今よみがえる観無量寿経 第1回 「緒論」
 

るいれつの会(2011年4月18日)講義録

講師 岡本 英夫 先生

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はじめに

 この「るいれつ(羸劣)の会」では、八年ほどかけて『観無量寿経』の概略をひととおり読み終えることができました。今回からもう一度『観経』を読もうということになったわけです。と言っても、途中から或いは今回からご参加の方もおられ、初心者向きにという皆さんのご要望に沿いながらお話を進めて行きたいと思います。ただ一回目が、大切な箇所は詳しく、他のところはやや簡単にと読み方にバラつきがありましたので、これからの二回目は初心者向きかつ全体にわたってやや詳しくという路線で進めてまいりたいと思っています


(一)素朴な観点で、『観経』とは

人が人に如来本願を説く
 今日は最初の回ですので、入り口の前に立った気持ちで、『観経』とはそもそもどのような経典なのかという、できるだけ根本のところを素朴な視点で見てみたいと思います。
 『仏説観無量寿経』これがこの経典の題名です。簡単に『観経』と言いならわしています。さて『観経』とはどういう経典なのか。今それをぐっと絞って、「人が人に如来本願を説く経典」と、このように表わしてはどうかと思います。
 この表現にはポイントが三つあります。まず「如来本願」が説かれている経典、これが第一です。阿弥陀仏という仏様のはたらきかけである本願が、聞く者の実情に合わせて具体的な教えをもって説かれます。その教えはどのようなものか。豊かな広がりと深い掘り下げ、聞く者を照らす鋭い眼差し、これが仏教だったのかと目を(みは)る教えが続々と説かれます。

 次に「人が人に説く」。本願の教えを説くのも聞くのも同じ「人」です。同じ人間同士の間で阿弥陀の本願が説かれ、聞く歩みがなされていく。この「同じ人間同士の間で」ということがとても大事なことなのです。当然のことのようですが、しっかり確認しておく必要があります。
 その中で、教えを説く人はもちろんお釈迦様です。広く言えば、お釈迦様は説く人たちの代表と言っていいでしょう。お釈迦様はどのような教えをどのように説かれるのか。お釈迦様の存在とは何なのか。これが第二のポイントです。 

 三番目は「人に説く」ということ。お釈迦様の教えを聞いて歩む人の存在です。この人はどのような人か。どのように教えを聞きどのように歩んでいく者になるのか。このことが大事な問題です。『観経』では韋提希(イダイケ)という名の女性がその人として登場しますが、教えを聞く者を代表しているのです。心を尽くしたお釈迦様の教えが韋提希の上にどのように至り成就していくのか。聞いて歩む人の姿を確認するのが第三のポイントです。

韋提希とは誰のことか
 三つのポイントにもう少し立ち入ってみます。順を逆にして第三の「教えを聞く者」のほうから。
 韋提希が教えを聞く者という意味でこの経典の主人公となっています。しかしだからと言って、この経典は韋提希のためにだけ説かれたものというのではなく、韋提希がじつは私たちの代表なのです。ですから、韋提希が登場していろいろな言動をする場面を、各自が自分に置き換えて、自分を主人公として経典を読み進めるといいわけです。
 経典は昔の遺産でも骨董品でもありません。私ははじめ仏教について何も知らない時、経典をまさにそのように思っていました。三千年も前の古い書物、カビが生え虫が食って、一度も開かれたことのない分厚い書物。そんな印象でした。ですから、この経典から、いのちとか力とか根源とか喜びとか未来とか、そのようなものを感じたことはまったくありませんでした。
 しかし、そうではなかったのです。私の思いは全く間違っていたのです。経典は今私のところを生きる「いきもの」なのです。私にいのちを与えて瀕死の私をよみがえらせ生きかえらせる生き物なのです。死にかかったいのちにはたらきかけ、真実のいのちを再生させるいのちの根源、それが経典だと言っていいでしょう。主人公は私。それが「韋提希」という、すべての人の最大公約数的名称の者として登場しているのです。
 従って、すべての人に共通する根源的なこと、即ち「人間であること」、このことを「韋提希」の名は担い、彼女の身の上や性格や言動は彼女個人に帰すべきものでなく、「人間とは何であるか」という普遍のテーマに帰すべき項目ということになります。誰か特定の人の個性ではなく、「人間の個性」というわけです。そういう手法で『観経』は、人間とはこのような存在であるということを、韋提希の言動等を通して表現し明らかにしていきます。その人間を救うのはどのような教えであり、誰が説くのかという問題の関わりが生まれるわけです。

 韋提希は国王頻婆沙羅(ビンバシャラ)の妻、一国の王妃です。頻婆沙羅王は名君の誉れ高く、またお釈迦様の教えを熱心に聞き、仏教教団に対して援助を惜しまない仏法者でもありました。その王に従って韋提希もまた聞法をしますが、それほど熱心ということでもなく、仏法の何であるかはまだよく分かっていないようです。
 人柄はと言えば、気位は高く賢婦人であり、同時に被害者意識が強く責任転嫁をし、自分の才覚で人生を渡っていこうという思いが強く、お釈迦様の説かれる教えなど一皮むけば鼻にもかけないふてぶてしさがあります。
 王との間に嫡子(ちゃくし)阿闍世(アジャセ)がいます。阿闍世が生まれるについてはじつはいろいろと秘密があるのです。阿闍世はその秘密のことが原因となって愛する両親を牢に幽閉するという事件を起こします。これが「王舎城の悲劇」と言われているものです。悲劇の中で韋提希は深く愁いに沈み苦しみます。この悲劇が縁となって韋提希はお釈迦様から教えを聞くことになるのです。

今この私に教えを説かれるお方
 この韋提希に本願の教えを説く人がお釈迦様です。一般化して言えば、教えを説く人はお釈迦様には限りません。お釈迦様はその代表です。第一人者であり、象徴的な存在でもあります。私に本願の教えを説いてくださるお方は、厳密に言えば如来であり諸仏、さらに善知識、よき人そして先生などと呼びます。自分のそばにいる人が、私に教えを説く善知識にもなり得る。もっと簡単に言えば、私の先生が私に説かれる教え、その教えられていることが経典に説かれていることである、こうも言えるでしょう。
 このようにして、経典を遠くにあるものと見ずに、まさしく今の私のための経典であり、私が歩んで救われていく、そのための教えが説かれているのだと位置づけ受けとめることが大事なことになります。
 三千年前のお釈迦様も、そばにおられるその方も、じつは同じ教えを説いている。遥かに教えの普遍性に思いを馳せ、その同一であることをしっかりと受けとめることが大切です。その意味で、お釈迦様を釈迦牟尼如来というように、その善知識の方もまた如来であり諸仏なのです。

私に真の生き方を生み出させる如来本願
 教えを聞くといっても、あなたと私は人間が違う、だから救われる教えも違うのだ、というのではないのです。人は個性という点では皆違いますが、人間存在であるという点では同じなのです。経典は、私という存在の人間そのものという点に向けて教えを説いているのです。また私に、あなたの表面の具体相を統括するあなたの内なる人間そのものを見よ、と教えているのです。
 形の上では一々の具体的な問題に対応しながら説かれても、教えの向かう先は人間そのものという一番深い部分です。その深層部分が持っている最深の問題の解決が目標なのです。そしてその根本の解決がなされてみれば、自ずと具体的な事柄に影響を与えて、生活と個性が真に輝くようになる。
 あなたと私は生活や個性が違うことはあっても、人間としては同じである。同じ教えによって救われる。その同じ一つの教えとは何か。それが如来本願の教えなのです。

