日野の会通信(No.183)

平成11年12月25日発行

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第5章          佐々木 玄吾

感想 通信再開について             I.T


本講 歎異抄第5章

佐々木 玄吾 先生講義

受講記 田中 郁雄

「一、親鸞は父母の孝養のためどて一遍にても念仏もうしたること未だ候はず。その故は、一切の有情は皆もて世々生々の父母、兄弟なり、何れも何れも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。わが方にて励む善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をも助け候はめ、ただ自力を棄てていそぎ覚を開きなば六道・四生のあいだいずれの業苦に沈めりとも、一神通方便を以て、まず有縁を度すべきなりと、云々」。

一、「一切の有情は者もて世々生々の父母兄弟なり」

作家の高史明氏は息子さんが中学一年の時自殺した。息子の死を悲しんだが、どう受け止めてよいか悩み苦しんだ。その時、歎異抄第五章のこの言葉に出会って救われた。日本人の祖先にこのようなことをいう人がいたのかと、親鸞にたいして尊敬の念を抱くようになったと言われている。

一切の有情とは生きとし生けるもの皆をいう。人間だけでなく虫.けらにいたるまで全てである、世々生々とは生まれ変わり、死に変わりしたということである。父母兄弟とは自分を支えてくれるもの。切っても切れない関係にあるものである。一切の生きとし生けるものは皆、生まれ変わりした私の父母兄弟であるということ。これは大きな世界に出ないと言えない言葉であります。

私たちの考えは自分の身内は大事に思うが、他人は憎く思ったりする何年寄りと若い者とは断絶している。地球のどこかで戦争をやっていて、いつになっても平和にならない。一切の有情は者もて世々生々の父母兄弟と成らないのである。どうしたらよいか。

(一)恩愛を超える

恩愛とは愛縁ともいう。因縁による愛情である。私の子供、私の親、私の夫(妻一というように私的愛情をいう。恩愛を超えるとは平等に接することである。仏教では信心という。我が子、わが親、わが夫(妻)と言いながらそれを超えたものを持っている。私的感情を私心という。私心を超えることである。

このような人はどんな所にも入っていけるし、どんな人ともつきあっていけるのである。

お金があり、家族が健康であってもそれだけでは心の底かち本当によかったとは言えないのではないのか、私心を超えることによってはじめて本当によかったと言えるのではないか。この世界に出るのが仏道であります。

(二)友よ

あらゆる物に対して友よ、兄弟よと呼びかける。友よとは切っても切れない関係にあるものである。私たちは自分が好きなものには友よといえるが、気に入らないものには言えないから苦しむのである。頭が高いのである。

仏道に立つことによって、どんな人にも女よと言える人になるのである。そんな人は人々から尊敬されるのである。何故それが成立するのであろうか。

(三)仏道に立つとは何か

私たちが、一番感心があるのは、何を話したらよいか、何をしたらよいか、どういう心構えでやったらよいかである何問題はだいたいこの三つにはいる。これを身・口・意の三業と言う。

仏法では心の奥、心根を問題にするのである。蓮如上人は「口と身のはたらきとは似ずるものなり、心根がよくなり難きものなり、涯分心の方を嗜み申すべきことなり」と言われている。文意は口で言うことと、体で行うことは人のまねをすることが出来るが、心根はよくならない。各々の分に応じて、出来る限り心を慎まなければならないと言うことである。

心根を打ち砕かれたところが無我(無私)である。口と身のはたらきを善くしようと言うのを散善と言う。心を善くしようと言うのを定書という、一般の宗教は散善、定書で解決しようとするが、仏法はこの二善だけでは解決できない。心根を解決しなければならない。それを「仏法は無我にて候」というのである。

心根とは自己愛である。唯識ではこの深層意識を第七識、末那識という句どんな飾った言葉を言っても、心根が表に出てくるのものである。末那識が汚染されているのである。

(四)仏法は方法論を持っている

ではどうしたら心根を解決することが出来るのか。心根は私心、虚栄心である。それはドングリでいうと殼のようなものであり、中の胚芽を守っている。しかしこのままでは胚芽は成長しない。胚芽が成長するには土の上に置いて、光と水が必要である。胚芽は人間でいうと仏性であり、光は南無阿弥陀仏の教え、水はよき師、よき友の働きである、この光と水の働きがないと胚芽は成長しないのであります。

自己の力だけで成長しようとしても出来ないのである。仏法は聴聞に極まるといわれますが、聴聞することによって、胚芽が成長して、殻が自然に破れるのである。信心の人は心根が打ち砕かれているから散善、定善が出来る。又、許せない人がいなくなるのである、人間でいえば、さとりの道に向かう(十一願)と共に他への働き(二十二願)が出来るようになる。これが自然(じねん)にできるようになるのであります。

(五)家庭の成就

仏道に立つと家庭はどうなるかというと、くつろぎの場であり、遠慮がいらないことには変わりがない姉、もう一つ、家庭が道場になる。道場とは仏道が行われる場となることである。そこに夫婦、親子、兄弟という愛情を超えて友情に変わるのである。

友情とは尊敬、礼儀、率直さである。礼儀とは夫婦でも言ってはならないことを言わない、してはならないこと多しない、考えてならないことを考えないことである。率直さとはこれをいったら相手がどう思うかではなくて、率直に忠告することが出来ることである。

(六)本尊を持つ

本尊とは本来尊重、根本尊崇という。本来とは本からあるもの、本からあって私が尊重せざるを得ないもの。私を支えて下さる根源として尊び崇めずにはおれないものである。

大経は上下二巻あります。上巻は如来浄土の因果、下巻は衆生往生の因果が説いてある。如来と衆生が接触するところは十一願成就(必至滅度の願)で、次は十七願成就(諸仏称名の願)で、次は十八願成就(至心信楽の願で、次は十九願成就(修諸功徳の願)である。

私たちが本尊を持つとは十一願成就で如来と接触するのであるが、一遍にここにはいかない、十九願、十八願、十七願の成就がいるのである。

釈尊は観経の中で除苦悩法を説く、これが十七願成就である。その時、韋提は弥陀三尊を見て接足礼拝した。これが十一願成就である。善導はこれを釈迦隠れて弥陀現ると言われた。釈迦をいつまでも頼りにしてはいけない。自由に独立出来ないのである。自分の前にどんな偉い人がいようと、堂々と自分の考えを述べることが出来る。卑屈にならない人になってくれよという願いがあるのである。

仏道に立つとは独立者となり、本尊を持って念仏申していくことであります。

合掌

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感想「通信再開について」

I.T

日野の会通信を休止して一年半くらいになりました。皆様にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。去年の八月頃、精神的に落ち込んで一ヶ月ほど入院しました。それからずっと仕事を続けなから療養してまいりまして、この頃やっと元気になりました、その間、色々考えさせられました。仏法をやっていて、多少家族に犠牲を強いても許されるのではないか、多少の悪い行いや、言葉も許されるのではないかという甘えがあったのです。それが妻や子供を傷つけていたことを知らされました。今回、佐々木先生の講義の中で家庭の成就について話しがありました。

家庭が道場になる。そこには礼儀がいる。言ってはならないこと、してはならないこと、考えてはならないことをしない。このことを頷かせて頂きました。通信を又書かせていただきます。合掌

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