日野の会通信(No.180)抄

平成11年5月16日発行
日野市教育を考える会

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第3章     佐々木 玄吾

感話 名号について       I. Yaoya

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本講 歎異抄第3章「悪人正機章」

佐々木 玄吾 先生講義 

受講記 田中 郁雄

「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる悪人」

 このところが第三章で一番大事なところである。これを考えてみたい。

 第三章は第一章、第二章のつながりである。第一章は「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなり」これが歎異抄の中心であり、このことがわかると、歎異抄全体がわかるのである。

 第二章は弥陀の誓願、南無阿弥陀仏がわたしによびかけている。そのよびかけは諸仏、よき人の仰せとなる、そして「弥陀の本願まことにおわしまさば釈尊の説教虚言なるべからず…」となってよき人の伝承として私に届いてくる。

 第三章は私に届いたところが「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる悪人」となる。有り難うございますと言って御礼を申す。罪悪深重の私となるのである。孤独の殻に閉じこもっている者に対して友よと言って呼びかけられている。その呼びかけが私に届くと、私も友よと呼びかけることが出来るのである。

一、自力の心(理性)

 第十六章に「日ごろ本願他力真宗を知らざる人弥陀の智慧を賜りて、日ごろの心にては往生かなうべからずとおもいて本の心をひきかえて本願をたのみまいらするをこそ廻心とは申し候」「口には願力をたのみたてまつるといいて、心にはさこそ悪人をたすけんという願不思議にましますと言うとも、さすがよからん者をこそたすけたまはんずれ」とあります。口には悪人と言っているが、やはり善人がよいのではないかと思う。善い行いにとらわれる。知性とか理性、良心が大事であると思うのである。理性がなぜ問題か。

  1. 理想主義
     理性は理想主義であるから人は悪いことをやめて、善いことが出来るという仮定に立っている。だから社会的に地位の高い人に対して、新聞やマスコミは少しでも悪いことがあるとたたく、かくあらねばならぬと思う。これを人間過信、自己陶酔という。現実に裏切られ、その現実を包み込むことが出来ないのである。ここに理想主義の問題がある。
  2. 対象化、道具化(相手を突き放して見る)
     妻に対しては、食事洗濯をしてくれる道具、夫に対しては給料を運んでくれる道具としてしまう。子供が有名大学にはいったら、自分に箔がついたように思う。これが対象化、道具化である。

 他力の心は一体化、友となろうである。子供に対して、おまえが地獄に落ちるなら、私も一緒に落ちようとなった時はじめて親になる。「他力とは如来の本願力なり」が定義である。

 豊平の老人ホームで話しをする機会がありましたが、そこに暮らしている老人は孤独である、町長は老人が増え、その人達のために老人ホームを建てたのであるが、その中にいる人は淋しいのである。この現実を受け止められないのである。本当に如来の本願力にあったならば、どこにいても孤独ではないのである。

 例えばドングリは固い殻の中で生きている。それが大地を得て、太陽と水の働きによって、殻を破って芽を出し、根を下ろす。如来の本願力はよき師、よき友の教えをとうして私に働きかけ、私の内側(心)に根を下ろし、外側には家庭、職場、社会に働きかける。内と外に働きかけるのである。第二章に『ただ念仏して弥陀にたすけられもいらすべし」とある。拠り所を持って、ただ念仏すべしであるが、私が何であるかがわからなければ、ただ念仏にならない。他力をたのみたてまつる悪人とならないと、ただ念仏にならないのである。ではどうしたらこの

ことが成立するか、どの様な過程をとうるのか。非常に難しいが、本当の人に会うことが一番善いのである、今の時代にそういう人は少ない、そこでその方法として、

  1. 問いを持つ
     「君はそれでよいのか」この間いが出発点である、この問いに対して私たちはこれでよいと言うものがない。一九願に修諸功徳の願がある。廃悪修善である。人間の理性に訴えて、悪いことをやめて善いことをしなさいである。そして、至心発願、まごころを持って決心し、実行しなさいである。その前に「君はそれでよいのか」と言ってくれる人がいなければならない。その人は威厳を持って言える人でなければならない。さらに、その前に子供がわがままに育っていると、そんな人の言うことを聞かない。今は学級崩壊と言うのがある。子供には人に迷惑をかけない、何でも自分ですることを教えなければならない。夜晃先生は「甘ければ損ない、厳しければ損なう。念仏の子には無理がない」と言われている、仏教では六度の行を言う、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧である。この行を行じていけば仏智の悟りを得られると言うが、智慧がないと布施も持戒も忍辱も精進も禅定も出来ない。これは必ず行きずまるのである、この行きずまった人に対する問いは「如来ましますか」である。「自力の心をひるがえして他力をたのみたてまつる悪人」となった時、如来ましますとなる。このためには如来の心聞いていく。それを「聞其名号」という。其のとはよき師よき友の教えを聞いていく。聞いていくうちに私自身がわかるのである。
     名号(南無阿弥陀仏)は如来の呼びかけである。大いなる世界に帰れである。それに答えて念仏申すことが自力の心をひるがえしていくことなのであります。
  2. 廻心懺悔
     仏の前に自分を謝る。悪人と自覚することである。涅槃経に難治の三病、難化の三機とある。三病(三機)とは謗法(如来無視)、五逆(恩知らず)、一闡提(やる気がない)である。これは実は私のことであると分かることが悪人の自覚である。和讃に「小慈小悲もなき身にて有情利益はおもうまじ如来の願船いまさずば苦海をいかでかわたるべき」とある。
  3. 進展
     その悪人は弥陀の本願をたのむしかない。自分が何であるかが分かれば如来が分かる。それは同時である。如来の方向が定まるとそこから人生の働きがでてくるそれを進展という。虚心坦懐、私心なく生きていける。

合掌

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感話名号について

S. Akahide

 親鸞聖人の教義の中で難しいのは、南無阿弥陀仏と浄土だと細川先生は言われます。恐れ多くも南無阿弥陀仏についてはなしてみたいと思います。南無阿弥陀仏は名号と言います。

 名・・いまだ仏になりたまわぬ時のみな
 号・・仏になりたもうて後のみな

それは、

 名・・南無阿称陀仏が私の上に届かないときのみな
 号・・南無阿弥陀仏が私の上に届いたときのな

 如来が名ばかりで、まだ私の上に働きをおこさない時は名、如来の働き一が私の上に届いた時を号と言います。如来の働きとは如来無視、親不孝、恩知らずの私が本当の私であると知らして下さる(光明無量の働き)。他力の悲願は私のためにあったと知らせて下さる(寿命無量の働き)。

 私は行きつ戻りつしています。本願を疑いながら念仏申しているときには名号とならない。仏は名前だけの存在。仏になるとかなりたまわぬとかが私と関係なしには意味を持たない。私に届いてはじめて仏は仏になり、私は私になり、彼と我とは一つという世界が生まれます。

 ここで面白く思ったことは四十八願の中でほとんどが「我が名字を聞きて」となっているのに、二十願だけが「我が名号を聞きて」となっています。何故か、細川先生はある結論に到達されましたけれど、解答されていません。教えてもらっておけば良かったです。

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