日野の会通信(No.174)抄

平成10年11月8日発行
日野市教育を考える会

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第6章          田中 郁雄
 
   一、信 心、   二、自 然

感話 無上の方便ということを聞きて  T. Tanaka

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本講 歎異抄第6章

田中 郁雄 先生講義 

10月17日(土曜日)「歎異抄を読む会」の議事より

一、信 心

  「如来より賜りたる信心」

 信心とは信ずる心であるが、信じるとはどういうことなのであろうか。

〇一般の宗教

  教…教義、教理
  信…教えを信頼して
  行…実行する
  証…さとりを得ようとする

 一般の宗教を教信行証という。教えを信頼して、実行して、さとりを得ようとするのであるが、果たしてさとりを得ることが出来るであろうか。五濁の世、末法の時代においてはさとりを得ることは難しいと、釈尊も説いておられる。ここにもう一つ本願の宗教がある。

○本願の宗教

  教…本願の教え
  行…如来の行・南無阿弥陀仏
  信…覚る、目覚める
  証…往生をとげる、信心念仏になる

 本願とは本からある願である。私に先立ちてある願である、願とは大無量寿経に説かれているし十八願のことで、四十八願の全てに「設我得仏…不取正覚」という言葉がある、この意味は「あなたが救われなければ私(仏)も救われません」ということであります。衆生を救わんが為に仏の願があるのです。衆生がいるから仏がいらっしゃる。ちょうど、親と子の関係にたとえられる。子供が産まれて始めて親。になるのであって、子供がいなければ親にはなれないのである。衆生がいなければ私もいらっしゃらない。衆生と仏とは離れないのであります。

 本願の宗教を教行信証という。教とは本願の教え。行とは私の行ではなく、如来の行、それを南無阿弥陀仏という。汝、小さな殻をとである。五逆、謗法の自己に目覚めることである、夜晃先生言葉に「自己がわかれば如来がわかる。如来がわかれば自己がわかる。わからぬものは自己である。」とあります。又、「松影の黒きは月の光かな」と言う詩があります姉、自分の黒々とした影、罪悪深重の姿がわかるとは、実は如来の光に照らされていたとわかることである。自己がわかるとは懺悔であり、如来がわかるとは感謝であります。

 証とは往生をとげる、たすかるということである。懺悔と感謝とによって、信心念仏の人となることが往生をとげると言うことになるのであります。

 歎異抄第一章に「彌陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とありますが、この「信じて念仏もうさん」が、信心念仏となることであります。

 蓮如上人は五重の義を立てて、「一つには宿善、二つには善知識、三には光明、四つには信心、五つには名号、この五重の義成就せずば往生は叶うべからず。」と言われている。信ずるということは、最初にあるのではなくて、最後の問題である、親鸞聖人は御和讃に「彌陀大悲の誓願を深く信ぜん人はみなねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなうべし」とうたわれております。

二、自 然

 「自然の理にあいかなわば仏恩をも知りまた師の恩をも知るべきなり」

1、自然(しぜん)

 この言葉はふつうは「しぜん」と読む。自然現象としての自然は、植物のことを考えてみると、春には新しい芽を出し、花を咲かせる。夏になると、緑はますます濃くなって木は成長する。秋になると、いままで緑だった葉が紅葉して、落ち葉となる。冬には、葉はすっかり落ちてしまって、枯れたようになる。

 又、動物界においても、鮭は春に卵がかえって、海に下り、秋になると同じ川に戻ってきて、産卵して命を終える。これをくり返していくことが自然と言うことであります。

2、自然(じねん)

 仏教ではこれを「じねん」と読む、自然を仏教辞典で調べてみると、一、みずから、ひとりでに。二、物事の本性。三、努力しないのに。四、おのずから具わっている。五、自分が誰に、どれほどという意識が全くない。等の意味があります。

 自然は法爾自然という。その意味は本来あるがままの姿。又、自力の計らいを捨てて、阿弥陀仏の願力に全てを任せきること。ということであります。親鸞聖人は「唯心鈔文意」の中で「自はおのずからという、おのずからというは自然という。自然というはしからしむという。しからしむというは行者のはじめてともかくもはからはざるに過去、今生、未来の一切の罪を善に転じかえなすという」とのべておられる。

 西田幾太郎氏は「絶対は相対に対して常に自己を表現する」と言われている。絶対とはおおいなる世界であり、相対とは相対有限なる我々の世界である。この二つは並んであるのではなく、絶対なるものは必ず相対なる世界を包んで、相対なる世界に常に働きかけて、大いなる世界に出そうとする、これが自然の道理であります。その具体的な働きを南無阿弥陀仏という。たとえば母親と赤ん坊がいる。母親は赤ん坊に乳を与えて、その子を大きくしようとする。その乳が南無阿弥陀仏なのであります。

3、自然の理にかなう道

 かなうとは、適合する、ちょうどよくなる、願が成就するとかのいみがある。阿弥陀仏の本願、自然の道理と自分が教えによって育てられ、時機純熟して適合する。自然の道理と仏とが一致することである。禅宗に「そく啄同時」と言う言葉がある。卵が親鶏に温められて、殻の中で目ができ、足がはえ、嘴が出来て殻を破ろうしてたたくと同時に、外から親鶏が殻をたたくのである。それによって雛が誕生するのである。私たちがよき師、よき友の説く、南無阿弥陀仏の教えを聞き抜いていくことによって、時機純熟してゆくのであります。

 合掌

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感話無上の方便と言うことを聞きて

T. Tanaka

 櫟先生は南無阿弥陀仏を言葉になった仏と申されます。この言葉がなかったら、我々は利用心だけで何とかうまい具合に助かっていこうと、それしかわからないままで死んでしまうでしょう。そういう私も見捨てられて、いないと言うことで、方便化土の往生が説かれているわけでしょう。嘘も方便という言葉があるから、方便を曲解するけれども、本当に救われがたい私がいるから仏の方便があるわけでしよう。

 智恵慈悲方便と「論証」にありますが、方便と言うことは、無量の迷いの他何もない私がいるからこそ、方便と言うことがある。「観経・阿弥陀経」の世界というのはちゃんと仏が我々を見透かして、人間は罪福信じる心しかない、そういうものだからそのことを徹底して自覚しなさい教えられる。我々の一番迷いの元を切って下さるお働きが大慈悲であり、その大慈悲から出てきた方便であると、櫟先生は感じておられます。

 曽我先生がタクシーに乗られた時、その運転手は創価学会の信者で、真宗の大学者であるのがわからないので、創価学会のことを言い出して、曽我先生と藤代先生を学会に入れようとした。それで浄土真宗というのは方便の教えで、我々創価学会は真実の教えで、四十余年未顕真実と言うことがあって、未だ顕れていない真実が法華経で顕されたんだから、法華経を中心とする教えが真実の教えです。

真宗なんかやめて学会に入りなさいとしきりに勧めたそうです、曽我先生は黙ってきておられて、降りるときに「はいおっしゃるとうり方便です、しかし方便なりが違います、無上の方便です。」と言われたと機先生は藤代先生からお聞きしたそうです。

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