日野の会通信(No.175)抄

平成10年12月7日発行
日野市教育を考える会

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第9章       松田 正典

感話 金子みすずの詩に学ぶ A. Kobayashi

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本講 歎異抄第9章

松田 正典 先生講義 

受講記 田中 郁雄

11月14日(土曜日)「歎異抄を読む会」の議事より

 先日、歌手の武田鉄矢さんのお母さんが亡くなられた。自分の子供の教育のために体をぶつけていかれた方である。教育とは悪いことをしたらしかる、良いことをしたら褒めてあげる、と言われた。これが教育の原点である。そして、PTAの依頼を受けて、全国に講演に行かれた。

 アメリカではアパートで犬を飼っているが、その犬がよくならされているのである。犬をよく育てるには三つのことが大事であるという。一つは褒める。二つは叱る。三つは分かりやすく、直ちに一貫性を持ってやることだそうである。人間教育も同じで、褒めると自尊心が育ち、叱ると忍耐力が育つ、そして切れにくい人格が育つのである。

○仏教に対する誤解

 現代の仏教は葬式仏教になって、形骸化して人々の生きるいのちとなっていないのである。誤解とは、一つは死後の世界の信仰である。二つは宿命論(前世の業だから仕方がない)である。

 私が仏教を生きることはこの二つを否定しているのである。自然科学の学者が仏教をやることに意義がある。三十年間このこととたたかってきたのである。細川先生も福岡教育大学で歎異抄講座を開かれた。先生の教え子の方が、先生は教室でたった一人私のために、二時間歎異抄の話をして下さったといわれた。

○歎異抄第九章

「念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎に候うこと又いそぎ浄土へまえりたき心の候はぬはいかにと候うべきことにて候うやらん」と申し入れて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに唯円坊おなじ心にてありけり」

 この第九章は歎異抄の中で一番難しいのである、何故なら、宿業と言う問題があるからである。曽我量深師は九十何歳まで長生きされたが、長生きしたので聖人の宿業のお心がわかったと言われた。

一、歎異抄全体における位置

 歎異抄は本願一実の大道を表そうとしているのである、本願一実とは如来の本願というたった一つの大道である。その本願は一切衆生の救済のためであるが、実はたった一人私のための大道なのである。後序に「彌陀五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人が為なりけり」とあります。

1、現生に智眼を賜る

 現実人生において、いかなる状況になろうとも生きてゆける智慧の眼を賜ることである。智眼とは二種深信である。一つは「他力の悲願」を信知する。これを法の深情と言う。二つは「かくのごときのわれ」「そくばくの業をもちける身」と信知する。これを機の深信と言う。このことは第一章から第三章に表されている。

2、現生に不退の行歩を賜る

 生老病死と言う現実人生の苦海に退転することのない行歩を賜るのである。第四章から第八章である.特に第七章には「念仏者は無機の一道なり」と言う力強い言葉がある。

3、現生に宿業の自覚を賜る

 第九章に「念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎かに候うこと又いそぎ浄土へ参りたき心の候はぬはいかにと候べきことにて候うやらん」とあります。宿業とは喜びがない、浄土へ参りたき心がないことである。このことは第九章、十章、十三章に表されている。

○不退の行歩

1、人生に於いて根源的問を持つことである。

 根源的問いとは何を拠り所とし、何を生き甲斐にしているかということで、永遠の問いである。又、主体的に生きることへの問いであり、自己生成への問い(どうなったらよいのか)であり、自己生成の道程への問い(どうしたらよいのか)である。このような問いを持つことは、丁度、大海原を流転しているヤシの実に譬えられるのである。

2、挫折する

 行き詰まることによって挫折する。そのことによって自分は何であるかがわかる、大海原を流転するしかないヤシの実であると自覚するのである。

3、主体の確立

 釈尊は自灯明は必ず法灯明となると言われた。自灯明とはセルフ・アイデンティティのことで、私が私を肯定できることである。法灯明とはダンマ・アイデンティティという。法を拠り所とする、不退の行歩と言うことである。釈尊の教えは入信するのに特別な儀式はない、セルフ・アイデンティティの成就の道である。自灯明の成就は法灯明の成就であり、法灯明の成就は自灯明の成就である。

○宿業の自覚

 業とはカルマと言う。はたらきということである。因・縁.・業・果・報とこれを繰り返すのである。宿業とは一つは過去世(前世)の業という、一般的にはこのことが宿命論となってしまう。二には親鸞においては、そくばくの業である。そくばくとは底莫、そこなしということである。そこで、宿業について二人の師の解訳をみると、

(一)曽我量深師の釈

 「宿業とは本能である」と言われた。天親菩薩の唯識論では人関の意識を次のように考える。眼、耳、鼻、舌、身を前五識とし、意を第六識とする。そして、その奥の第七識をマナ識という。マナとは恒審思量という、自己中心の思いである、我痴、我慢、我愛、我見である。そのもう一つ奥の第八識をアラヤ識という、アラヤとは無尽蔵という意味である。この第七識と第八識を本能というのである。

(二)細川巌先生の釈

 「宿業とは現実である」と言われた。現実とは如来聖人のみ教えに照らされた私たちの現実である。聖人は「唯信鈔文意」の中で自力の心について、自らが身をよしと思う(善人意識)、自らが身をたのむ(自己過信)、自らが身をさがしく顧みる(自己卑下)、人を善し悪しと思う(自己中心、愚痴の心)と言われている。我々は他力本願であるから自力は卒業したと思っているが、この心はなくならないのである。

 そして、この善人意識を頼りとして、生死の苦海の人生をわたるものにかけられた本願があるのである。十九願、二十願である。御本伝典化土巻に「専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず」とある。念仏申しながら心は自己中心の自力の心である。             合掌

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感話金子みすずの詩に学ぶ

A. Kobayashi

大 漁   金子みすず

朝やけこやけだ大漁だ
おおばいわしの大漁だ
はまは祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしのとむらいするだろう

 いわしの大漁で浜はお祭り騒ぎであふれている。うれしそうな人々の様子が見えるようです。祭りを歌った詩はたくさんあるが、しかし、目は皆人間に向けられている。人間中心の目です。しかし、その場から目を離して、海の中に目を向けると、そこには何万のいわしの弔いと言う現象があった。誰一人として海の中に目を向ける人はいない。この人間中心の世界を「みすず」はじっと見つめているのです。

○物を見る目に二つあって、
  一、見る  肉眼で見る、表面を見る、浅い見方。
  二、観る  心眼で見る、深く観る、見えないところまで観る目、智慧の目。

 見える物と、見えない物はいつも一緒にある。そして、一番大切な物は見えない物だと言われます。「みすず」の目は正に観の眼で見ています。仏の眼です。聖人は私たちの物の見方を「有漏の分別」といわれている。どんなに見とうしているつもりでも、見えない物や人を見落としている。見たくない物は漏らして、関心のあることのみ見ている。そして、問題は見落としているにもかかわらず知ったつもりになっているこどだと。ではどうしたらよいのか?我が身が実は「有漏の身であったこと」をしっかり知らされながら生きて行くことだと教えておられます。それは仏法に会うことをおいて他に無いと思います。

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