日野の会通信NO.222

平成16年7月4日発行

日野市教育を考える会
歎異抄を読む会  田中郁雄 講述
歎異抄異義篇 第十二章「不学難生の異義」


「経釈を読み学せざるともがら往生不定の由のこと」経釈を勉強しないものは往生が定まらないという異義。これは全く間違ったことであり、取るに足らないことであると唯円は言われている。

 今回は終わりの方にあります「悲願の広大の旨をも存知して」からを考えていきたいと思います。悲願とは仏、菩薩が大慈悲心によって起こす誓願とありますが、ここでは弥陀の誓願であります。聖人は(12-6)「然るに斯の行は、大悲の願より出でたり即ち是を「諸仏称揚の願」と名く。復「諸仏称名の願」と名く。復「諸仏咨嗟の願」と名く。亦「往相回向の願」と名く可し。亦「選択称名の願」と名く可きなり」真と言われている。大悲の願とは十七願であります。

「諸仏称揚の願」「諸仏咨嗟の鹸」「諸仏称名の願」の三つ。願の意味は十方の諸仏が阿弥陀仏の名をほめたたえるようにと誓った願であります。これらの願名は昔から言われている。聖人独特の願名が「往相回向の願」「選択称名の願」で、名く可しと言われている。

往相回向の願

 信・・十八願、往相信心の願(12-65)

 証・・十一願、往相証果の願(13-5)

星野元豊師の『講解教行信証』教行の巻によると、信も証果も往相のはたらきによって得られたものであるが、特に十七願を往相回向と回向の字を付けたのは十七願こそ回向の中核をなすからであろう。回向とは(19-2)「本願の名号をもて十方の衆生に与えたもふ御法なり」。回向とは弥陀から衆生への大悲のはたらきかけであり、それは具体的には名号のはたらきである。信も証も十七願の名号のはたらきを媒介としてのみ成立するのである。といわれている。

選択称名の願

 続いて星野元豊師は選択とは万善万行のうちから諸仏の称名する名号が選び出された意味であろう。その選び出された名号を諸仏に称揚讃嘆されて、それを媒介として具体的に十方衆生にはたらきかけ、それを聞かせ、衆生が名号に生きることによって一切衆生を救いたいというのが選択称名の願と名付けられた所以である。「唯信鈔文意」(20-4)に「おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八願の中に、第十七願に十方無量の諸仏にわが名をほめられんとなえられんとちかいたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり」とある。聖人は第十七願こそは仏の大悲の凝集したはたらきと見たのであると言われています。

 広大について、細川先生は大森先生の「正信偈に聞く」の中で、大森先生が初めて長い講習会に出て、それが終わってから海水浴をして、海に浮かんで大空を見上げた時、空は広い、如来は大きい、私は小さいということを感じたと言うことが書いてありましたと言われた。

 如来の悲願は広大であると言うことであります。大きいものは主語であるといわれる。私がコップの水を飲む。となると、私の方が大きくてコップの水は小さいのであります。私が如来本願を信じる。となると、私が大きくて如来本願が小さいということになる。これは間違いである。如来本巌が私を信じたまう。これが正しいのであります。如来は本願を建てて、必ず衆生がわかってくれると信じて疑わない。このことがわかることが信心であります。如来おわします、如来われとともにおわします。となります。夜晃先生の詩に「南無不可思議光如来、生まれさせたまいぬ我が胸に生死は一如、永劫に彼と我とは一つなり」とあります。これが悲願の広大の旨を存知してということであります。

 先日、義姉の弟の結婚式が宮崎でありましたので、行って参りました。夕方の飛行機で行きましてホテルに着いたのは九時を過ぎていましたので外の様子は分かりませんでした。朝起きて部屋のカーテンを開けてみてびっくりしました。目の前に広大な太平洋が見え、そこから太陽が昇っているのです。久しぶりに雄大な景色を見て感動しました。また帰りの飛行機の窓から九州、四国、紀伊半島がはっきり見えました。そこで人々が生きていると思うと人間とは何て小さな存在だろうと思われました。如来は大きい、私は小さいということなのでしょう。

「いやしからん身にて往生はいかが」

 いやしからん身とは卑しい心、卑しい身の程、身分が低い、卑下、自分などはだめである等の意味があります。本当の卑しい心とは自己中心の心、貪欲、瞋恚、愚痴の無明煩悩の心しかないわが身。如来を信ぜず、如来を疑う心、如来無視の私であります。

 歎異抄第九章に「念仏申し候えども踊躍歓喜の心疎に候うことまたいそぎ浄土へ参りたき心の候はぬはいかにと候うべきことにて候うやらん」とあります。

 唯円は長年聞法し、念仏申しているが喜びがありません。また、浄土へ参りたいという意欲がありません。一体どうしたことでしょうか、と言われている。これだけ念仏申してきたのに、どうしてこうなるのだろうか。どうしたらよいのだろうか。私だけがどうしてこんな目に会うのだろうかという色々な思いが混ざっている。私、私で如来がでてこない。如来無視の私であります。

 涅槃経に天人五衰の話があります。天人とは帝釈天。その帝釈天に五衰の相が現れた。五衰の相は天人の死をあらわす、地獄に堕ちる相であります。五衰とは、一、冠の花がしおれる。二、衣服が薄汚れる。三、脇の下から汗がでる。四、身体が臭くなる。五、自分の席にじっとしていない。帝釈天はお釈迦様の所へ助けを求めに行くのです。どうしてこの様なことになるのですかとお釈迦様に尋ねると、お釈迦様の答えは慳貪嫉妬である。無明である。放逸である。顛倒である。そして最後に疑いであると言われた。仏様がおいでになるということがわからない。仏智疑惑、如来無視であります。この事に気付いた帝釈天は懴悔して助かっていくのであります。

「本願には善悪浄穢なきおもむき」

 本願には我々が善行をするから助かるのではなく、悪い行いをするから助からないのではなく、清浄になってから助かるのでもなく、煩悩に穢れているから助からないのでもない。「他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけり」であります。

この章の結論は(12-225)「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪ひ、連続無窮にして願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんが為の故なり」先に生まれた者は後から来る者を導き、後に生まれる者は前の人の跡を尋ねて、願わくはそれがいつまでも連続して、中途で途絶えることのないようにしたいものである。はてしなき生死の大海に苦しむ者をことごとく助け尽くしたいと願うものであります。本当に仏法を学ぶとはこの様なことであります。名聞利養、勝他の為に勉強するのではない。聖人は前を訪ひて、七高僧の教えを頂かれた。そして、後を導く、教行信証や多くの聖教を書かれまた、ご和讃を造られて後の人々を導いて下さったのであります。

合掌