日野の会通信(No.182)抄

平成11年7月5日発行
日野市教育を考える会

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第三章講義           佐々木 玄吾

感話 差別の世界を喜びを持って生きる(方法) B. Yaoya

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本講 歎異抄第三章講義「悪人正機章」

佐々木 玄吾 先生講義 

受講記 田中 郁雄

 自力の心を廻して、他力をたのみたてまつる悪人

一、他力をたのみたてまつる

 自力の心を廻す事が他力をたのみたてまつることで、同じことである。第一章に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもいたつ心のおこるとき」とあります。

  弥陀の誓願不思議…他力
  信じて…たのむ
  おこるとき…たてまつる

 第三章は第一章の展開である。このことが本当に分かった時、たのみたてまつることになるのである。

1、出発点がある

 自力の心で決断をして出発する。その時大事なのは方向である。自分が成長、向上する方向である。次に「継続は力なり」である。やりはじめたら最後までやり抜くぞという心がエネルギーとなる。また、回りのものに激励されたり、先生や、書物によって前進する、このような状態を仏教では資糧位という。これが出発点である。

           ↓資糧位(もとでを集める)
           ↓加行位(実行する)
・==================・
↓通達位(喜びを持って生きられる)
↓修習位(本格的な仏教生活となる)
↓究竟位(さとりの世界)

 加行位と通達位の間に大きな断絶、壁があって、なかなか通達位にいけない。聞、思(考える)、尋求(たずねる)をやっていけば通達位にいけるかというと、そうはいかない。

 行きつ、戻りつを繰り返すのである。なかなか通達位に立てないという問題がある。そこで挫折するのである。

 何故、出発するのかというと。これでいいという現実にならない。そのことを人に尋ねる。そして実行するのであるが、行きつ戻りつして、元の木阿弥となってしまうのである。十年、二十年聞いているのに通達位に立てないから、分かったような顔をする。

 通達位とは信心決定して念仏申す世界であるが、現案はその通りにならない。通達位とはドングリが殻を破って発芽することである。

 普通の宗教では頑張れば通達位に立てますよというが、浄土真宗では頑張っても自力の心では通達位に立てませんよという。何故なら絶壁がある。その断絶の壁があるとわかり、その壁の前で、現前の自己に落在す、自分は何であるかと分かること、自分の座が決定するということがなければならない。これは自分の力では出来ないことであります。

 話を聞いていると眠くなる、その時自分で自分をつねってもだめである。隣の人にたたいてもらわないと目が覚めない。それと同じように、覚めた人の呼びかけを聞かなくてはだめなのである。

 親鸞は九歳で得度し、二十九歳で法然上人にお会いするまで行きつ戻りつした。法然上人は十一歳で父を亡くし、四十三歳まで分からなかった。曇鸞は五十三歳までわからなかった。これらの人は分からない分からないといって継続していった所が偉かったのである。

 教えと現実とがあわない。自分も悪いかもしれないが、あなたも悪い、五分五分であると思うのである。「問題は内にある」ということが分からないのである。蓮如上人は「口と身のはたらきは似するもなり。心根はよくなりがたきものなり」といわれている、本当の自分自身の姿を知ること、悪人の自覚が大事であります。

 豊平の田坂さんに夜晃先生が言われた言葉「五年十年聞法の人が朝夕仏前にまいらなかったり、口から出放題の言葉をはいたり、行動をしたりするようでは問題外だが、長く聞いた人は誰でも必ず底を入れて、その上に立って人を裁き憍慢になる。横着になる。この天地を出してもらわねばならない。それには内に自らを顧みて、解怠、憍慢の姿を見ること以外にない。そして一日一日存在自体がものをいう人物にならねばならない。それは自分の心の中に自己肯定し、何か尊いようなものがでてくる。それを全てかなぐり捨て、自身の中に愚悪のみであることを信知することによって成就する。大愚に帰るのである。」蓮如上人は「信心治定の人は見ればすなわち尊くなる」といわれた。通達位に立った人の特徴である。

二、信心の分からない人の特徴

  1. 雑縁乱動して正念を失す
     色々なことや人に引きずられて価値判断が乱れる。そのような人は信頼できない。正念とは世間のことより仏法を第一と考えること。
  2. 恩ということが分からない
     何でも自分でやっていると思っていて、如来大悲のご恩が分からないのである。

 これを打破するにはどうしたらよいか。しかしこの問いは、これを解決したいのであるが、何故解決したいかというと、今、行き詰まっている。この現実を打破したい。その心根が自己の幸福追求であるからこの問いは間違っている。本願の力によるのである。

三、本願成就

 本願が届いたところ、南無という呼びかけに答えるときに本願が成就するのである。

大経の本願成就文に、

 諸有衆生…迷い深い衆生、悪人と目覚めて
 聞…聞き抜く
 其名号…よき人の仰せ(南無阿弥陀仏の教)
 信心歓喜…を聞いて信心歓喜となる。

自力の心が廻されるとは本願成就によるのである。このこと以外に通達位に立つことは出来ないのである。

 本願(第一章)はよき人の仰せを通して私に届く(第二章)のであるが、よき人は一人だけでなく釈尊、善導、法然を通して届くのである。届いた所に他力をたのむ悪人(第三章)が誕生するのである。

四、廻(めぐら)すとは

 廻心という。廻思向道、思いを廻して、道に向かうことで、仏様の方に向かうのである。如来の本願力によって廻されるのである。例えば鉄片がある。これを磁石にするには磁石で同一方向にこすると磁石となり北と南を指す。北とは如来本願で、南は人生に働きかけるのである。また、廻心は必ず廻心懺悔となる。如来の前にお粗末な私、恩知らずの私、南無阿弥陀仏となるのである。合掌

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感話差別の世界を喜びを持って生きる(方法)

B. Yaoya

 今、自分たちが生きている世界は、いったいどの様な世界なのか、と考えることがある。その様なことを思うときは、たいてい自分にとって理不尽なことが起こったように思えたときである。先日も自分の知り合いの人が交通事故で突然亡くなり、その様なことを考えた。その人は、夜自転軍で道路を横断中、スピードオーバーの自動章に自転車ごと跳ねられてなくなったのである。胸部内臓破裂等により即死であった。何故このようなことが突如として起こるのか。

 夜晃先生は、我々が生きている世界を「差別の世界」ないし「相対差別の世界」と言われた。我々が生きている世界はまさしく「差別の世界」かも知れない。巻では「平等」という言葉がよく使われるが、現実には差別の世界が厳然と存在している。

 では、仮にこの世界が「差別の世界」だとして、この差別の世界を喜びを持って生きる方法はないだろうか。また、この差別の世界を喜びを持って生きることが私の願いでもある。

 しかし、私自身、この喜びを持って生きる方法についてはまだよく分からない。ただ言えることは、この差別の世界を喜びを持って生きるためには相対なものに依拠しては無理だろうと言うことである。そして、そのことを考えると、歎異抄第一章の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなり」と信じて「念仏まをさん」と思いたつこころのおこる時すなはち摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり、という言葉が非常に重いものに思われるのである。

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