日野の会通信NO.221

平成16年6月14日発行

歎異抄を読む会  佐々木 玄吾先生 講義

受講記 田中 郁雄
歎異抄第七章


「信心の行者には天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし」


一、信心の行者

 前は念仏者であるが、ここではただ念仏している人ではなく、信心の行者であります。


(1) 信心(まことのこころ)

イ、信知

 自覚すること。本当にわかること。何がわかるのかというと。

 1、自己自身が本当にわかる。

 2、自己を超えた大いなるものがわかる。

ところが私達は自己がわからない。我々の状態は心の中が名聞、利養、勝他の殻に包まれている。名聞とは人からよく思われたい、利養とはお金を儲けたい、勝他とは他人にまけたくない、であります。人間はこの様なものを鼓として生きているから本当に自己がわからない。その殻から抜け出せないで自分の幸せを願っている。逆に言うと、名聞、利養、勝他の中から抜け出すことが大事です。名聞利養、勝他の自分であるとわかることが大事なことであります。その為には自分が成長しなければわからないのである。仏教でいう自己がわかると言うことは、自分が名聞、利養、勝他の存在であるとわかることであります。

 成長するとはドングリの譬えでいうと、ドングリが土の中で水と光の働きを得て、殻が破れて芽が出て成長する。殻が誉れて成長すると、自分は穀を持っている存在だとわかる。それと同時に大いなる世界がわかるのであります。


ロ、伝順

 仏の教えに従っていく、善知識に従うことであります。以前に細川先生から「あなたの信順は狎れである」と言われたことが忘れられない。

 よき師よき友の教えに従う。よき師よき友は聞法、勤行、念仏を実行しなさいと教えている。先日、私は島根の母の所に行った時に私の妹が東京に帰る時間があるので勤行しましょうと言った。しかし私は勤行をしないで世間話をしていた。後になって、妹から言われたことに従わなかったことが悔やまれた。


ハ、信受

 私達には家庭、職場、地域等に於いて色々な問題が起こってくる。自暴自棄にならず、破滅にならず、その現実を受け止めて、それと取り組むことが信受であります。

 蓮如上人は、御一代記聞書の中で信心の人について言われている。(30-15)「『世間にて時宜しかるべきは善き人なりと雖も、信なくば心おくべきなり、便りにもならぬなり。仮令片目つぶれ腰をひき候ふようなるものなりとも、信心あらん人をば頼もしくおもうべきなり』と仰せられ候」。
 時宜しかるべき人とはその時々に問題を解決する人。この様にすぐれた人でも信心がなければたよりにならない。たとえ片目がつぶれ、腰が曲がって、やっと歩いている人でも、信心のある人は頼もしく思えると上人は言われた。信心の人は裏表のない、言行一致のまことの心を持った、頼もしい人であります。


(2)行者

 善導も親鸞聖人も信者とは言わないで行者と言われた。

イ、行ずる人

 行者とは行ずろ人、実行する人。生活行となって表に現れるのであります。その行の内容は五種正行という。

 読誦−本を読む、聞法する。

 観察−考える。

 礼拝−頭を下げて合掌礼拝する。

 称名−念仏を称える。

 讃嘆供養−仏様にお花をあげ仏飯をあげ香をたき灯りをあげてほめたたえる。

細川先生は五種正行は聞法、勤行、念仏の三つに収まると言われた。二の三つをしなければならないのではなく、信心の人(念仏者)のおのずから、自然に行われることであります。これを供養諸仏といい、それは開化衆生となるのであります。


ロ、前進する人

 1、方向が必要

 2、前進する力が必要

 方向に二つある。一つはドングリで言うと空に伸びていく方向と根を張る方向である。自己を確立するという方向と他への働きかけであり、人間は皆これを持っているのであります。自己の確立は聞法、勤行、念仏によるのである。特に積極的聞法、泊まりがけで聞くことが大事であります。それによって、職場では他の人から信頼される人となり、また家庭でもしかりであり、ピカ一の人になるのであります。前進する力は本願による、本願の教えによって与えられる。聞法、勤行、念仏によって与えられるのであります。

 どの様に伸びていくのかと言うと、龍樹の十住論に信心の行者の進展が説いてあります。第一段階は信心の行者になった所で初地と言い、歓喜地ともいう。明るさを持っていて、一人でいても明るいのであります。第二段階を離垢地(二地)という。生活の垢を離れる。言葉や行いの中に貧欲、瞋恚、愚痴がまじって濁ってくる。それが聞法、勤行、念仏することによって濁りがうすくなるのであります。第三段階を明地(三地)という。段々と教えがよくわかり、頷けるようになり、自分でも勉強するようになるのであります。そのようにして、第八段階を不動地(八地)という。何者にも動じないようになるのであります。


ハ、行とは信心の展開である

 信火行煙と言う言葉がある。信心の火があれば、行の煙が立つということです。信心、まごころの現れが行であり、本当の信心の人には自然の行でありまして、名聞ではない。世間の人からほめられるから行ずるのではない。利養ではない。金が儲かるから存ずるのではない。勝他ではない。人に負けてはならないという心で行じているのではない。信心の人は見れば即ら尊くなりであります。


(3)汝の言は行者なり

 二河白道の譬えで旅人が西に向かって行くと忽然と火の河、水の河が現れた。その真中に一本の白道があった。旅人は群賊悪獣に追われ、前にも後ろにも行けない。この人が白道を渡ろうと決心した時、東岸から「きみこの道を行け」という声を聞き、同時に西岸から汝束たれ」という呼ぶ声を聞いた。阿弥陀仏から汝と呼ばれたのは行者であります。

 讃岐の庄松(妙好人)がある家の仏壇をお詣りした時、お仏飯やお花が上がってなかったので ここの阿弥陀さんは痩せ細っていると言った。お仏飯やお花や香が上がっている家の仏壇をお詰りするとここの阿弥陀さんは太っていなさるといったそうです。阿弥陀さんと親しい、自然な関係であります。夜晃先生は「親様はおいでになるか」といつも言われていた。細川先生は「如来生きてましますか」と言われていた。


合掌