 「如来本願」とは何なのでしょうか。非常に仏教的な表現です。もし普通のことばに直せば、「真実なるもののはたらき」でしょうね。「真実」が「はたらく」。これはなかなか分かりにくい抽象的な表現です。しかし世の中にはこういう難しい表現があるものです。難しいからといって避けてはいけない。難しさには理由があるのです。それも私自身の側に。これについては追々述べていきます。要するに、分かりにくいものは、捨てずに保留の箱に置いておき、次第に取り出して分かっていくというのが大事だと思います。

 そこで、今一言だけ申しておきますと、如来の本願とは、必ずあなたを救うぞという願いであり、願い通りにはたらきかけていく力です。この願いと力を私たちは自らの内に感じ、如来という真実の前で生きていく者となる。如来真実の前で、如来からの呼びかけを受けとめ、これに応えて生きていく者となる。この生き方こそが人間本来の姿。これを成就しようとするのが如来のはたらきである本願なのです。
 そういうわけで、『観無量寿経』という経典は、人が人に如来本願を説く経典。お釈迦様が韋提希という人に、真実なるもののはたらきである如来本願を説いた経典である、ということになります。

本願の教えを説くということ
 お釈迦様は、既に如来本願に出遇われたお方です。そして如来本願ましますということを証明しておられる、証明することができる、そういうお方です。そのお方が、如来本願真実をないがしろにして逆に自分自身をよしとしている私たちに、その本願を具体的な教えで説くのです。
 よしとすべきものはじつは私の中に何もない。虚仮なる者です。その者が自己をよしとし、逆に仏教の教え、真実なるものを謗り無視してしまう。まさしく真と偽が逆転し顛倒した姿がここにあります。これが私たちにおける、真実と自己との関わり合いの構図です。
 このように顛倒した私たちの代表である韋提希に、お釈迦様は真実なるもののはたらきである如来本願を説かれる。大変な場面が展開されるわけです。ここには説く側の真実と、聞く側の虚偽と、説かれる教えが持つ間違いのない教えとしての力と、この三者が(そろ)い、ぶつかり合います。そして、教えはその力を発揮して、説く者の真実が、聞く者の虚偽を照らし出すのです。このことがつぶさに説き明かされるのが経典というものなのです。具体的にはこの『観経』です。このことを思えば、本当に『観経』が説かれてよかった、『観経』が存在していてよかったと思わざるを得ません。
 『観経』にはお釈迦様の深い願いがあります。「どうか、如来本願という真実のはたらきに出遇ってほしい」という、人が持ちうる最大限の最深の願いです。この願いを根本に持って、それを説くお力を備えて、お釈迦様は韋提希の前に現われるのです。虚偽の心を持った不実の者に、本願に出遇うことができる教えを力をこめて説かれます。いったい誰にしてこの営みができるでしょうか。お釈迦様とは一体どのようなお方なのでしょうか。

救いは真実に出遇うところに
 お釈迦様がまず如来本願に出遇われた。真実なるものに出遇われたのです。これによってお釈迦様は救われた。これがいわゆる「悟りを開かれた」ということです。これによってお釈迦様の上に明らかになったことは、人は真実に出遇うことによって救われるということです。
 仏教は当然宗教の一つ。その存在意味はどこにあるのか。宗教の存在意味といえば、その教えによって人が救われていくということでしょう。じつに人を救う教えを持っている。そうであるならば、宗教よ出でよ、もっともっと出でよと叫ばざるを得ません。
 浄土真宗の教えでは、人を救う道理とその力、即ち如来本願を説くのが『大無量寿経』であり、その本願を愚痴の凡夫に説いて救うことを表わすのが『観無量寿経』。そして念仏申すという如来本願成就の姿を真に成就ならしめるのが『阿弥陀経』です。これらが浄土三部経といって、浄土真宗を基本的に成立させている経典です。この三部経の教えによって、凡夫の韋提希が真実に出遇うことができる。真実に出遇って救われる道理と道筋が示されています。
 そこで、真実をただ真実と言うだけでは分かりにくい。仏教は「人間がついに出遇うべき真実とは何か」を解明したのです。お釈迦様は真実に出遇うことができた。出遇ってみれば、それはどのようなものかをいろいろな方法で表現できる。仏教は、真実に出遇った者が、それ故に、わかりやすく表現を駆使して真実を顕わそうとするところに生まれた教えと言うべきでしょう。

教えは光となって私を照らす
 そうしますと、「人が人に教えを説く」という三番目の「人」が問題となります。前述のように「自己をよしとする人」です。そのような韋提希に、お釈迦様は本願の教えを説かれる。当然のごとく両者の間に摩擦が起きます。この摩擦がじつは大変大事なもので、真実の光に照らされて韋提希の上に目覚めが起こってくる。その目覚めとは具体的には、「自己とは何か」ということ。自分という存在はどのような存在であるのか。これまではわかったこととしてきたことを、今度は真実の光に照らされて本当に明らかにすることになります。
 真実の光、真実の教え。教えを喩えて光で表すのです。教えを聞くということは光に照らされることであって、これまで見えなかったものがだんだん見えてくる。教えは光なのです。お釈迦様の教えを聞き照らされて、良しと思っていた自分の思いが次第に顕わになっていくのです。
 私の思いとしては、「照らされてはかなわない」ということでしょう。しかし、その思いはあっても、照らすのは真実の光。私が光に照らされたくないといくら言っても、その思いを超えた次元から光は照らす。そこには、「人間存在は真実に出遇うところに救いがある」という大原理がありますから、事態はこの原理に沿って展開していくのです。
照らされ、照らされて、限りなく照らされて、ついに打ち破られていく。そして、私という存在はこういう者でしたと、私自身においても始めて私というものが正しく明らかに知らされていくのです。

私を明らかに信ずる
 如来の光によって自己が明らかになることを「信ずる」と言います。どんな宗教でも「信」は最も大事なものです。しかし「信」とは本来どういう意味でしょうか。仏教の「信」は翻訳語です。もとの言葉を「信」や「忍」と翻訳しました。「忍」とは、「言」を左につけると「認」となります。物を正しく知る、その認識です。「信」は物を正しく知るというのがもとの意味です。
 仏様の光に照らされて、私という存在が明らかになる。私自身を正しく知ることができた。それを「信」と言います。信心とは、自分という存在を正しく知ることができる心です。
 「仏様から信心を頂く」という言い方は、とても平易でこなれた表現です。頂いた信心は何をするのかと言えば、私の本当の姿を照らし出す。自己とは何かの認識を明瞭にさせるのです。それが自己への目覚めの行為です。同時に如来、すなわち阿弥陀仏とは何かがわかる。自己を明らかにするところに如来が明らかになる。それを「如来を信ずる」と言うのです。如来との出遇いがそこに生まれるのです。
 従って、教えによって自己が照らされ明らかになる、即ち自己を深く信ずることができるということが、すべてを開く鍵だということになります。そういうわけで、仏教は目覚めの宗教なのです。「目覚める」のもとの言葉はbudhです。それを音写したのが「佛」あるいは「仏」。仏教とはいわゆる何かを信じ込むような宗教ではなく、如来(真実)と自己に目覚めていく、目覚めの宗教だということです。

