日野の会通信NO.223

平成16年8月21日発行

歎異抄を読む会 堤日出雄先生講義
歎異抄第一章の心
受講記 田中都雄

 ○「仏の本願に救われる道」

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこる時すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり 弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし その故は罪悪深重・煩悩轍盛の衆生をたすけんがための厳にまします。しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず 念仏にまさるべき善なき故に、悪をもおそるべからず 弥陀の本官をさまたぐるほどの悪なき故にと、云々」。

 この第一章は歎異抄の全体の中心であり、本願念仏の教えの中心、核心であります。歎異抄がどういう組立になっているかというと、第二章から第十章までが師訓篇。唯円の先生である親鸞聖人の教えであります。第十一章から第十八章までが異義篇。聖人の教えと異なった批判であります。

 歎異抄とは異なることをなげく抄である。先生である聖人の真実信心の教えと異なったことを色々な人が言い出した。ですから異義篇が中心でありますが、唯円はまず、聖人から直接聞いた耳の底にとどまる言葉、感動して忘れることの出来ない言葉を書きしるしたのであります。間違ったことを批判するには正しい言葉が必要でありますから師訓篇をまず出したのであります。師訓篇は顕正であり、異義篇は破邪であります。正しいものを出して、まちがいを破する。破邪には唯円の悲しみ、痛みがあるのであります。

 歎異抄は唯円の智慧によって各章が配列されている。第一章は本願の宗教。第二章は念仏。第三章は信心。

 真如法牲−本願(誓願)−名号→信心(仏陀のさとり)

如とはあるがままの世界であるが、私達には我執があるからあるがままに見えない。その為に苦しむ。自分を受け止められないのである。さとりを開くことが出来ない。有限なる者が無限なる存在になれないのであります。そういう存在に対しては、仏のさとりを受け取るしか道はない。それを本願というのであります。その本願が具体的になったものが南無阿弥陀仏という名号であります。光明無量、寿命無量の世界、大いなる世界へ帰れという呼びかけであります。名号が私の所に自覚となって届いたのが信心であります。
名前というのはその人の全体が表される。本願を表すことは難しいですが、六字の名号に全てが表される。その名号に託されている本願のいわれを聞いて、我々は頷かされるのであります。自己のお粗末さを知らされ、その私に本願がかけられていることが分かる。これが信心となる。そして私の念仏となるのであります。私に先立って本願に出会った人の念仏(名号)を聞きひらいて私の信心となる。これが第一車から第三章への展開であります。

第一節

「弥陀の誓廣不恩義にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと思いたつ心のおこるときすなわち、摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」
 阿弥陀仏の誓願不思議にたすけられる。不思議とは弥陀の誓願に出会った人には不思議とLかいいようがないのであります。我執にとらわれた私が智慧と慈悲によって、その殻が破られ、おおいなる世界に出された感動を不思議というのであります。
 「往生をばとぐるなり」までが教えで、本願によってすくわれる原理であります。親鸞聖人の言葉でありますが、師である法然上人から聞かれた言願であります。
 念仏申さんと思いたつ心のおこるとき。よき節法然上人から本願の教えを聞かれてこの心がおこったのであります。目覚め、信心であります。本願−名号−念仏となる。本願が念仏となる。本願のよびかけに対する応答が私の念仏であります。私達がこころがけなければならないことは聞法だけでもだめ、念仏だけでもだめ、聞法と念仏が生活の両輪なのであります。
 ○本願によって救われるとは

1、本願とは

 祈りは人間から神仏への願いであります。お供えをする、供犠という。犠とはいけにえ。牛を供えるということであります。本願は仏から人間へであります。顔とは清浄意欲であり、空、無我(無私)、悟りの智慧であります。意欲とは慈悲であります。ですから、願とは智慧と慈悲のはたらきであります。真実なるものから私は願われている。何故席われるかというと、願われなければならないものを持っているからであります。本願を聞いていくと、私の衷心の顔いと同じであった。仏の願いを我が願いとして聞いていくのであります。

2、たすけられる

 仏の本願にたすけられる。私達は仏にたすけられる、すくわれるということに反発するものを持っている。しかし、人間は一人の例外もなくたすけられなければならない存在であります。深い迷いの存在、自己中心、我執の存在であるからであります。その為に生まれてきた意味がわからない。そして、最後は愚痴を言うしかないのであります。フランクル(アウシュビッツで助かった人)は「人間は苦悩する存在である」といわれた。
 〇四諦の教え(諦とは明らかに見ること)
1、苦諦−人生は苦である。思い通りにならない。生老病死。
2、集諦−苦の因は煩悩(無明)である。
3、滅諦−苦の解決された世界を涅槃という。
4、道諦−涅槃に到る方法は八正道である。
 ○私の現実を許らかにする
「仏法を学ぶものは一の矢を受けても二の矢は受けない」という言葉があります。一の矢とは最初に直面すろ苦難であります。二の矢とは最初の苦しみを受け止められない苦しみ。病気で入院していても、どうして私が病気になったのだろう、こんなはずではなかったといって、私の心は病気を受け止められない。現実の病気と対立している。良寛さんは「痛気になったら、病気になればよい」といった。
 今はリストラで職を失う人が多い。今まで何十年とやってきたことが認められない。リストラは自負心、自尊心の崩壊あり、第二の矢であります。しかし、第二の矢は自分で放つのであります。仏法を聞いたものは第二の矢を受けないのではないですが、その苦悩の中で私が成長していく、仏の教えをいただいていく縁となる。苦悩が経となるのであります。

合掌