日野の会通信(No.173)抄

平成10年10月19日発行
日野市教育を考える会

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第七章         岡本 英夫

感話 妊娠を機に感じていること  Y. Kobayashi

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本講 「歎異抄第七章」

岡本 英夫 先生御講義 (受講記 田中 郁雄)

9月19日(土曜日)「歎異抄を読む会」の議事より

「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず。諸善も及ぶ事なき故なりと、云々。」

 この第七章は歎異抄の他の章と違って力強い文章になっている。このような明解な文章を書くには聖人の確信、御己証がなければ書けないのであります。

一、念仏者は無碍の一道なり

 この「念仏者」について二つの解釈がある。一つは、漢文では者は読まないのである、念仏はと読むのである。もう一つは、者は人である。念仏する人と言うことである。昔から二つの説がありますが、念仏というものは、念仏する人の上に働くものでありますから、同じ内容と考えてよいのではないでしょうか。

 大無量寿経には四十八願が説かれていますが、その第十七願に諸仏称名の願というのがあります。「たとえ我仏を得んに、十方世界の無量諸仏、悉く咨嵯して我が名を称せずば正覚を取らじ」。意味は、たとえわたくしが仏になったとしても、十方世界の無量の諸仏が悪くほめたたえて、我が名である南無阿弥陀仏をとなえなかったら、私は仏の覚りを取りませんと言うことであります。

 諸仏が本願(南無阿弥陀仏)をほめたたえると同時に、十方の衆生を悲しむのである。本願が諸仏を貫き、十方の衆生に働きかける。それは念仏の働きが私に届いて、私を貫いて出ていくことなのであります。

 大経(1−4)*注に「菩薩の経典、要妙を究暢し、名称普く至りて十方を導御す」。

 菩薩の経典とは、大乗の経典、如来の本願が説かれている経典と言うことであります。要妙を究暢すとは大事なところを極めのべると言うことであります。名称普く至りてとは、名称とは一つは本願であり、もう一つは諸仏の名(親鸞、蓮如等)であります。本願が諸仏の名を押し出したということ、つまり、親鸞、蓮如と言う名だけで、その人がどのような働きをしたかがわかるのである。

 大乗の経典に説かれている如来の本願の働きによって、諸仏が誕生し、その諸仏が十方の衆生を教え導くと言うことであります。これが本願念仏の働きであり、このことが「念仏者は無碍の一道なり」と言うことになるのであります。

二、天神地祇と魔界外道

 天神地祇とは天の神、地の神のことである。魔界とは魔の世界と言うことで、魔とは仏法を妨げ、善事を妨害し、人の命を脅かすもののことである。外道とは仏教以外の教えと言うことである、天神地祇と魔界外道とは私の外のものと言うことであります。その外のものにも障碍されないのが念仏であるということであります。

三、罪悪も業報を感ずることあたはず

 観経にでてくるアジャセはダイバにそそのかされて父のビンバシャラ王を殺すのであるが、その罪のために苦しむのである、身にかさぶたが出来、うみが出てきて悪臭を放ち苦しむのであります。アジャセは父を殺したという罪を慚愧するのであるが、自分を責めている限り救われないのである。そして、家臣のギバのすすめによって、釈尊にお会いするのであります。釈尊にお会いして、業報を感じない世界があることがわかるのであります。

(12−105)*注「世尊、我世間をみるに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず、伊蘭より栴檀樹を生ずるものを見ず。我いま始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子とは、わが身これなり、栴檀樹とは即ちこれ我が心の無根の信なり。無根とは、我初めより如来を恭敬することを知らず、法・僧を信ぜず、これを無機と名ずく。」

(12−106)*注「世尊、もし我あきらかに能く衆生の諸の悪心を破壊せば、我をして常に阿鼻地獄にありて、無量劫の中に諸の衆生のために大苦悩をうけしむとも、以て苦と為さず」。

 アジャセは自分が父を殺すという罪を犯して、その報いを受けるのであるが、そのアジャセに仏法が説かれて、その罪を背負って生きていくことが出来るようになるのである。そして、アジャセの救われた姿を人々が見て、その人々の悪心が破壊され、仏道に立たされるのである。