『観経』は呼んでいる
 少し拡大しながら見てきましたが、もし短い文章で表現すれば、『観経』は「人が人に如来本願を説く経典」。即ち
 (1)如来本願真実に既に出遇った人、お釈迦様を代表とするお方が、
 (2)韋提希を代表とするような、真実に暗く自己を良しとして肯定し如来真実の方を否定している者に、
 (3)如来本願真実の教えを説く。
 これが『観無量寿経』の一番基本のところを表わしたものだと言えないか、ということで見てまいりました。
そういうわけで、私たちがこの経典を読んでいく歩みは、ひとごとではないことになります。まさしく私自身の問題です。私のためにこの経典は説かれたのです。多くの人がそのように受けとめて来て、それによって長い間人を救ってきた教えなのです。
 この経典によって救われた何千年にもわたる沢山の人たちによる証明者付きで、私たちのところにこの経典が継承されている。「無数の人がこの教えによって自己を知らされ真実に出遇うことができました。次はあなたの番です。いかがですか」というのが仏教の呼びかけなのです。
 ただ一人淋しく経典だけがここに置かれてあるというのではない。何千年間にわたる無数の人の証明付きなのです。経典のどこかに、たくさんの人たちによる証明書が山と積み上げられているはずです。どこにあるか捜して見られるといいと思います。「私はこの教えによって救われました。どうか皆さんも、この教えを聞いて頂きたい」と、無数の人々が私たちに向けて願い叫んでいる。どうして読まないことがあろうか、ということですね。

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(二)『観経』はどこから生まれたか

「素性」を明らかにする

 「如来本願」ということをもう少し見てみる必要があると思います。「『観経』はどこから生まれたか」という視点で考えて見ましょう。今『観経』が目の前にあります。しかし、だからと言って直ぐにこれが分かるというわけではない。目の前にあり、読もうと思えば読むこともできる。しかし読んだからと言って正しく読めるは限らない。当然なようでもあり、おかしなことでもあります。目の前にあれば、すぐに正体がわかりそうなものなのに。
 人を例にして言えばもっと分かりやすいでしょう。目の前に見知らぬ人が現われた。「はじめまして」というところからいろいろと昨今の社会状況などを話し、次第に親しくなっていく。これでこの人の考え方などはある程度分かったが、ではこの人はいったい誰なのか。何かもう一つ分からないものが残る。
 そこで、改めてあなたはいったい誰ですかと尋ねると、私はじつは誰々の孫ですと答える。ああ、あの方のお孫さんですかと、いっぺんでその人が分かる。その人の位置づけがはっきりできるのです。よくあることですが、そのような感覚でしょうか。目の前に出された『観経』を読んでみる。多少は内容がわかり、親しみも覚える。しかし、そもそも『観経』とは何なのか、というところがどうもわからない。だから読んでわかったつもりでも、もう一つしっくりこない。
 目の前の彼が、あのお婆さんが根っこになって生まれてきた人であるとわかれば、彼に対する疑問が一掃される。そのように、問題は、『観経』はどこから生まれてきたかを明らかにすることにあります。いわば「素性」を明らかにするということですね。そうするとぐっとよくわかってくる。
 初めに彼が来た時は、いったい誰だろうかと、家の中に上げるべきかどうか警戒していたわけですが、「ああ、あの人のお孫さんですか」となれば、「どうぞお上がりなさい」「お菓子を食べなさい」「泊まっていきなさい」となる。素性を知るということは私たちの認識面にとても大きなインパクトを与えるのです。

三部経の構造
 『観経』もそういうことがありまして、そこで『観経』は何処から生まれたのか、という問題で考えて見ましょう。
 浄土真宗の教えを生み出し支えているものが「浄土三部経」と呼ばれる三つの経典です。先ほど少し触れました。簡単に言えば、浄土真宗の教えのすべては、『大経』『観経』『阿弥陀経』という三つの経典から生まれ出た教えであるということになるでしょうね。
 しかし、三つの経典から生まれ出たからと言って、一番底に三つが並んでいて、そこから教えが出る、という形ではありません。これらは並列に並んでいない。一つの動かしがたい関わり方をもって立体的に三者があるのです。微妙な感覚のところかもしれませんが、「三部経」と聞いて別段何も感じないか、それともぞくっと来るか。感じないのは並列に見ているからではないでしょうか。ぞくっと来るのは立体構造が見えているからではないでしょうか。
 この三部経の持つ立体構造が、結局私たちの歩みの最後の最後まで、救われて生きる歩みの最後の一呼吸まで意味を持ちます。今、『観経』がどこから生まれてきたかを尋ねることは、この三つの経典の関わりを尋ねることにもなるのです。そしてそれは、この道を歩む私たちのあり方を、道理に沿ってきっちりと教えてくれることになる。そのことを思うと、経典とは大変な宝物だなと改めて思わされます。よくもよくもこのような教えが説かれたものだと、驚嘆と感謝にたえない気持ちです。
 では『観経』はどこから生まれたのか。それは『大経』からです。『大経』から『観経』と『阿弥陀経』が生まれた。これが大きな骨組みですね。しかし、「『観経』を生む」とはどういうことか。

真実を説き明かす「大経」
 生み出すものは『大経』です。これはどのような経典でしょうか。一瞥(いちべつ)してみたいと思います。これは本当に不思議な経典です。というのは私の感想なのですが、その不思議というのは、「人は真実に出遇うことによって救われる」と申しましたが、その「真実」を説き明かしている経典なのです。その内容は詳しく説かれますが、端的に言って「如来本願」というもので真実を表している。
 仏教は真実を如来本願という具体的なもので表現することができた。本当に真実に出遇ったからこそ具体的な表現ができたのです。その具体的な表現をもって人々に「真実」を説く。それが教えです。如来本願というもので真実を表すことができた。それが『大経』なのです。

 私ははじめ『大経』に出遇っておよその内容を知った時、なんとも不思議でなりませんでした。真実を明らかにした経典がある。本当なんだろうか、どういうことなんだろうか。真実が明らかにできるのだろうか。しかし、現に真実を明らかにして、それゆえに真実教として立っている経典がある。「真実を明らかにしたもの」にはじめて出遇ったのです。
 真実は人間にとって最も大切なもの。この認識は誰もが持つように私にもありました。その真実に出遇いたいとそれを尋ねようとする思いもありました。「真実とは何なのか」大きく書いて机の前に貼ったものです。しかし同時に、真実は大切で求められるものではあっても、決してその全体は明らかにならないものだと思っていました。だが、明らかにならなくても大丈夫。大海のほんの一滴、二滴でも得ることができればそれで十分なのだ。すべて顔を出さないものが真実なのだ。その(かす)かに出遇った一滴を大事にして生涯を終えていくのが人間なのだ。これが二十歳前後の私の考え方でした。
 ところが『大経』に出遇って、そうではない世界を知らされたのです。しかしそれは、自分の考えを真正面から全面否定されたというのではない。即ち、同じまな板の上で、同じ次元のところで否定されたというのではなく、全く異なった次元が開かれたという思いでした。生まれて初めての思いです。
 広大でしかもその全体を人間から隠している真実というイメージから、その全体をもって人間のところに現われ出ようとしている真実。そのようなイメージの転換でした。「如来」なるものにはじめて微かなりとも触れた時だったのでしょうか。結局この時を境に、私の人生は二分されたとも言えるろ思います。真実を説き明かしている書物(経典)がある。この事実に触れての驚きは、石がはじけて飛んでいったようなもので、以来四十年間、石は飛び続けているように思います。驚きがまだやまないのです。やむどころか、いよいよ飛んでいく。この石は何かの軌道に乗ったように、落ちてくる気配を感じないのです。

