日野の会通信 NO.218

平成16年3月15日発行
歎異抄を読む会 田中郁雄 講述
歎異抄異義篇第十二章「不学難生の異義」

 「経釈を読み学せざるともがら往生不定の由のこと」これが異義であります。このことは論ずるに値しない主張といわなければならない。「阿弥陀仏の本願の働きによる救いが真実であるということは、本願を信じて念仏申さば仏になる。その他何の学問が往生に必要だろうか。」ということを言っている。

 今回は終わりの方の「学問せばいよいよ如来の御本意を知り悲願の広大の旨をも存知して」を考えてみたいと思います。


一、如来の御本意を知る

1.信の成立によって本当の学問は始まる

 仏教を学ぶとは、一つは仏の説きたもう教え(八万四千の経)を学ぶ。二つには仏となる教え(本願の教え)を学ぶことである。私達が今勉強している仏教というのは本は釈尊の教えであります。それを七高僧、親鸞聖人諸仏方が解釈されたものを勉強し、行じて仏となるということであります。仏教を学ぶ最初の段階は数信行証であります。

教−教えを聞き、勉強する

信−信頼する

行−実行する

証−さとりを開く

教信行証は就人立信である。よき師、よき友について信を立てる。よき師、よき友の説く教えを信頼し、実行する。自力の段階である。私達はやろうと思えば出来るというものを持っている。定善、散善である。悪い心を直して善い心にしよう。悪い行いを直して善い行いをしよう、そして立派な人になろうとするのであります。

 先日、島根の岡本英夫先生から「荒磯」という文集と「仏法弘まれ」という小冊子を送って頂いた。島根の同朋の方々は土徳もあるのでしょうが熱心ですね。岡本先生が三かけを提唱して、汗かけ、恥かけ、文をかけで皆さん頑張っておられます。東京の方も頑張っていきたいと思います。私も毎月「日野の会通信」を三かけで書かせてもらっています。それを西岡さんがホームページに載せてくれています。先日、大恩寺(本願寺派)にお詣しましたら、そこの副住職が、田中さん歎異抄を勉強しているんですね、ホームページで見ましたよと言われびっくりしました。西岡さんのお陰で全国の人に読んでもらっていると言ううれしさと緊張感を感じました。

「仏法弘まれ」の中で岡本先生は親睦はイダイケ夫人と言う女性が悲劇に逢い、そして救われていく事が説かれていると言われている。イダイケ夫人は一人息子のアジャセが夫であるビンバシャラ王を餓死させ、自分も殺されそうになるが、殺されずに牢の中に閉じこめられてしまう。そこへお釈迦様が助けにいくわけです。(2−5)「我に思惟を教え、我に正受を教えたまえ」。イダイケ夫人はお釈迦様に私に正しい考え、正しい受け止め方を教えて下さいという。自分で実行していけば阿弥陀の世界に行けると考えている。これに対してお釈迦様は阿弥陀仏不遠と言われた。自分の分斉がわかっていない。自分で自分を救えると思っている。そして、お釈迦様は「彼の国に生ぜんと欲するものはまさに三福を修すべき」と言われる。三福とは「一、世間善(父母に孝養) 二、小乗善 三、大乗善」であります。そこでイダイケには世間善もできない凡夫の自覚が生まれてくるのであります。ここまでが観経の序文であると言われています。

 教信行証とは自力の段階であって、信心と言うことがよく解っていないのであります。教信行証から教行信証に転回することが大事であります。

教行信証とは

教−本願の教えを聞く

行−如来の行 南無阿弥陀仏の働き

信−目覚め、念仏となる

証−さとり

教行信証とは如来の行、南無阿弥陀仏の働きによって、衆生が自己に目覚め、大いなる世界に目覚める。これを他力の信いう。ここから本当の学問が始まるのであります。

 その学問とは(12−83)「信不具足」である。

イ、信と推求−法の深い意味を考える

ロ、聞と思−教えを聞いて自分のこととして考える

ハ、道を信じると共に得道の人(よき師、よき友)を信ず

ニ、サンガと共にいきる

仏教における学問とは信心というものを明らかにし、法を推求し、サンガを持ち、よき師よき友と共に進展していく。そこに如来の御本意を知る道が開けてくるのであります。


2、如来の御本意がわからない理由

(13−4)「然るに薄地の凡夫・低下の群生浄信獲叵(がた)く極果証し叵(がた)き也 何を以ての故に 往相の回向に由らざるが故に、疑網に纏縛(てんばく)せらるるに由るが故に」

イ、往相の回向に由らざるが故に

みずからが身をよしと思う、身をたのむ自己過信と言う自力の心によって、如来の回向を

必要としないのであります。

ロ、疑網に纏縛(てんばく)せらるるに由る

疑いにまつわりしばられる。如来を疑う、如来無視である。自己中心の思いで生きている。何でも自分の力でやっていこうとするのであります。これが如来の御本意が解らない理由であります。

 しかし、細川先生は仏法というものは一面に於いては頑張っていこう、わかるまで頑張ってやっていこうという精神でないと仏法は成就しないと言われている。このことには非常に励まされました。仏浜を聴聞して初めは一生懸命になるが、途中で色々病気をしたり不幸なことが起こったりすると、やめたい心が起こってくることがある。又、事実多くの人が途中でやめてしまう。しかし、先生のこの言葉を思い出して頑張るのである。仏法は根性がないと成就しないと言うことが少し解らせて頂いた。法然上人は四十三歳、親鸞聖人は二十九歳、曇鸞は五十何歳まで自力で頑張ったのであります。

 病気でも何とか治りたいという意志がないと治りにくい。病気にもよると思いますが、この精神は大事だと思います。


3、よき師、よき友の善巧方便による

 自力でいくことは大事でありますが、いつまでもそれでは如来の回向はわからない、転回されなければならない。転回されるにはよき師、よき友の善巧方便が必要である。善巧方便とはその人その人の素質に応じた巧みな教導であります。(12−25)「門門不同にして八万四なり 無明と果と美園とを滅せん為なり 利剣は即ち是れ弥陀の号なり、一声称念するに罪皆除こる 微塵の故業と随智とを滅す、覚へざるに真如の門に転入す 娑婆長劫の難を免るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり 種種の思量巧方便をもて選んで弥陀弘誓の門を得しめたまえりと」あります。

 このようにして娑婆の永劫の長い苦難を免れることが出来るのは偏に善知識であるお釈迦様の教えの御恩を蒙ったからである。お釈迦様は種種に巧みな方便をもって、特に選んで弥陀の弘譬の門に入らしめられたのである。

裟婆永劫の苦をすてて

浄土無為を期すること

本師釈迦のちからなり

長時に患息を報ずべし

の本当に教えを頂いたならば、如来の御本意を知り、釈迦を初めよせ師よき友の善巧方便に感射し報恩の念に生きるのでしょう。


合掌