日野の会通信 NO.220

平成16年5月17日発行

歎異抄を読む会   佐々木玄吾先生講義
受講記 田中郁雄
歎異抄第七章

「念仏者は無碍の一道なり」

 私が住んでいる広島県の豊平道場に住岡夜晃先生の石碑があります。そこには「念仏者は無碍の一道也」と書いてあります。その側にこの度、先生の没後五十五年になりますので、墓を造りました。表には南無阿弥陀仏と書いてあります。念仏申している人は障り多い人生の中を無碍の一道を歩むことが出来ると言うことであります。夜晃先生は五十五歳の若さで亡くなられた。苦労の多い人生でした。無碍の人生ではなかったけれども、夜晃先生のことを表すには「念仏者は無碍の一道也」が相応しい言葉であります。有碍の人生をのり超えて無碍の一帯を歩まれたのであります。

一、無碍とは(自由自在)

 無碍とはさわりなしという。無碍自在、自由自在ともいう。本願の教えを聞き開いて念仏申す人は何物にも妨げられない自由の天地に立つと言うことである。自由とは自らによるということである。この自らに二つある。一つは生まれながらの自己である。もう一つは真の自己である。

 生まれながらの自己によるとは自己中心という殻の中にいる自己である。それによって自由自在になるとまわりが迷惑を受ける。自己中心で自分の思うようにやったら人のことなど考えない。極端なことを言うと人を殺してみたかったということになると危険きわまりがない。

 真の自己とは自己中心の殻が破れて本当の自己になるということである。どんぐりの譬えで言うと、どんぐりの殻が破れて、芽を出しどんどん成長してどんぐりの未となることである。そこに自由自存ということが成立するのであります。

 真の自己はどうして生まれるのでしょうか。何らの束縛を受けず、自分の思い通りにやるままが一人に不安を与えず迷惑にならず、多くの人のためになることをやるというには智慧が生まれなければならない。真の自己に必要なものは智慧が成立することである。その智慧は自分が努力して、勉強して、到達出来るかというと出来ないのである。智慧の成立するたった一つの方法は、大きなものが小さなものに働きかけるしかないのである。

 私が仏になるために努力していっても仏にはなれない。大きな世界から私に届いてくれるしかない。これが私に智慧が成立するたった一つの方法であります。

 智慧の成立している世界を一如とか真如という。絶対の高次元の世界である。我々の世界は相対のである。西田哲学の西田幾多郎氏は絶対と相対は並んでいるのではなく、絶対は相対を包んでいる。ただ単に包んでいるのではなく、働きかけているのである。母親が子供を抱いているようなものであって、乳を飲ませ、おむつを替え、話しかけて大きく育てようとする。歌手の島倉千代子さんが今年歌手生活五十周年だそうです。島倉さんが七歳の時けがをした、その時母親がリンゴの歌を歌ってくれて私を励ましてくれた。それが島倉さんが歌手になる原点でしたと新聞に書いてあった。

 私に智慧が成立するには大きな世界からの働きかけが小さな私に届くしかない。一生被教育者として聞法していくしかないのである。私に届く方法は南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏とは「汝、小さな世界を出て大いなる世界に帰れ」という呼びかけである。それが私に届いた時にそれに応えるのが私の口から出る念仏であります。

 無碍が成立したらどうなるのか。真の自己の世界は、一つは観境自在という。観は見る・考える。境は相手の置かれている立場。観境自在とは相手の気持ち、人の心が自由自在にわかると言うことであります。

 一つは刹土自在という。刹土とは国土、住んでいる世界である。刹土自在とは相手の世界に自由自在に入っていけるということである。年寄り同士は話が合うが、若い人の世界には入っていけない。また、男性は女性の世界に入っていけない。私の家内が感心していることがある。それは豊平の部落に女性の集まりがある。その中に私は入っていくである本当の刹土自在が成立すると、どんな世界にも入っていける。三つは命自在である。衆生のために命を捧げることが出来ると言うこと。

二、一道とは

 一とは唯一つということ。唯一つの道であり大道である。道について華厳経に(12-41)「十方の無碍人、一道より生死を出づ」と「一道とは一無碍道なり」とある。また、キリスト教の「ヨハネ伝」に「太初(はじめ)に道(ことば)ありき」ということばがある。これは明治時代の訳で、道とはことばである。この言葉が何であるかをキリスト教は明らかにしていないが、南無阿弥陀仏である。

 念仏するところに無碍道が成立する。これがたった一つの方法である。また「仏法とは平常心是なり」という言葉がある。仏法は肩に力を入れるのではなく、日常の心なのであります。

 念仏者は無碍の一道とは、具体的には八聖道である。(12-15)「彼の八道の船に乗じ、能く難度の海を度す」とあります。

八聖道とは

1、正見(智慧)

2、正思惟(正しく考える)

3、正語(正しい言葉)

4、正業(正しい職業)

5、正命(正しい生活)

 3、4、5 、は生活の姿勢をいっている。

6、正精進(努力する)

7、正念(仏のことを思う、憶念)

8、正定(精神統一、勤行)

 6、7、8 、は求道の姿勢をいう。

 仏法とは日常生活の中に生きているものでなければならない。健全な常識の世界である。

 一道について善導は二河白道の譬えを言われた。水火二河の間に白道が現れる。水の河とは我々の貧欲である。火の河は我々の瞋恚、いかりである。貧欲と瞋意の間に清浄真実の白道がある。私が念仏を申して、いよいよこの道を歩みぬこうと決意する。そこに白道、無碍の一道が開けるのであります。

 この度、住岡夜晃先生の墓を造ることが出来ました。先生は昭和二十四年十月十日に五十五歳で亡くなられた。今から五十五年前である。七人兄弟の長男。若くして念仏の一道に目が覚めて、教員をしながら布教活動をした。しかし、二十九歳の時、異安心と言われた。この人の信心は安芸門徒の信心と違うと言われたのである。教育委員会から仏法を取るか、教員を取るかと言われた。先生は教員を辞めて、聖典一冊と数沫一連を持って広島に出られた。離婚、再婚を経て四十歳で本部を建てられた。奥様にもあい、五十五歳で亡くなられた。先生の絶筆に「南無阿弥陀仏の六字を一生となえさせて頂く、そこに至幸至福の人が存在する。若き人よこれを憶え」とあります。

合掌