真実と同じ重さの人間
 これは私自身の『大経』に出遇っての感想ですが、『大経』は何を説くのかと言えば、じつに真実を説き明かしている。まことに驚くべきことだと思います。真実とは、真実ならざるものを必ず救うはたらきなのだと。必ず救うという大慈悲の願いを、闇を照らす智慧のはたらきによって成就しようとする。その慈悲と智慧によるはたらきの姿を本願として表わすのです。如来は本願として具体化しているのです。 
 仏教というのは大変なことを明らかにしたのだなと思います。いや、大変なことが遂に明らかになったからこそ、それを仏教として表わしたということでしょう。真実を明らかにするというのは本当に大変なことだと思います。しかし、その大変なことが起こらなければ人は誰も救われない。これもまた事実でしょう。ということは、人間の存在とはいったい何なのか。

 人間存在とは、私たち一人一人、ちょっとしたことで泣いて笑って、ちっぽけな存在のようにも思えます。では、このちっぽけな存在を救ってみろと言われれば、どうなるか。ちっぽけだから、救うのも簡単と言えるかどうか。実際は何ものをもってしても出来ないわけですね。何をもってすれば出来るのかと言えば、じつに、真実をもってすれば出来るのです。これだけなのですね。名利の満足や財産や長生きでは救われない。真実だけが人を救うことができる。
 ここに人間存在の重さというか、計り知れない存在意味がある。じつに人間は、真実と同じ重さを持っている者と言わなければならない。人間の尊厳がここにあるように思います。地球よりも重いという表現がぴったりの存在なのです。

既にこの道あり
 その大事な大事な真実は、勿論お釈迦様が少し考えてすぐに分かったというものではなく、長い長い人類の試行錯誤の歩みによって明らかになった。「ほんとうに救われたい」。これは誰もが思って来た心の底の願いだったのでしょうね。しかし何によって救われるのかは容易に分からない。それを試行錯誤の悪戦苦闘の中で人類は尋ねていった。何千年も何万年もかけて、無数の人々の中で問われて、やっと機熟して、人類の機熟してと言うべきでしょうか、お釈迦様というお方の上で、真実は明らかになった。
 この時を境にして、人類の歴史も二つに大きく分けられたと言うべきかもしれません。真実を模索して尋ね求めた時代から、真実が明らかにされた時代へと。およそ二千五百年前のことです。私達がもしお釈迦様よりも以前に生まれていたら、まず真実に遇うということは出来なかったでしょうね。人類において遇う道が明らかになっていないのですから。今日は、お釈迦様がその道を明らかになさった以降の今日という日です。ですから、真実に出遇おうと思えば、既にその道あり。その道は明瞭に説かれている。この恵まれた時が、今日という日の意味でもあるのです。あとは具体的に出遇うための因縁がどうであるか、ということになると思います。

 私の場合は、学生時代の頃までは仏法や真実がそのようなものとしてあるとは全く思っていませんでした。そのような毎日の中、偶然の因縁としか言いようのないことに恵まれ、仏法に出遇うことができたのです。その因縁を思えば、いくら謝しても謝し足りないものを感じます。その因縁に恵まれなかったなら今頃どのような人間になっていたか。人生をどのようなものと思って歩んできたか。恐ろしいような思いがします。
 人生の途中で、真実は明らかになりしかも説かれているという事実に出遇った。因縁に出遇ったのです。それも、因縁のほうが来たったのです。そしてその教えを私もまた聞いていくことになり、真実ましますことを明らかにしている人があちらにもこちらにもおられることがわかってきた。これは本当に生きる世界が変わらざるを得ない。とうとう職業も変えてしまいました。

 最も大切なのは真実ましまし、それを説き明かす教えがあるということ。そして次には、その教えを伝える因縁がこの生死の世界の中に具体的なものとして開かれるということでしょう。このるいれつの会も、まことにささやかながら、その因縁の場となればありがたいことだと思っています。

慈悲と智慧の阿弥陀仏
 真実を明らかにした『大経』。この『大経』から『観経』は生まれたのです。ですから『大経』とは切っても切れない関係がある。切る必要がない一つのものと考えてもいいほどの位置を持っています。しかし、同じというのではありません。
 さてその関わり具合のところを具体的に見てみます。『大経』は如来本願を説く経典です。これを説くことが中心になっている。その本願を四十八願と言います。本願が四十八の内容で構成されているわけです。そもそも阿弥陀仏という仏様が本願を起こされるとはどういうことなのでしょうか。
 阿弥陀仏とは何か。それは真実の慈悲と智慧の限りないはたらきを阿弥陀仏と言います。先に少し申したように、慈悲は人を必ず救おうというその心。願いです。必ず救うぞと。これが阿弥陀仏の私達に対する一番基本の姿勢と言えるでしょう。仏様は私達に「必ず皆さんを救うぞ」という願いをもってはたらきかけてくださっている。
 智慧のはたらきは、その具体化です。自己をよしとして執着し、逆に真実の仏様を無視する私。「闇」の存在。この闇を破るのが智慧の光です。私達の心の闇を破るのが智慧ですね。この闇が迷いを生み出している。その一番の根源を智慧の光で照らし破る。智慧で闇を照らし破ることによって、救いたいという慈悲の願いを実現するのです。この慈悲と智慧のはたらきを阿弥陀仏と言います。
 阿弥陀仏を仏様と呼んで人格的に表します。これは仏様に対して馴染みやすく接しようという気持ちの現れかもしれませんが、人格的に表すととてもわかりやすい。もちろん阿弥陀仏は人格ではなく、真実のはたらきである「法」の存在ですから、そこのところは当然きちっと押さえておいて、その上で、ある意味で十分に擬人化・人格化して受けとめることもできるわけです。
 その慈悲と智慧のはたらきの全体をどのように構成して私達の闇を破り救っていく本願のはたらきとするか。そこにはじつは仏様の大変な思惟と歩みがある。それについてはいずれお話ししますが、その歩みによって四十八願の構成が成り、本願が真に人を救う力あるものとして建立されたのです。どのように慈悲と智慧を一つにして私達に向けてはたらきかけていけば私達の救いが起こるのか。このことが明らかになったのです。このことが解明できたところに仏教の存在意味があると言うべきでしょう。人を救う道筋、従って救われる道筋、それを明らかにすることができた。そのことをもって仏教の誕生と言うべきでしょう。

四十八願の構造
 慈悲と智慧の阿弥陀がこのような本願となってはたらくということが、じつは真実なるもののはたらきということを具体的に表しているのです。真実が私達に向けてはたらく。それを具体的にわかりやすく表したのが阿弥陀の本願です。四十八願は真実のはたらきの構造を解明したということになるでしょう。驚くべきことだと思います。ですから、『大経』が真実を明らかにしたということは、四十八願という本願を明らかにすることをもって『大経』は真実を明らかにしたということになるでしょう。
 そこで一歩進んで四十八願の内容に少し触れてみたいと思います。最初からはなかなかわかりにくいかもしれませんが、何度もお聞き頂くことによって、受けとめられていくのではないかと思います。
 四十八願を見るときの大事な原則のようなものは「人は真実に出遇うことによって救われる」ということです。四十八願はこの原則に則って立てられている。いかにして私たちを間違いなく真実に出遇わせるか、という視点で本願が起こされています。「真実に出遇わせたい」この如来の心をいつも憶念して四十八願に触れれば、わかりやすいのではないかと思います。
 四十八願と言っても、中心になるのは、私たちの上に仏道を成就せしめようといういくつかの願です。人が真の救いを得るための道筋を明らかにした本願と言えるでしょうか。じつは、後に親鸞聖人が、真の仏道という意味で「浄土真宗」を明らかになさる際、四十八願の中の八つほどの願を特に取り上げ、これらの本願のはたらきを受け止めて歩むところに私たちにおける仏道の成就、即ち真実に出遇う道の成就があるのだと明かされたのです。それに従って本願を見てみましょう。今はまだはじめですので、簡単にしておきます。
 「いかにすれば私達が真実に出遇って本当の救いを得ることが出来るか」という、その「いかにすれば」のところが当然問題で、これら八つの本願はそれを明らかにするものと言ってもいいかと思います。
 阿弥陀仏の大目的は、私達をして真実に出遇わそうということ。そのことを真正面から願い、仏としてのはたらきかけの目標を明らかにし、その成就を願うのが第十一願「必至滅度(めつど)の願」です。「必至滅度」とは、「必ず滅度に至らしむ」と読みます。「滅度」が「真実」ということなのです。私たちを必ず真実に至らしめようという願ですね。本願の中の大黒柱です。

