日野の会通信 NO.225

平成16年11月1日発行
歎異抄を読む会
松田正典先生講義
受講記 田中郁雄

 この受講記は松田先生の「歎異抄講座」の資料に添って書かせて頂きます。

一、ご晩年の細川巌先生

(1)公刊本として出版された御著書について
『御一代記聞書讃仰』『晩年の親鸞』『十住毘婆裟(びばしゃ)論−龍樹の仏教−』

(2)『十住毘婆娑論−龍樹の仏教−』
 従来の解説書に根本的な錯誤があり、これを正すという大きな課題を背負われた。

1、初地品の龍樹の呵責(かしゃく)
「仏法を断ずるものは五逆でも謗法でもなく二乗の菩薩である」

2、阿唯越致(あゆいおっち)品に「漸(ぜん)々精進の菩薩」と「敗懐(はいえ)の菩薩」が説かれる。敗懐の菩薩が切り捨てられるのではなくて、漸々精進の菩薩が遂に敗懐の現実に目覚める。そこに「信方便の易行」(念仏の教え)に遇う。これは善導の観経疏における韋提希の転回と同じ。煩悩具足と我が身の分斉に目覚めることが、弥陀の本願の教えに遇う座。この座の決定において生死の大海を渡る弘誓の願船への値遇を得る。

(3)『晩年の親鸞」と『信は人に就く』
 前者は『正像末和讃』を後者は『唯信鈔文意』を通して、晩年の聖人の深甚の御意をお尋ねになったもの。先生は操り返し「御晩年の親鸞聖人は、念仏と感謝と宿業の諦観であった」とお話下さった。

(4)『歎異抄講読』について
 日野市教育を考える会や広島大学仏教青年会において歎異抄の講義がなされた。佐々木玄吾・文子御夫妻のご尽力によって講録となる。昨年歎異抄の全部が揃う。

(5)全集の刊行について(全三十巻か)
 多くのご尽力により態勢が整いつつある。

(6)ご晩年の先生の『歎異抄』御領解の特徴
 ご晩年『歎異抄講読』を公刊本として出版することを度重ねてお願いした。しかし「自分の話も随分かわってきたからな」と言って取り合われなかった。

六十代後半の細川先生の『歎異抄』御解釈の変化
1、第九章「念仏申し供えども踊躍歓喜の心疎かに候」という唯円の問いに対して、以前は「求道における危機」と解釈された。晩年は「宿業の問題」(煩悩具足の凡夫)となさった。「他力の悲願はかくのごときわれらがためなりけり」との御応答を「宿業の諦観」と頂戴された。

2、異義篇に伝えられる二つの異義について
「観念派の異義」と「賢善派の異義」を「知性中心主義」と「理性中心主義」と表現され、浄土教の教義の解釈上の異義と言うよりも、人間の実存に関わる無明と頂かれた。

(7)先生の御遺言
「夜晃先生は、経の一字一句を頂いていく、自利の臼をひいていくのだと言っておられる。(中略)経典の頂き方はこれが一番優れている。問題は足りないところがある。それは現代という時代、そして広く現実の悩み、現実の課題をしっかり知らなければならない。その両方をやって行く事が大事なことである」。(『序分義讃仰1』)

二、「歎異抄」に育まれる深甚の精神文化

(1)生命の尊厳を知る心といのちの輝き:『歎異抄』第四章・第五章
1、現代の妙好人:金子みすず
「大漁」−家族団らんと生命の現実への目覚め
  朝焼け小焼だ大漁だ
  大羽鰯の大漁だ
  浜は祭りのようだけど
  海のなかでは何万の
  鰯のとむらいするだろう。
 生命の尊厳を知ることは生命の現実を学ぶことである。多くの命を殺さないと人間は生きて行けないのである。

2、愛する力が育たなくては、感謝の心は生まれない−かけがえのない家庭教育−
 心理学者エーリッヒ・フロムは「愛する力の養育」の必要性を指摘する。愛する力とは理解・連帯・配慮・尊敬・責任(他のいのちへの献身の念)だと言います(−理解・連帯・配慮は慈悲であり、間柄的存在の根幹である。尊敬・責任は智慧であり、求道的存在の根幹である。六百万年の)人類の歴史において、子供達は母親の家事労働の分担者でした。家事労働を共にする家庭教育の中で、人間形成の根幹が培われたと言える。

3、宗教心とは何かー人間存在の基盤
 沖原豊著『学校掃除』(日本とタイだけが子供に学校の掃除をさせる)。宗教心とは献身の対象への心の構えの態様である。宗教心が満たされる時、いのちは輝く。
4、現代の危機(家庭教育の喪失)とその原因 家事労働を親子が共にするところにおのずからなされてきた家庭教育の歴史が、四半世紀前からの家庭電化製品の普及で切断され、長い人類の習いの伝承が必要でなくなった。科学技術の発展が人類六百万年の家庭教育の場を崩壊したと言える。

(2)大乗の精神:『歎異抄』第二章、第六章、第七章、第九章
1、カルチャーに拮抗するカウンター・カルチャーの養成と伝承
 二十世紀初頭の科学者宣言「科学技術力により地球上から貧困と差別を無くす」。この使命は今も変わらないし今後も変わらない。しかし、科学技術の発展はその基盤であった家庭教育という人材提供の場を壊してしまった。
 十九世紀のヨーロッパではカルチャーは産業革命であり、カウンター・カルチャーは精神文化であった。大乗仏教の興起はインドの西海岸の貿易商人が仏舎利塔を中心にサンガを形成していた。その意味は在家教団はカルチャーとカウンターカルチャーを生きる。もう一つは自利(個の確立)と利他(他への働きかけ)を両輪とすることである。
 現代のカルチャーほ表層文化(科学技術)。これをメリトクラシーといい。マイケル・ヤングが提唱した言葉である。メリットがあるかないか、損か得でしか考えない世界である。親鸞聖人の言葉で言うと穢土、化身土と言うことです。それに対してカウンター・カルチャーは深層文化。それをアミタクラシー(松田先生の造語)という。アとは否定の言葉、ミタは量る。アミタは量ることの出来ない、無量ということであります。この二つは西田幾多郎先生の言葉で言うと、絶対矛盾的自己同一であります。

2、よき師への邂逅(かいこう)の文化
亀井勝一郎の言葉:
 イ、考える。
 ロ、迷う・絶望する。
 ハ、かくあれかしの一念の自覚。
 ニ、邂逅する。
 ホ、一つの言葉を持つ(相聞と辞世の言葉)

ヘレンケラーの言葉:
「(サリバン先生は)闇の中に生きていた私に光を与える為に、いや私を愛する為に、この世に生まれて下さいました」。
「私は、この日を境にした二つの生涯の間に比べようのない相違を思う時、自分ながら驚かずにはいられません」。
「そうして私の手に触れるあらゆるものが命を持って躍動しているように感じはじめました。それは与えられた正しい眼をもって全てを見るようになったからです」。