臣の答え一つにかかっていたのです。
 証人に尋ねるということがあります。証人は大変ですね。本当のことを言えばいいのではあるけれども大変です。雨行大臣は提婆の言う通りであると言った。実際はそのとおりなんですけれども、この第三者の証言が大きな役割を持ったのです。この証明を得て阿闍世は確信します。そういう人を親鸞ははっきりと押さえるのです。聖人の現実観が伺えるようです。

 このようにして現実は進んでいくのです。それは、現実の面から見れば、悪行がどんどん進み、悲劇がさらに深刻になっていくわけで、何とかしなければという思いになるところです。しかし、じつはこれも浄土の機縁が熟したことの一つなのです。
 結局これらの人々が阿闍世の周りの現実を構成した人たちです。十五人ですべての人を尽くしているわけです。この十五人は「聖者」である。ということは、十五人がすべての人を代表しているのですから、この世界のすべての人は「聖者」即ち「諸仏」であるということになります。これは仏教における、浄土教における画期的な世界の見方ではないかと思います。

 お互い、自分の周りにはいろんな人がいます。主な登場人物もほぼ定着しているかもしれない。私が人生を生きていく上で、いつもその人とぶつかるような人もいるでしょう。最初は自分とは反りが合わないと思っていた人も、『観経』のように、最後は「聖者」「諸仏」と仰げるようにならなければいけない。
 その人の気に食わない言葉があったがために、遂に私に於いて悲劇となって勃発(ぼっぱつ)した。しかし、その悲劇のほころびを如来は待っておられて、そこを縁とし入り口として本願のはたらきをどっと私の中に投入される。そういうことなんですね。
 人間の眼でこれはいい現実、これは悪い現実と言って、それだけで片付けられるようなものではない。何であろうとすべてが如来にとっては大事な縁なのです。だから私たちもまた、善であろうと悪であろうと、わが現実を大事にしなければならないわけです。人間的な思いだけであれば、善悪・清濁併せ飲んで一生涯を送るなどとてもできそうにないでしょう。そこに如来の智慧の輝きがあるのです。

『大経』と『観経』をつなぐ者
 この「十五聖者」が直接登場するのは『観経』においてです。そうであれば、『観経和讃』のはじめにお名前を出されるのがふさわしいのではないかと思えます。しかし、実際は『大経和讃』の前に出されています。即ち、『大経和讃』と『観経和讃』の前に出されているということでしょう。
 ということは、『大経』の本願が『観経』の韋提希の上に本当に届くには、「十五聖者」のそれぞれのはたらきを必要とするということであるに違いありません。『大経』の本願真実は、現実生死海の生々しい善悪すべての人間の姿を通して、それによって、そこを生きる人の上に成就するということです。
 如来に出会うためには特別な条件は必要ないのです。如来の教えさえあれば、私を取り巻く現実のすべてのことが、その教えをそれぞれに表わして私に示してくださる。これが、この現実世界の意味なのでしょう。
 その現実世界の諸相を、今「十五聖者」で表わしているのです。じつに、真実は真実ならざるものの上に生きて、伝えられていくのです。驚くべき智慧、驚くべき真実。この真実を明らかにし、伝えようとするのが仏法であるということですね。

耆闍の一代教と王宮会
 今ずっと申してきたことは、一番下の世界に「化前序」ということで如来本願・南無阿弥陀仏の世界が明らかにされたことを表わしている、そのことですね。耆闍崛山があり、離れたところに宮殿があり韋提希が幽閉されている。ここでお釈迦さまが教えを説かれる。お釈迦様が教えを説かれた場所はいろいろあるのですが、それらを一言で言えば耆闍崛山なのです。ここで一代教が説かれた。一生涯の教えが説かれた。
 一方、王宮では、現実の人生の真っ只中で韋提希が苦しんでいる。こちらの山ではお釈迦様が沢山の人に教えを説いている。この場面をどう思われますか。「お釈迦様、王宮で苦しんでいる人がいるから、早くそちらへ行かなくては」と思うでしょう。お釈迦様はどのような思いで山で教えを説いておられたのか。それがお分かりですか。この時のお釈迦様のお心の中には、韋提希に対する認識がはっきりとあって、そのことを踏まえて教えを説いておられたのです。一代教と王舎城の悲劇とはじつは深い関係があるのです。