 ところがここに一つの大事な問題があります。私達は無明煩悩の存在です。要するに真実がわからず真実に生きることができない存在。その煩悩も決してなくなることのない存在です。一言で言って不実の存在。その不実の者が不実のままで真実の世界に至ることは道理としてできないことです。もし至ることができるというのであれば、不実のものである煩悩を消し去らないといけない。それはできないことです。ではいったいどうすれば、私たちは真実に至ることができるのか。これは大問題です。このことが問題なのです。
 この大問題を阿弥陀は解決してこの本願を起こされた。それを「定聚に住し」と言います。現生において、即ち煩悩という迷いの断ち切れない現生において「正定聚」と呼ばれる生き方をすることにおいて、人は真実に出遇っていけるのだと。現生正定聚のところに人は真実に出遇うことができ、救われて今日一日を生きることができるのだということです。
 「正定聚」という言葉の意味は、「正しく」往生が「定」まった「聚」即ち「人たち」ということです。この「聚」こそが本来性を回復した人間という意味でしょうね。それを宗教的には「救われる」とやさしく表現しているのだと思います。「正定聚」の者となることが真実に出遇うことのできる在り方なのです。それが往生の者となるということでしょう。

 しかし、これだけでは、具体的にどのように生きるのが「正定聚」のあり方なのかは表現されていません。具体的に言えば信心念仏の生活なのです。如来のまごころを受けとめることができて、如来のみ名を呼ぶ、南無阿弥陀仏ですね。如来は南無阿弥陀仏となって私たちのところに自己の真実を成就しようとする。如来というのがもちろん先の阿弥陀仏ですから、自らの真実を私たちの上に成就するために、根本の力として光明と寿命、即ち智慧と慈悲を自らの力として成就すべく願うのです。それが第十二願「光明無量の願」と第十三願「寿命無量の願」です。
 この二つの願の成就によって生まれた智慧と慈悲のはたらきによって、私たちの上に南無阿弥陀仏を成就しようと願われる。これが念仏ですが、念仏申すところに如来の真実のすべてがこめられている。親鸞聖人は「真如一実の功徳宝海」と言われています。この南無阿弥陀仏を成就しようという本願が第十七願「諸仏称名の願」です。
 大きな流れで言えば、第十一願の正定聚(しょうじょうじゅ)に住すという形で滅度に至らしめるということを、第十七願の念仏申すところで具体的になさしめようというのが本願の構造です。念仏申して生きるのが正定聚の往生の姿です。しかし、ここにまた大きな問題がある。

真実信心の成就のために
 人間は無明煩悩の不実の者です。その人間が如来真実の南無阿弥陀仏を素直に受け止めることは有り得ないことです。不実なる者は真実を嫌っているのですから。念仏が真実。念仏のところに真実がある。真実であればあるほど念仏を避けようとする。つまり、念仏に真実をこめて私たちの上に成就し、それによって救おうという如来のお心を受け入れないのです。
 念仏申すことが成就するには、如来の心を受け入れるかどうかにかかっている。念仏申すという行の成立は如来の信心という心を受け入れるかどうかという心の問題に極まるのです。そこに、念仏成就を願う第十七願の次に、信心という如来真実の心の成就を願う第十八願「至心信楽の願」が立てられる必然的な理由があるのです。この願は念仏を成就せしめる願ですから、とても大事な救いの鍵になる本願だと言うべきでしょう。

 そこでもう一つ奥へ問題は移ります。信心を成就せしめたいという第十八願。この中心的な願が成り立つためには具体的に何が必要となるのか。そこに俄然存在を現わすのが人間の闇を照らし出す如来の智慧のはたらきです。如来の智慧は光のごとく人間の奥深く差し込み照らし出して闇の正体をその人自身に示します。これがあなたの姿なのだよ。これが闇の正体なのだよ。これがあなたなのだよと。その照らし出す本願が第十九願「至心発願の願」と第二十願「至心回向の願」です。
 今『観経』は、その第十九願という本願を、具体的な私たちに届く教えとして表わした経典なのです。人間の闇、そこに巣食う如来無視の心、この心に光を当て照らし出して、私自身に示し出す。そのはたらきが第十九願で表わされる本願。その本願のはたらきに出遇ってもらうために、お釈迦様は大いに努力工夫なさって教えを説かれた。この教えに沿って歩むところに、人は『大経』の第十九願の本願のはたらきを受け、自己の姿に目覚め、如来のまごころにひれ伏して念仏を申すことができるようになる。この教えをお釈迦様が説かれた。それが『観経』なのです。

 そういうわけで、『観経』の教えによって、私たちは自己自身に目覚め、同時に如来真実の心に目覚めていくことができる。自己が分かり如来真実が分かっていく。その歩みを為さしめることによって第十八願の信心の成就が成されていくのです。さらにそれによって、(さかのぼ)って第十一願の「滅度に至る」ということが成就するのです。
 ですから、『観経』『阿弥陀経』という経典がなければ私達の救いの具体的な道は見えないということになります。とても大事な経典なのです。この経典によって私達は遂に『大経』の説く真実の世界に至る。そのような関係があるわけですね。『大経』だけでは、真実は説かれても、その真実は私のところには成就しない。もっとも第十九願・二十願で説かれていますからわかるようなものですけれど、その本願を教えとして説いて頂くことがなければ、私たちがその本願に沿って歩んでいくことは難しい。そこに、本願を教えとして説いた『観経』や『阿弥陀経』の不可欠の存在意味があるのです。
 この『観経』や『阿弥陀経』を方便の教えと言います。方便の教えとは、これに沿って歩むことによって必ず『大経』の説く真実に私達を至らしめる力を持っている教えです。『大経』は真実を説き、『観経』等の方便の教えによって私たちは必ずその真実に至ることができるのです。
 そういうことで、『観経』はどこから生まれたのか。簡単に申してみました。『大経』の説く四十八願の中の第十九願のところから『観経』が生まれたということです。

 さて今日は、そもそも『観経』というのはどういう経典かという、その基本のところを少し見てみようということで、人が人に、即ちお釈迦様が韋提希に、如来の本願を説く経典だということをまず見ました。次に観経はどこから生まれたのかということで、少し解りづらいかも知れませんが、『大経』の本願から生まれたのだということを見ました。『大経』の説く真実を私たちの上に成就しようということのために『観経』が説かれたのだということですね。
 ですから『観経』の教えを頂いて歩んで行く所に、真実ならざる自己を自覚していくことができる。それは同時に何が真実かということにも目覚めていく訳で、如来が真実であるということを受け入れていくことができる。そのことをなさしめる経典なのです。こういう原理的なお話は少し難しく感じられるかも知れませんが、少しずつ読み進めていってみると、だんだん解ってくることと思います。