 雪山童子の話が涅槃経の中にあります。雪山で童子が求道心をおこして、修行していた。そこに羅刹が現れて、「諸行無常、是生滅法」(諸行は無常である、これが生滅の法である)と言う偈を説いた。これを聞いた童子は、この偈には必ず後の半偶があるはずだと、羅刹に後の半偶を説いてくれと頼むのである。そのために童子は「座より起ち、髪を挙げ、四方顧視」したのである。そこにいたのは羅刹だけである。童子はこんな醜い羅刹がこんなすばらしい言葉を言うだろうかと疑ったのであるが、「もし後の半偶を説いてくれたら、私は一生、あなたの弟子になります」と言うのである。それに対して羅刹は、「おまえは智恵はすぐれているが、自分のことばかり言って、私が腹が減っていることがわからない」と言うのである。それに対して童子は「何が食べたいのか」と聞くと、羅刹は「生きた人間の肉と血が欲しい」という。そして、童子は「後の半偈を説いてくれたら、私の肉と血をあげよう」と言うのである。それを聞いた羅刹は「生滅滅已、寂滅為楽」(生滅が滅しおわったならば、寂滅を楽となす)と後の半偶を説くのである。童子はこの言葉を聞いて、石、壁、樹、道、に書きとめ、高い木に登り、羅刹の口に飛び込んだのである。その時、羅刹は帝釈天となり、童子を受け止め、童子の心をたたえた、そして、童子に五体投地したのである。

 最初の半偶は因縁により自然に聞こえてきたが、これに満足したら後の半偈はわからない。その為に、自ら立ち上がって法を求めるのである。法を求めるには、じゃまなものを除き、お金を使うのである。羅刹とは、私が許せない人、気にくわない人であり、このような人からこそ教えを聞くことが出来るのである何そして、自分が五逆と誹謗正法の身であるとわからないと信心念仏とならないのであります。

合掌

*注)本文中(A−B)で示した数値は「聖典(島地大等編、明治書院)」の章(A)とページ数(B)を表している。

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感話「妊娠を機に感じていること」

Y. Kobayashi

 妊娠を機に感じていることについてお話しします。

※子供は授かりもの

 「子供は作る(作らない)もの」という自分でコントロールする考え方が一般的な現代ですが、私の今回の妊娠は計画したものではありませんでした。本などで改めて妊娠のしくみを知り、生命誕生の神秘や「子供は授かりもの」という思いを実感しました。

※いろいろな人生が選択できる世の中

 昔であれば、ほとんどの女性が同じような生き方をしており、そういう中で適齢期という考えがでてきたのではないかと思います。現在は、学校卒業後定職に就く人、アルバイトをする人、結婚する人、しない人、結婚退職する人、共働きする人、子供を作る人、作らない人等々、様々な生き方ができる(生き方をしている人が多い)世の中になりました。自分の人生において、何に価値を置くかが重要になってきていると思います。

※自分の命は自分だけのものではない

 自分自身の不摂生や精神的ストレス等、私に関することのほとんどが胎児へも影響するので、自業自得では済まず、一挙一動に慎重になってきました。また、生命を絶つという意味では、中絶は明らかに一種の殺人であると思うようになりました。

※自己中心的になった、甘えが出てきた

 かつては妊婦の大変さなど全くわかりませんでしたが、自分がなってみると、「私は妊婦なんだから席を譲ってもらうのはあたりまえ。なんでこの人たちは譲ってくれないのかしら?」という思いが生じてきました。また、妊娠による体調の変化を理由に、必要以上に甘えることが多くなり反省しています。

※他人の境遇をうらやましがっている自分

 自分で共働きの生活を選んでおきながら、平日に自由がきく専業主婦をうらやましがると共に、仕事をしている自分のほうが偉いように感じることが多くなりました。それぞれの家庭の状況に応じた生活をしているだけのことなので、大きな問題もなく健康に過ごせることに感謝しなければいけないと思っています。

※いま一番心配なこと

 無事に出産できるかということはもちろんですが、子供ができれば自動的に親になることに、自分が過ごしてきたこれまでの生き方すべてが問われているようで、非常に不安です。しかし、いまさら自分の過去を悔やんでもしょうがないので、子供と共に成長して行くつもりで過ごしていきたいと思います。

 独身時代の私だけの人生の選択に、結婚してから夫婦の問題の選択が増え、まもなく子供の問題の選択が加わります。様々な選択ができる世の中だからこそ、よく考えていかなければいけないことを感じています。

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