日野の会通信 NO.224

平成16年10月10日発行
歎異抄を読む会
佐々木玄吾先生講義
歎異抄第七章
受講記 田中郁雄

○「信心の行者には天神地祇も敬伏し」
 意味は、信心の行者には天の神も地の神も尊敬し、ほめたたえるということ。この七章によって、信心念仏が讃嘆されているのであります。

一、現代の世の中
 今から八百年位前の鎌倉時代は戦乱の時代でありました。御和讃(11-40)に
 かなしきかなや道俗の
 良時・吉日えらばしめ
 天神・地祇をあがめつつ
 ト占・祭祀つとめとす
とあります。当時は良時、吉日を選び、卜占(うらない)や祭祀(祈祷)がさかんに行われていた世の中であったようです。神に対するおそれの心がこの様なことをさせたのでしょう。現代でも占いや祈祷がさかんであります。これに対して、親鸞聖人は神からの独立を言われている。
(12-222)「論語に云く、李路問はく、鬼神に事へんか。子の曰わく、事ふること能はず、人焉(いぞくんぞ)能く鬼神に事へんや」
原文は 未能事人焉能事鬼神」(未だ人につかうることあたわず、いずくんぞよく鬼神につかえんや)でありますが、聖人は未を不に書き直された。
 顔回という若い弟子が亡くなった。彼は孔子が最も頼みとしていた優秀な弟子であった。孔子はなげいた。弟子の季路が「これは何かの祟りではないでしょうか。祈祷をしたらどうでしょうか。」といった。それに対する孔子の答であります。
 聖人は神からの独立それが仏教であるといわれた。天神地祇に敬伏するのではなく、天神地祇の奴隷になってはならない、独立者にならなければならないと言われたのであります。人間は何によって、どうしたら独立できるか。それは大いなる世界と言う地盤の上に立つことによって独立できる。信心念仏の人になることによって独立者となり、天神地祇が敬伏するのであります。どうしたら信心念仏の人になれるか。
 仏教に七仏通誡偏偈というのがあります。
 諸悪莫作\
 諸善奉行−−三福の行
 自浄其意\
 是諸仏教−−信心の行者
もろもろの悪をなすなかれ、もろもろの善を行じたてまつれ、みずからそのこころを浄めよ是れ諸仏の教えなり。これが意味であります。
 自浄其意(みずからそのこころを浄めよ)によって信心の行者が生まれる。その為には三福の行を行ぜねばならない。三福の行とは観経(2-5)にあります。「彼の国に生ぜんと欲する者は当に三高を修すべし。一には父母に孝養し師長に奉事し慈心にして殺さず十善業を修す。二には三帰を受持し衆戒を具足し威儀を犯さず。三には菩提心を発し因果を深信し大乗を読誦し行者を勧進す。此の如きの三事を名けて浄業と為す。仏、韋堤希に告げたまわく、汝今知るや不や此の三種の業は過去・未来・現在三世の諸仏の浄業の正因なり」。
 三福の行とは世間善、小乗善、大乗善であります。しかし、我々が自浄其意と言う三福の行が行ぜるかという問題があります。此の三種の業は諸仏の浄業の正因なりとあります。三福の行は諸仏の行であって、凡夫にはできない行であります。もとをたどれば法蔵菩薩の願行であります。それが成就して阿弥陀仏になられた。私達に出来ることは南無阿弥陀仏のはたらき、小さな殻を出て大いなる世界に出よという呼びかけを聞き開いて、念仏することであります。
 自浄其(ご)意とはおのずから念仏することによってそのこころを浄くする。これが諸仏の教えであります。独立とは自浄其意にあります。おのずから念仏するところに信心の人が生まれる。ここに独立ということがあるのであります。
 大経(1-24)に法蔵菩薩の行が説かれている。
「三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳を以て奉行を具足し諸の衆生をして功徳成就せしむ空・無相・無願の法に住して作無く起無し。法ほ化の如しと観ず。麁言の自害・害彼・彼此倶害を遠離し、善語の自利・利人・人我兼利を修習す。国を棄て王をすて、財色を絶去し、自ら六波羅密を得じ、人を教えて行ぜしむ」。
 御和讃(11-22)に次のうたがあります。
 天神地祇はことごとく
 善鬼神となずけたり
 これらの善神みなともに
 念仏の人をまもるなり
天神地祇は念仏の人をまもる善い神であります。

○「魔界外道も障碍することなし」
一、魔事
 源信は魔について「魔は煩悩によりて菩提を妨ぐ。」と言われている。魔は自立出来なくさせるのであります。また魔事について龍樹の十住論調伏心品に次のことが言われている。
1、仏道を聞いてすぐに喜びが出ない。
 仏道は人間形成の道であります。喜びがないというのは講師にも問題があるが、自分にも問題がある。仏教は二尊教であるから、阿弥陀仏と師との出会いが大事であります。ここに人間形成の確信があります。魔に障碍されると喜びがないのであります。
2、聞法して喜んでいても途中で心が散り動く。
 これも魔の働きであります。聞法していても心が集中出来ないで散り動くのであります。
3、傲慢になったり、投げ出したりする。
 我々は毎日魔事にやられている。その摩が障りにならないと言うことはどういうことか。

二、障碍することなし
1、魔事を魔事と知る
 夜晃先生の言葉に「問題は常にある、問題は常に内にある」とあります。私達は問題(魔事)は常に外にあると考える。あれが悪い、これが悪い、あの人が悪い、この人が悪いと言って外に責任転嫁をする。仏法ではそうではなく、自分の内に問題(魔事)があると説くのであります。内を強くするしかない。それを自浄其意という。おのずから念仏申すことによって浄化されるのであります。
2、自分が魔であることを知る
 自分が魔であること知るということは、懴悔(さんげ)するということであります。仏様の前で私が悪かったと頭を下げることであります。自分が進展しないと懴悔ができない。その懺悔は感謝と一体であります。私はだめだと劣等感で卑屈になることではなく、これが本当の私、南無阿弥陀仏。他力の悲願はかくのごときわれらがためなりけり南無阿弥陀仏であります。申し訳ありません、有り難うございますとなるのであります。魔王懴悔し驕慢を捨離す。と言う言葉があります。自分が魔であると目覚めて懴悔することによって、驕慢を離れて魔がなくなるのであります。仏法者は人を責めない、人の悪口を言わない、何に対しても祈らない、崇りなどと言わないのであります。   合掌