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(三)観経の構成

善導大師の登場

 さて最後の一時間は、『観経』の全体の構成がどうなっているのか、それを少し見てみたいと思います。
 島地聖典では『観無量寿経』は二-一頁から三十頁までです。一巻でできている経典です。三十頁と言えば短い感じがすると思います。しかしその内容は大変な構成を持っていて、広く深く巧みな構造、よくぞこれだけのものが作られたものだと思います。もっとも仏様が説かれたのだから当然のことで、私があれこれ申すことではありませんが。
 この『観経』を読んでいく上で一番大事なことは、文字通りこれを繰り返し読むということです。当然のことのようですが、これが一番大事なのだと私の先生も繰り返し仰いました。皆さんも折に触れて目を通しておいていただくといいかと思います。
 『観経』を読むということで面白いことがあります。面白いというよりも歴史的な大事件と言うべきかもしれません。目の前にあるわけですから誰でも読めば内容がわかって、皆が大体同じように理解するだろうと思われますね。ところがこの経典はそうではなかったのです。歴史的に見て、この経典は随分と誤解を受けてきたのです。
 そしてまた人間の常ですが、沢山の人が誤解をしている時には、その誤解が正解になるという訳です。そこへ、それは誤解だ、正解はこうなんだと言おうものなら、多勢に無勢で袋叩きに遇い、負けるかもしれない。不条理なるかな人間界、ですね。
 しかし、それは世間のことであって、仏教の世界にそのようなことがあろうかとも思われますが、なかなか事実は奇なり。『観経』はまさしくこの運命の波に翻弄されてきたのです。『観経』が歴史の上に姿を表わしたのは五世紀のはじめの頃のようです。そして六世紀になって隋の時代に三人の高僧が出ました。浄影寺慧遠(えおん)、天台大師智顗(ちぎ)、嘉祥大師吉蔵(きちぞう)という人です。隋の三大法師と呼ばれています。この人たちが『観経』を読み解説書を書きました。しかし、それがみな間違っていたのです。
 間違っていたということは、そのように指摘する人が現われてはじめてわかったことです。その人が善導(ぜんどう)大師です。三人の人たちが亡くなった数十年後、七世紀、唐代の初めの頃のことです。この間の経緯、そして善導大師とはどのような人なのか、それらについては追々お話していきます。
 要するに善導大師という人が現れて初めてこの経典の正しい理解の仕方を示したのです。この人がもし現れなかったら仏教はどうなっていたか分かりませんね。念仏の教え、『大経』の本願が本当に私たちの上に成就するようになっていたかどうか。それは日本においても同じで、法然上人や親鸞聖人が現れなかったらどうなっていたか、ということがありますね。

 そういうことで、今日私たちが『観経』を理解する仕方は善導大師の理解の仕方に立つのが基本になっています。他の立場でもいいではないかとは一般的に言えるかもしれませんが、ここはそうはいかない。仏教の理解において根本的かつ決定的に大事なことを善導は明かし、そこに立って理解をしたのです。善導の理解といっても一個人の理解という意味ではありません。およそ仏教の理解を二つに分け、正しいものを明らかにするという根本的な作業だったのです。「古今(ここん)楷定(かいじょう)」と言います。そこに善導大師がなされた大事業があったわけです。
 親鸞聖人は正信偈の中に『善導独明仏正意』と讃嘆されました。善導大師が独り仏の正意、即ちこの『観経』で説いている仏様の正しいお意を明らかになさったのだと。三大法師といえどもできなかった、いや間違ったのだと。このように善導大師のことを讃えられました。この善導の読み方によって浄土真宗の念仏の意味が明らかになったわけです。そういうわけで、私たちもこの経典を善導大師が読まれた読み方に立って読むということになります。

序分の課題
 先ず最初は「序分」。序論です。序分の「分」は全体をいくつかに分けた序の部分だということですね。最初から六頁の終わり二行目の所までです。六頁といえば全体の二割。序論としては少し長い感じもします。しかしそれにはそれだけの意味があるのです。序論のテーマはいくつか大きなものがありますが、最終的には主人公の韋提希が凡夫の自覚を持ち始め、お釈迦様が次に説かれる如来本願の教えを聞くことができる状態になるということです。
 本願の教えを聞いていこうという時に、凡夫の自覚を持つ、或いは持ち始めるようになるというのが大事なことなのです。凡夫の自覚が本願の教えを我が教えとして聞かせるわけです。説かれたものを間違わずに受け止めて聞くことができる。凡夫の自覚を持つかどうかが、正しく聞けるかどうかの別れ道になるわけですね。それもそのはず、そもそも本願は人間存在を凡夫であると明らかにしたところに立てられたのですから。
 凡夫というのはいろんな意味がありますが、特にここでは、自分の救いの道は自分で歩めるのだという自負心が強調して表わされています。しかし実際はそのような力は無いのであって、有るという思いだけがある。それを「心想羸劣(るいれつ)の凡夫」と言います。いくら心で大きなことを思っていても実際はやせ衰えた羊のように弱く劣ったものだということでしょう。ちなみに、われらが「るいれつの会」の名称はここから来ているわけですね。

 もし自分に力が十分に有ると思っていれば仏様の力など必要となりません。力といってももちろん一般的なことをする力ではなく、自分自身を救う力のことです。このことはとても大きな問題ですから、そのうちたっぷりと出てくることになります。この経典の中心問題といってもいいところです。教えを説いても、韋提希の方が凡夫の自覚を持っていなければ、いくら説いても通じない。自分には関係のないものだと素通りさせてしまう。だからそこの条件を整えるのです。教育学で言う教育準備性(レディネス)を確立する、それが序分の最終目的ですね。

王舎城の悲劇
 さて、序分の最終目的をはじめに見てきましたが、序分の全体を概観してみたいと思います。主人公の韋提希は王妃です。夫は頻婆娑羅(ビンバシャラ)王、二人の間には阿闍世(アジャセ)という男の子がいます。狭く見ればこの三人の家族の間で大変な悲劇が起こった。これが発端です。
 阿闍世が父親を牢に閉じ込め殺そうとした。餓死させようとしたのです。これを助けようとした母親もまた捕まえ、牢に入れた。子供が両親を牢に閉じ込めたのです。そして父親を殺すという、そういう大変な事件が起こった。その中で牢に閉じ込められた韋提希の救いはどうなるのか、そこを説いていくのが『観経』です。悲劇がきっかけになっているということがポイントです。
 ここで注意が必要なのは、いろいろなことが起こる人間のその一つである悲劇というのではなく、悲劇の人間ということです。「人間の悲劇」でなく「悲劇の人間」。人間存在はそもそも悲劇的であるという、そのことを明らかにしたところに仏教が生まれた。その教えを聞いていくということです。
 そこから出発し、その韋提希にお釈迦様が巧みに対応なさって、韋提希の上に如来本願の教えを受け止める準備性を整えていく。それが凡夫の自覚ということでしたね。その自覚が起こり始めたところで序分は終わります。

正宗分――定善観の教え
 次に正宗分です。これが正しく『観経』の教えの本体です。全体が観法です。浄土と仏を観る。仏様に出遇って行く為の方法が説かれます。その方法が大事なところで、「観る」という方法です。韋提希が心を込めて浄土の世界を観ていく。その観法が説かれている。浄土はこういう世界なのだとお釈迦様が教え、韋提希がそれを一生懸命に聞いて、それによって本当に浄土の世界に生まれていくことができるようにしていくのです。
 その浄土と仏に出遇う観法の教えが全部で十六通り説かれます。それが大きく二つに分かれて、前半が「定善十三観」。後半が「散善三観」と言います。定善というのは一口に言って心の善ですね。自分の思いで浄土を観ていくことが出来るのだという心です。浄土を見ることができるほどのいい心というわけです。その思いに立って浄土を観ていこうとするのを「定善観」と言います。自分自身の心の真実さというものを肯定しているわけですね。
 お釈迦様がなぜこういう教えを説かれるかと言えば、「韋提致請」の教えと言って、きっかけは韋提希が説いてほしいと要請をした教えなのです。その要請を受けて、お前の言う通りに説こうと説き始められた教えです。じつは韋提希の要請というのが問題で、自分は心の善が出来るから、自分の力で見ることができるから、浄土の観方を教えて下さいとお願いをしたということですね。
 その要請にお釈迦様が応えられた。但し韋提希の要請の範囲内だけを説くのではありません。加えて韋提希の心の真の姿、即ち虚仮不実さというものを照らし出すような教えを説かれる。その辺りは微妙でとても深いところです。

