日野の会通信 NO.219

平成16年4月5日発行

歎異抄を読む会 佐々木玄吾先生講義
受講記 田中郁雄
歎異抄第七章

「一。念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず。諸善も及ぶことなき故なりと、云々」。
一、念仏者は無碍の一道なり

念仏者に二つの読み方がある。
 1、念仏は無碍の一道なり
 2、念仏する人は無碍の一道なり


 2の方がよいと思う。念仏する人は行き詰まらない一道を歩むことが出来るのであります。広島の豊平道場に住岡夜晃先生の記念碑があります。それには「念仏者は無碍の一道也」と書いてあります。これは聖人の語録である。聖人は苦難の人生を歩まれた。二十五歳の時越後に流罪になり、その中で肉喰妻帯された。破戒僧として非難された中を生ききられた。関東で二十年間布教し、京都に掃っても、自分の寺を持たず、弟の寺で世話になっていた。念仏を申し、勉強し、年と共に進展された。そして九十歳で亡くなられた。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏する人は阿弥陀仏の意(こころ)を自分の意としていきる人である。誰に対しても平等。どんな状況になろうとも行き詰まらないのである。

 信心の行者−信心念仏の人にほ天の神も地の神も悪魔外道もとどめることはできない。罪悪によって落ち込むこともないのであります。何故そうなるのだろうか。

 蓮如上人は「仏法は無我にて候」といわれた。無我とは私心がないということ。私心がないとは隠し事がない。公明正大であるということである。今、テレビで「白い巨塔という番組が人気がある。軒前五郎と言う医者の話である。財前五郎は優秀で、腕が良く、評判も良いが、私心がある。彼は早く教授になりたい(名聞)。国立大学の給料は安いので金も欲しい(利養)。他の同僚にも勝ちたい(勝他)のである。ついに教授になるが、自分が執刀して手術した患者から訴えられて裁判に負けてしまう。癌の専門医であったが最後は自分も癌になって死んでいく。医者というものは名聞、利美、勝他の私心があってはならないことを言おうとしている。

 政治家にもこの様な私心があったら困る。各分野に私心のない人が生まれなりればならない。教育者も私心があったら本当に子供を愛することが出来なくなる。松田先生は日本の危機は教育問題である。家庭が教育の役割を果たしていないと言われている。

 豊平に夜晃先生が細川先生に対して言われた言葉が手紙に残っている。それはどういうことかと言うと、細川先生が自分の進路について夜晃先生に相談されているのである。自分が大学を卒業したら学校の教師になるか、軍人になるかどちらが良いでしょうかと相談されている。夜晃先生の返事の手紙には「色々進路があろうが、ただ一つ念仏者になること。それが何事よりも大事である。その人がその人自身になって歩むところに後光がさす」と言われている。念仏者になると言うことは私心のない人になるということ。これが大事なことであります。

 私の孫の翔太君が長門会館で行われるJBAセミナーに行くという。JBAとは中学生から高校生までの若い人達の仏教講習会である。学校の勉強も大事であるが、仏教を聞くことも大事ではないだろうか。この二つを両立する生き方があるのではないかと思う。本人が仏教の会に行こうと思うには家庭が大事である。今は、家に仏壇のない家庭が多い。

 豊平でも新婚の家で仏壇がないと言う人がいたので南無阿弥陀仏の名号を差し上げた。そうしたら、その人が家の中の雰哲気に緊張感出てとても善かったと言って喜ばれた。家の人が朝晩勤行し、念仏申していく。色々な事か起きて行き詰まっても、念仏申しながらそれを乗り越えていく。そういう姿を子供に手本として見せていくことが大事なことであります。

二、無碍の一道

 曇鸞大師の「浄土論註の中に(12−41)「無碍とは、謂く生地即ち是れ涅槃なりと知るなり」とあります。

 生死とは我々の生まれてから死ぬまでの迷いの人生、又は我々の現実。涅槃とは迷いを離れたさとりの世界、仏様の世界てある。我々の現実が即ち仏様の世界であるとはどういうことであろうか。それは我々の現実が念仏であるということ。現実が私の取り組むべき世界であるとわかることであります。

1、何が起きても念仏する
 訳が分からなくても念仏する。念仏の練習をすることが大事である。

2、現実が念仏の呼びかけである
 現実とは病気になったり、仕事を退任したり、家庭の事情であったりである。仕事を退任すると肩の荷がおりて楽になる、と思いますが、実際は自分はもう必要のない人間と思われて淋しくなります。

3、いかなる現実とも取り組める
 現実から逃避しない。「友よ」と言う呼びかけをもって、相手を痛み悲しむ。下座行が出来るのである。親鸞聖人は自分のことを愚禿と名のられた。これは低い姿勢である。

4、新しい道を見出す
 公開主義でやっていくということ。この度、豊平に住岡夜晃先生のお墓を造ることが出来ました。造るに当たっては大変苦労しましたが、全部公開して最後は私責任者ですから、私が責任をとると言う姿勢でやってきました。お陰様で立派な墓が出来ました。公開してやったということがよかったと思います。中には反対する人もおりましたが、大勢の人に喜んで頂きました。

 歎異抄は第一章は「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」とか。第二章は「地獄は一定すみかぞかし」と言うように「罪悪深垂」「地獄」と言う内面的な言葉が出てくる。あまり元気が出ない。しかしこの第七章の「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には天神地祇も敬伏し魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず」と言う言葉は前向きで、力強く、元気が出るのであります。

合掌