日野の会通信(No.181)抄

平成11年6月14日発行
日野市教育を考える会

歎異抄を読む会

本講 歎異抄講義        岡本 英夫

感話 歎異抄第五章について  I. Yaoya

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本講 歎異抄講義

岡本 英夫 先生講義 

受講記 田中 郁雄

一、歎異抄の構成

 歎異抄は全体が十八章からなっていて、第一章から第十章までを顕正という。顕正とは正しい仏法の教えを表す。そして、後の第十一章から第十八章までを破邪という。破邪とはよこしまなもの、間違ったものを打ち破っていくことである。顕正があって、破邪となる。破邪があって、顕正とはならない。

ふつうは相手の間違いを教えて、正しいものが分かる、破邪、顕正であるが、私たちが仏法を聞いていく姿勢は顕正、破邪であると教えられた。今までは外に向いていたものが自分自身を問うていく。これは顕正が先となることで、顕正の中に破邪を含むのである。

(12/59)「経に云はく『一者至誠心』…」とあります。これは観経の三心の教えである。至誠心、深心、回向発願心この三つの心を持って歩んでいきなさい、もしこの三つの心でいったなら浄土に生まれますよと釈尊は教えられた。

二、至誠心

 まごころをもっていけよ、これが仏法の第一のことである。善導はその釈尊の教えの内容を言われた。自分でそれを実行し、わが歩みをとうして解訳したときに、「経に云く」と言われたのである。善導が経を読んで、仏様がお説きになったから、もうこれ以上のものはない。ごの教えの中に求道の道が遂に見つかったという事である。

 私たちは長年、聞法を統けてきたが、本当の聞法とはどう言うことかが次第に分かってくる。その姿勢かはっきりすることは私にとってうれしいのである。経とは人生の縦糸である、経を聞くことが人生の.縦糸とすれば、横糸にこだわる必要がないのである。

また、経とは鏡である。鏡は私をうつし出すように、経は光のようにして私を照らすものである。曇鸞の「千年の闇室」の譬えのように、光は一瞬に闇を破る。仏法の教えを聞くことは、教えによって自分自身が照らされる。これが私の願いとなり、喜びとなる。

 私の側から言うと、一挙に照らされるのではなく、時間がかかる、仏法をどの様に自分が受け止めていくかが分からない。教えを聞いて、自分で考えて問うていくのである。

 総持(ダラニ)と言う言葉がある、教えをよくたもっていくこと。夜晃先生の言葉に「念願は人格を決定す、継競は力なり」とあります。教えを要約した言葉を自分の現実と照らして考えていくことである。

三、第一章「弥陀の誓願不思議」

 不思議という言葉は人間の思議を超えた世界、仏法の全体が表現されている。弥陀の誓願とは真実と言ってもよい。自分という人間が救われていくためには真実が必要であるが、その重みを受け止めることが出来ない。

 観経のイダイケは釈尊に釈尊自身ではなくてお弟子に来てもらって、慰めて欲しいとたのむのである。わざわざお釈迦様に私のようなもののために来て頂かなくても結構ですと言うことは、如来を無視している。如来からごらんになってどう恩われているか考えない。仏よりも偉くなっている。私、の同題は大したことではありませんと思う、これを小縁という。イダイケの姿を見てお釈迦様ご自身からいかれる。そういうイダイケだから本願を説かねばならないのである。

 観経の華座観に「この語幸説きたもう時、無量寿仏空中に住立し」とある。善導は阿弥陀仏と言う悟りを開かれた仏、は悟りの座に座っているもので、何故、軽々しくイダイケの本に立たれたのかと言う問い、を出された。

 真実の方がイダイケ、我々に働きかけて下さるのである。ちっぽけな存、在であるが、真実でなけれぱ救われないのである。

 弥陀の誓願不思議を知らせていただくことが聞法である。大したことは、ありませんと言っている裏には如来無視があるのである。

四、第二章「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとの仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」

 よき人、善知識とは具体的には法然上人である。ところが親鸞聖人はよき人と言われて、法然上人と言われなかった。もし固有名詞でいったら関東の人々が迷うのである。

我々が教えを被っていくには善知識を通す法則がある。涅槃経に雪山童子のたとえがある、童子が羅刹の半偈を聞くが、後の半偈も説いてくれと頼むのである。もしあなたが後の半偈を説いてくれたら、私はあなたの弟子になりますと言う下りがある。もし説いてくれたらわが身を捧げましょうとなる。弟子になることと、わが身を捧げることが同じである。

 私の場合は師を持っていたが、師と、仰いでいくことと弟子となることは別である。弟子となることは難しいのである。仏道にわが身を捧げていくことが弟子となることである。

 法然上人の教えを明恵上人が攻撃したが、その時上人は既に死んでいた。それに答えたのが親鸞である。それは法然上人の弟子になることである、「たとえ法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候」この言葉は親鸞聖人が自分で主体性を持って考えられたものである。先生がこうおっしゃったからこうですというわけにはいかない、自分で考えていくことが大事である。

 善導は「建立自心」と言われた。信心を自分の心としていく、これが大経の十八願である。信心が借り物でなく、自心となることによって独立者となるのである。「いずれの行も及びがたき身、地獄は一定すみかぞかし」という言葉がある。本当の信心はどんな人がやってきても壊されない。あなたはこのままでは地獄に堕ちますよ、といわれても私は今地嶽にいますと言えるようになることである。

 歎異抄の最後の註記に法然上人の四人の弟子が首を切られた、と記されている。歎異とは我々が流罪、断首の立場にあれば、首の飛ぶような念仏を申さなければならない。また、首を切ったのは我々ではないかという領解。自分が生きていくのに周りの人を諸仏と仰いでいけない。その周りの人も本当は如来本願がかけられている人と私が見出していくことが出来ない。本当のものが見えずに間違って生きていく、自分か分からないのである。これを教えるのが歎異抄である。 

  合掌

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感話歎異抄第五章について

N. Satoh

 若い人(?)を中心に、勉強会をしようということで始まった新芽の会が、お陰様で、六年目になりました。今は細川先生の「歎異抄講録」をテキストに第五章を学んでいます。

 弥陀の誓願が届けられると、他に対して、どの様な働きかけを持つようになるのか、というのが第四章、第五章です。お念仏に出会ったものの使命とも言えるかと思います。

 特に第五章のテーマは家庭の成就です。家庭の成就とは家庭の中に念仏の友が出来る。相手を「友よ」と呼べる関係になることを教えられています。

 「親鸞は父母の孝養のためとて…候わず」は一見、テーマと矛盾するようですが、二つのことを教えられておます。一つは私的関係を超え、共に歩む仲間という、言うなれば公的関係への転換であり、もう一つは家族といえども人間の力の及ばない。自分は聞法、求道していくしかない。だけれども、自分だけ聞法し、家庭は顧みないというような冷たいものでなく、共に歩んで有きたいという願いと、具体的な働きかけを持つようになるのが、既にお念仏の力であり、如来働きのこの世における分現である。と言うことです。

 テキストの中に「夫婦で聞法するようでなくてはならない」とありますが、厳しい教えです。たとえそれが生きてるうちに成立しなくても、願いを持って聞法することが、現実を念仏の縁とすると言う歩みだと思います。色々なことが起こるたび、小さな事で波立ち、自分の思いどおりにしたい自己肯定の心を見せつけられます。「あなたのおかげできょうもお念仏に会わせていただきました。」とすぐにお念仏かでるようになりたいです。

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