正宗分――散善観の教え
 正宗分の後半は「散善三観」。散善というのは心に対して行いの善です。善の行為。いいことが出来ると思っているのが人間です。でも本当にそれをやってみると出来ないことが分かる。これが自覚です。やってみると、意に反してできないのが本当の自分だとわかる。できない自分であることを受け止めることはなかなか難しいですから、自覚が起こらないようにと、そもそもその行いを真剣にやることを私たちはしないものです。虚偽と曖昧の中を生きるのが人間と言うべきでしょう。
 教えによって自分の本当の姿が照らし出されていく。これが仏教ですね。自己とは何か。自覚がだんだんと深まっていく。自覚を深めさせる教えがここで説かれていきます。これは前半の「韋提致請」の教えに対して「仏自開」の教えと言われます。お釈迦様自らが開かれた教えです。

 私を目覚めさす教えは私からは要請できない。これが悲しきかな人間の姿ですね。私は私自身に目覚めたくありません。我執の心のままでいたいですからね。しかしその私を目覚めさせるのが仏様の側のはたらきなのです。その教えは私たちの要請を待って説かれるということにはならない。仏様の方がその教えは自分が説くぞと言って説き始められないと誰も説く者はいないのです。
 そこで「定善観」と「散善観」の両方のテーマは一言すれば「自己とは何かの自覚」。自己と如来に目覚める歩みということでしょう。このことが本当に巧みな内容と構成で説かれているのです。

自己と如来に目覚める
 「定善十三観」の教えが六頁最後の行から二十一頁の四行目まで。その中で自己と如来を自覚する特徴的な内容を挙げますと、十五頁の終わりの方、そこは阿弥陀仏の本当のお姿にお遇いしていく場面です。『仏身を観ずるを以ての故に亦仏心を見る。仏心とは大慈悲是なり』とありまして、大慈悲というのが仏様なのです。大慈悲の如来に出遇うということになるのですね。
 また自己自身に目覚めていくということはたとえば十九頁最後の行、これまで定善観の教えを聞いてきて韋提希の心の中に起こった変化を確認していくところです。お釈迦様が韋提希に対し「これまで教えを聞いて、お前の中にこのような心が起こったであろう」と言い、韋提希も「はい、その通りです」と言って確認をしていくのです。

 それで二十頁の初めに『蓮華の中に於て結跏(けっか)趺座(ふざ)し、蓮華合する想を()し蓮華開く想を作せ』とありまして、蓮華で仏様の世界を表している。初めには仏様の世界の中に韋提希自身が生まれた。しかし、「蓮華合する」。その花びらが閉じるのです。「華が閉じる」というのは仏教では独特な表現ですが、仏様のお心を受け入れず、逆に謗っている私たちのあり方を表現しているのです。仏様の世界の中にあって仏様を謗っている者の姿です。
 そして『蓮華開く想を作せ』とあって、何者かがその華を開かせて下さった。それがまた仏様なのですね。そういうふうにして自分という存在がいかに仏様を無視する不実の存在であるかを確認していくわけです。このように自己と如来に目覚めていくのです。

深まっていく目覚め
 「散善三観」の方でも目覚めの極みが二十八頁の後半にある下品(げぼん)下生(げしょう)の自覚として出されています。人を上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)・下品と分けます。何において分けているかといえば、自覚の深さです。上より中、中より下と自覚が深まっていきます。上・中・下は自覚の深さを表わす表現です。中より上がいいという善悪の尺度ではありません。
 上品上生の人がいる。目覚めがまだ浅い人の姿を表わします。浅いということは本当の自分がよく分かっていないということですから、自分は何でも出来ると思っている。ではやって見て下さいとなると、出来ないのですね。それで自分は上ではなかった中だったと。しかしこれもやって見ればできない。下だったということで、上・中・下と目覚めがだんだんと深まっていくのです。上品上生から下品下生まで九通りあります。深まりを九つの段階で分けて丁寧に説くのです。ですから下品下生というのは本当に自分の姿がはっきり明らかに照らされて見えているあり方です。

 二十八頁、『仏、阿難及び韋提希に告げたまわく。「下品下生」とは或いは衆生有りて不善業を作り、五逆・十悪、諸の不善を具せん』これは客観的にこのような人がいるという感じの文章ですが、じつは下品下生と位置づけられる自己に深く目覚めた人の自覚の言葉なのです。私はこれまで不善業をたくさん作ってきました。五逆・十悪の存在ですと、本人の目覚めの自覚の表現なんですね。
 その人がついに、『善友告げて言わく。「汝若し念ずること能わずば応に無量寿仏を称すべし」』と善友の念仏の勧めを受けて『至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏を称せん。仏名を称するが故に念念の中に於て八十億劫の生死の罪を除く』となって、自分という存在は如何に仏様を無視している存在かと気付いた時に、その仏様からの呼びかけを受け止めることができる。念仏申せという呼びかけを受けとめることができるのですね。

 それまでは自分に自分を救う力があると思っていた。仏様の力など借りなくてもいいという思いがある間はなかなか念仏は申しません。本当の自分に覚めてきた所に初めて南無阿弥陀仏と念仏申せるようになるのです。そのような自覚を私たちの上に為さしめようという教えが「散善三観」の教えです。これは仏様の方がご自分から説こうとなさらない限り、この教えを説いてくれという要請はどこにもない。私たちにはできない要請です。仏自開の教えですね。

観経がもたらす最大の利益とは
 次の三十一番の文章は「得益分(とくやくぶん)」と言います。得益というのは利益(りやく)を得る。この『観経』の中で韋提希は、どこでどのような利益を得たのか。それを最後になって明らかにする箇所です。二つの利益があると説きます。わかりやすく言えば、一つは出発。もう一つはゴールということです。真に救われる道の出発をなさしめ、歩ませて遂にゴールに至らしめた。この出発とゴールを成就させたというのが、この経典が私たちに与える最大のものだということです。この出発とゴールを押さえ、これらが最大の利益だと位置づけることで、『観経』の教えは、込み入った網がかなり素直に解ける感じがします。
 本願の教え、即ち自己を照らす教えを聞いていこうという出発が当然大事で、それまでは道を歩むことなど全く思ってもいなかった人が、よし、生涯を挙げてこの道を歩んで行こうと出発するということがなければいけない。ゴールに至るには出発しなければならないのです。その出発がどうすればできるのか。これは大変な問題なのです。

 この出発は序分の所でされています。お釈迦様が「光台現国」の教えを説かれるという場面があります。お釈迦様が光の台に沢山の諸仏の国を現わして韋提希に見せ、選ばせた。韋提希はそれを見て阿弥陀の国に生まれたいと願った。そこが韋提希が阿弥陀の国に生まれたいと願う一番最初の点なのです。
 それまでは現実逃避ばかりで、浄土に生まれたいというようなことは言いますけれども、その浄土とは憂いや悩みの無い世界を浄土だと自分勝手に思って言っているだけなのです。そのような韋提希の上に、本当に阿弥陀の国に生まれたいという思いが起こった。お釈迦様の光台現国の教えがじつに巧みで、その教えの力が韋提希に出発を為さしめたのです。