 沢山の経典が説かれたと言っても、並列に並ぶような沢山ではなく、一点に集約できるような沢山です。その集約する一点が『大経』なのです。如来本願を説いた真実の教え。これが明らかにされた。韋提希を教化する前に、耆闍崛山で如来本願、南無阿弥陀仏が明らかにされた。ただ漠然と耆闍崛山で説いたというのではなくて、人間存在とはこうなのだという明瞭な認識を踏まえて説いたのです。
 具体的に言えば、王宮の牢の中で苦しんでいる韋提希とはこういう存在なのだということが分かった上で説かれた経典なのです。その『大経』の本願の教えを韋提希の所へ説きに来られる。そういう意味もあって如来本願を説くことが韋提希を教化する前の序ということになります。

 『観経』は直接的にはお釈迦様が王宮で説かれるところから始まります。しかしもっと広く言えば、一代教を説かれる最初から始まっていると言うべきなのです。それがいよいよお釈迦様という具体的な善知識を通してお聞きしていくことになる。この具体的な人がいるということが大事です。善知識はとても大事な存在です。よき師なくして、いったい人はどれだけ歩めるでしょうか。具体的な人を通して、本願の教えが直接説かれていくのです。
 ではそれをどのように説くのか。どう説けば、相手に伝わるのか。本願そのものをすっと説くのか。それでは伝わらない。全く違う正反対のような形であっても、それでもよしとして説く。本来の仏様のお心に反するような内容で説いていく。それは私たちの方が仏様に反するような心を持っているからです。その反する心の方に教えを合わせるわけです。方便です。
 それは仏様のお意と表面上は違ったものになりますが、それでも説いて、なんとか分かってもらおうとする。本当に悲願ですね。様々に説いて私たちが変わり進んでいくのを仏様は待って下さるのです。

 「化前序」で明らかにした如来本願がいちばん根本にある。これが本当にすべての根本。これあるがゆえに、どんなに大変な現実の中にある者も、遂にはその現実を縁として如来本願ははたらきかけていく。「縁」というのは、仏様の側のことばですよ。仏様が私の悲劇を、私にはたらきかけていく縁とみなしてくださる。
 細川先生の最後の年賀状のことは御存知かと思います。先生は年賀状をたくさん作っておられました。十二月末ですから。十二月の最後の一週間を入院され、元日早朝亡くなっていかれたわけですね。そういうわけで年賀状としては発送されなかったようです。

 その文面は「人生を浄土の縁とし 如来のまごころの中を生きさせて頂いて 慶び これに過ぎるものはありません 南無阿弥陀仏」というものでした。本当にこの教えの通りですね。
 それは先生がそうなさったのではありますが、もとは仏様がそうなさったのです。仏様が先生のご生涯の中に、様々な出来事を縁にしてはたらき入られ、先生は遂にその本願のはたらき通りに頂戴することが出来たのです。本願からのはたらきをわが現実において頂いていく。このことは本当に生涯にわたる問題です。

 「化前序」だからといって、序分にだけ関わるのではない。文面では序分のところだけに登場するのですが、じつはすべての根本なのです。序分があり、本論の正宗分があり、結論がある。そのすべての根底になっているのが「化前序」で表わされている如来本願なのです。これがあるゆえに、仏とも法とも無い者を誕生させ、歩ませ、そして遂に大きな世界に出させる。そのすべての力が本願の力なのです。

 善導大師は、『観経』の根底に如来本願ましますことを知り、これを明らかにしなければ全体は始まらないと考えられた。そういうわけで、序分のここに「化前序」を置き、独創的な視点で仏法の何たるかを明らかにした。如来本願ましますことを明らかにされたのです。

 善導大師は、六事の中、後半の四事を「化前序」の位置づけで改めて押さえなおして、詳細に述べられます。次回はその教えを頂いてみたいと思います。

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