日野の会通信(No.178)抄

平成11年3月3日発行

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第3章   佐々木 玄吾

感話 明恵の求道    K. Hanaoka


本講 歎異抄第3章「悪人正機章」
佐々木 玄吾 先生講義 
受講記 田中 郁雄
 「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
 この言葉は親鸞聖人の他の著述には出てこない歎異抄独自の言葉である、これが人々の心を揺り動かし、感銘を与えるとともに間違って解釈すると、造悪無碍となる。つまり悪いこと事をした方が助かるのだということになって、道徳に背くことになる。このことが、「歎異抄はカミソリ聖教である」と言われる所以であります。
 そこで、蓮如上人は「右この聖教は当流の為には大事な聖教なり、無宿善の機に於いては左右なくこれを許すべからざるものなり」と奥書きして、歎異抄を本願寺の奥にしまってしまったのである。そして、一般の人は読むことが出来なったのであります。明治になって、清沢満之師によって公開され、今日私たちが歎異抄を読むことが出来るようになったのであります。
一、二つの世界
 イスラエルのマルチン・ブーバーは、人間というものは二重構造を持っていると言われた。一つは外なる私、もう一つは内なる私である。外なる私が他のものを見ると、私−それ、である、内なる私が他のものを見ると、私−汝、である。
1、私−それ
 相手を物質化し、どれ程役立つか、立たないかと自分は高いところにいて批判する。自分の知性、理性でもって他を見るのである。そこに善人意識が根底にあるのであります。
 曇鸞の論註に「衆生邪見を以ての故に心に分別を生じもしは是、もしは非、もしは善、もしは悪、かくの如きの分別を以ての故に分別苦、取捨苦を生じ深く三塗に沈む」とある。人間の知性は間違っている。心の底に善人意識、自己肯定がある。邪見に立ってものを判断しているからであります。
2、私−汝
 相手に対して「友よ」と、親しみをもって呼びかけることが出来る。一体化である。これには教育が必要で、私というものが変わらない限り、分からない世界であります。
 彌陀の本願が私に「汝よ」と呼びかけられている(第一章)。その本願は直接私には届かないで、よき師、よき友の伝承となって、私に「汝よ」と呼びかけてくる(第二章)。その呼びかけが私に届くと、悪人の目覚めがおこるのである(第三章)。その悪人は他に対して、「友よ」「汝よ」とまた呼びかけることが出来るのである。(左図参照)
 本願の教えによって目覚めた姿が悪人である。具体的には相手を善悪で裁かないで、宿業であると分かることである。細川先生は宿業を知ることは現実を知ることであると言われた。現実とは、どうしようもないその人の個性、背が高いとか低い、仕事が速いとか遅いとかということである。私が「汝よ」と言う呼びかけに育てられ、他に対しても「友よ」「兄弟よ」と呼びかけることが出来るのであります。
 私たちは「私−それ」の世界にいる。それが「私−汝」の世界に出るには、自己肯定、善人意識が砕かれねばならない。よき師、よき友の教えに従っていくことによって、本当の共同体、サンガが生まれるのであります。我々は皆、家庭、職場の成就を願うのであるが、自分の力だけでやろうとするところに自己中心があるのである。その自己中心に気がついていくことが大事なことなのであります。
二、善人と悪人をどのように考えるか
 悪(罪悪)とは何かについて、嘉祥(中国)は次のように述べている。「罪とは摧折の義、悪を行ずれば心三塗を感じ摧折す」 摧折とは心がくじける、弱くなる。悪いことをやったら三塗(地獄、餓鬼、畜生)の苦しみを心に感じて摧折するのである。
 悪とはそれを悪と感ずるか、感じないかであって、その人の心の問題で、精神的な深さがいるのであります。
 三木清は「人生論ノート」の中で、「相手に対する本質的な理解を妨げているものは怠惰と傲慢と我執である」とのべている。私自身の姿が分からないと相手のことが分からないのである、善(客観的な善)とは何かについて、龍樹は(一)信の人、(二)念の人、(三)精進の人であると言われている。
 (一)信の人について、信とは何かと考えてみると、信知、信受、信順である。信知とは自分が何であるかが分かる事と、大いなる世界が分かることである。信受とは現実を受け止めることである。現実には内なるものと外なるものとがある。内なる現実は腹が立ち、冷たい心が起こる。このような自分を受け止められないが、これではいけないではなくて、このような私−南無阿弥陀仏、と頭を下げることである旬それが現実を受け止めることになるのであります。
 外なる現実とは病気になる、仕事を失う等、自分の外に起こる現実である。聖人の現実は、三十五才の時、承元の法難によって越後に流罪となったが、「これ師教の恩致なり」と言って、現実を受け止められた。これが私−南無阿弥陀仏となることであります。
 私がどうしても受け取れない現実がある。その現実をどうして受け取れるかというと、それは仏様が受け取って下さるからである。自己中心の私を「汝よ」と呼びかけ、許して下さるからであります。私は仏様によって許されているから、外の現案を許してゆけるのである。心の底に許せない人が一人もいないと言うことであります、仏様は私のようなものに対して「汝よ」、『友よ」と呼びかけて下さる、それがわかった時、懺悔が生まれる、これが悪人の誕生であります。
 信順とは教えに随順していくことである。教えとは「ただ念仏して彌陀にたすけられまいらすべし」であり、「信ずるほかに別の子細.なきなり」が信順した姿であります。
 聖徳太子は「行善之義 本在帰依」(善を行ずる義はもと帰依にあり)と言われた。信がなければ雑毒(貧欲、瞋恚、愚痴)の善である。信の人(念仏の人)になることが善の根本であります。
合掌
 
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感話明遍の求道
K. Hanaoka
 高野山に明遍と言う真言宗の大変すぐれた学憎がおられた。法然上人の「選択本願念仏集」を読んで、法然と言う人に大変興味を持たれたが、直接会って自分の目で確かめないと安心できないということで法然に会いに来ました。
 二人は初対面なのに、明遍は挨拶もせずにいきなり「末代悪世の私たちのような濁悪な凡夫はどうしたら生死を離れることが出来るか」と聞いてきました。
 これに対し法然は、「南無阿弥陀仏ともうして極楽を願うことだけが肝要だ思う」と答えます。けれども明遍はこんな答えでは満足せず、「そんなことは分かっていますけれどもそれだけでは信心が決定しません。それにいくら念仏しても心が散って、どうしようもない、どうしたらよいか」と聞いてきます。それに対して法然は「それは私の力ではどうしようもない」とつっぱねます。
 明遍はさらに押して、「それでも何とかならないのか」と重ねて聞きます。そこで法然は明遍の肉薄に答えて「こころが散るのは煩悩の所為である号こころが散りつつも念仏申せば、仏の願力によって往生出来ると私は信じている。詰まるところ大らかに、安らかに念仏することが第一です」ともうしました。
 これを聞いた明遍は「そうです、そうです、それを聞きにやってきたのです」と真に聞きたい一言を聞きえた慶びに、全てを忘れ、別れの挨拶もせずにさっさと帰ってしまったのでした。
 このことは法然上人の弟子達にも大変な感銘を与え、明遍の無礼をとがめるどころか、大きな感動におののきながら「初対面の人、一言も世間の礼儀の言葉もなく、退出せられぬ事よ」と感嘆したとのことです。
 
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