 私たちも同じです。仏法などに全く関心の無かった者の上に、今からこの教えを聞いて生涯歩んでいくという出発の時が来るとすれば、一体誰がそれを為さしめたのか、ということになります。それがお釈迦様なのです。最初に「人が人に本願を説く」と言ったその「人」なのです。お釈迦様を代表とするよき人、善知識、そういう具体的な人が全力を傾けて彼に教えて、それで彼を出発せしめる。人を出発させたということが大変な利益なのだというわけですね。

 もう一つはゴールです。ゴールと言っても誤解をしないでください。普通はゴールのテープを切れば、もう走るのを止めますが、仏教のゴールというのは、そのテープを切るところから本当の歩みが始まるのです。生涯を尽くす歩みです。ですから、世間のゴールは歩みをやめる地点。仏法のゴールは、そこから真の歩みが始まる広がりを持ったところ。ゴールという大平原を生涯をかけて念仏申して歩むのです。その大平原を尋ね求める道を歩み始めるのがここで言う出発です。

 「定善十三観」の中の第七観に華座観というのがあります。そこには韋提希が阿弥陀仏にお遇いをするという大変象徴的な場面が説かれます。十一頁『是の語を説きたまう時、無量寿仏空中に住立し、観世音・大勢至是の二大士左右に侍立せり』とあって、無量寿仏が韋提希の前に現れる。その無量寿仏についに韋提希がお遇いをするのです。これが具体的なゴール。ゴールの大平原ですね。まさしく得益分で確認する場面です。
 『観経』という一つの経典が持っている最大の利益とは、本願を聞く道の出発とゴールの両方を、私たちの上に成就するということなのです。

経の結論・流通分
 二十九頁終わり三行目を見ますと、そこは流通分(るずうぶん)です。この教えを広く人々に伝えていくというのが流通です。経典の最後のまとめの部分です。経典は最後に何をもってまとめるかと言えば、この経を次なる者へ伝えて欲しいとお釈迦様が弟子に託すところで終わる。ここでは経典の名前をどのようにしますかと阿難が尋ねるという場面と、念仏を(たも)てとお釈迦様が説かれる場面、三十頁の真中の行、『仏、阿難に告げたまわく「汝好く是の語を持て、是の語を持てとは即ち是無量寿仏の名を持てとなり」』とあって、念仏を申せというのがこの経典の結論になるということですね。

耆闍会――『観経』を成立させるもの
 最後に三行ほど残っています。三十三の番号のところです。僅か三行ですが、これがなかなか大変な問題を持っているところで、これを耆闍会(ぎしゃえ)と言います。これは耆闍崛山(ぎしゃくっせん)という山で開かれた会座という意味ですね。この山はお釈迦様が仏弟子を相手に教えを説いておられたところです。そこから少し離れた所に王舎城があって、頻婆娑羅王、韋提希、阿闍世が住んでいた。この王舎城で悲劇があり、韋提希の要請を受けてお釈迦様が王宮へ行かれ韋提希を相手に教えを説かれたわけですね。
 そして説き終わりまして、『爾の時世尊足虚空を歩し、耆闍崛山に還りたまう』と耆闍崛山に帰られます。そこで『爾時阿難、広く大衆の為に如上の事を説く』阿難が耆闍崛山で待っている人たちに対して如上のこと、即ち王宮でお釈迦様が説かれた教えを、阿難が説いたのです。お釈迦様は傍でお聞きになっておられたのでしょうね。阿難が皆に説いたその会座を耆闍会というのです。それに対してお釈迦様が韋提希に説いた会座を王宮会(おうぐえ)と言います。
 ということは、この『観経』の中には会座が二つあることになります。二つの会座を一まとめにして『観無量寿経』という一つの経典が出来ているということです。王宮会と耆闍会で一つの経典となる。これはいったいどういうことでしょうか。
 また、お釈迦様が説かれていた教えを阿難が説いてどうなったかと言えば『無量の諸天及び龍・夜叉、仏の所説を聞きて皆大に歓喜し、仏を礼して退きぬ。』お釈迦様が説かれた教えを他の人が説いても結果は同じ、効果は同じなのだと。『皆大歓喜』皆大きに喜んだというのです。これはいったいどういうことでしょうか。

 仏法の教えは初めはお釈迦様が説かれたものですが、お釈迦様も勿論亡くなられます。その後はどうなるのか。誰も説く人がいないではないかということになる。そのことを問題にされているのは他ならないお釈迦様ご自身なのです。王舎城では成る程自分が説いたけれども、それは一人韋提希だけを救う教えでなく、万人が救われる教えを眼前の韋提希を相手に説いたのだと。
 しかしその教えは自分が説こうと他の者が説こうと同じ効果を表すのだ、ということをお釈迦様は証明なさりたかったのではないかと思います。このことがはっきり証明できないと、本当にお釈迦様が亡くなれば仏法は滅んでしまいかねない。それで他の人に説かせたのです。結果は同じでした。他の人でも仏法は説くことができることが証明されたのです。

 こういうわけで、『観無量寿経』という経典は「王宮会」と「耆闍会」の二つの会座で一つの経典が成り立っている。普通考えれば、王宮会の説法の内容だけで『観経』という経典が成り立つような感じがします。しかしそれでは『観経』一巻は成立しないのです。原点としての王宮会。そしてその後、他の者が説いて同じ様な結果を生じる。そのことをもって初めて『観経』は成立したことになるのです。
 従って、その後の会座は誰が説き誰が聞こうとも、仏法の会座であるならば、須らく「耆闍会」ということになるでしょう。今日のこの会座も「耆闍会」なのです。今日、皆がよかったということになって、それで初めて『観経』一巻が成立するのです。『観経』を成立させるのは私たちの聞法にかかっている。
 ですから『観経』というのは永遠にその都度その都度成立せしめられることを待っているのです。千年後も二千年後も、成立しても成立しても次を待っている。仏教の教えは単に昔説かれた教えを今聞いているというのではありません。今の教えなのです。今の私たちがこの教えによってよみがえることによって『観経』がよみがえり、今日という日に於いて『観経』の新たな成立がなされるのです。

 ごく大まかなことでしたが、次回より本文に入って少しずつ頂いていきたいと思います。


(講義集刊行に当たって)
 『観経』の第二回目のお話を始めるに当たって、お互いの復習のためにも「講義録」を作ってはどうかという案が持ち上がり、書下ろしや印刷等も皆さんがやってくださることになって、『今よみがえる観無量寿経』と題して毎回冊子を作ることになりました。この題名も皆さんのアイディアによるものです。
 『観経』をよみがえさせるということは甚だおこがましいことですが、それなりに皆が力を合わせて頑張らないといけないことではあります。しかし、じつのところは『観経』それ自体がよみがえろうと常に胎動しているのであり、私たちはその動きに触れて真実のいのちのぬくもりを感じ、それによってじつは私たち自身がよみがえることになるのだと思います。
 従って『今よみがえる観無量寿経』とは『今よみがえる私自身』という意味に違いありません。私たちが『観経』によってよみがえる時、その時初めて『観経』もまたよみがえる。この深い繋がりが経典と私の間にはあるのです。
 およそ一〇年一〇〇回の計画で、或いはそれ以上になるかもわかりませんが、『観経』と私との深い繋がりを少しずつ(ひも)解き尋ねていきたいと思います。

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