日野の会通信(No.177)抄

平成11年2月22日発行

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第7章  田中 郁雄

感話 最近の想い出  F. Takamoto

本講 歎異抄第7章

田中 郁雄 先生講義 

受講記 田中 郁雄

1月16日(土曜日)「歎異抄を読む会」の議事より

「念仏者は無碍の一道なり、そのいわれいかんとなれば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸書も及ぶ事なき故なりと、云々」。
 歎異抄には第一章に『罪悪深重・煩悩熾盛」第二章に「地獄は一定」、第三章に「悪人」等の言葉があります。一般的に考えると、暗い言葉(本当は明るいのですが)と考えられますが、この第七章の言葉は歎異抄を読む者に勇気与えてくれる力強いものであります。
一、念仏
念仏とは南無阿弥陀仏である。南無とは帰命であり、本願招喚の勅命である。勅命という言葉は現在では使われないが、天皇の命令ということであり、絶対なものである。如来の本願は私がいやといっても私を救い導き給うのであります。
 阿弥陀とはアミタユース(光明無量)、アミターバ(寿命無量)と言う大いなる世界である。細川先生は南無阿弥陀仏とは「汝、小さな殻を出でて大いなる世界に帰れ」という如来の呼びかけであるといわれた。如来の呼びかけ、仏念が私に届いて、私の念仏になるのである。観経の中に「念仏の衆生を観して、摂取して捨てざるが故に阿弥陀となずく」とあります。
二、念仏者(曽我先生説、細川先生説)
1、曽我先生説(歎異抄聴記)
 念仏者を念仏とはと読むのが漢文の読み方である。念仏なるものはと言って、法をあげ、道理、はたらき、法徳を表している。次の信心の行者は機をあげているのである。観経の中に「仏心者大慈悲是」と言う言葉がある。その読み方は、仏心とは犬慈悲是なり、これが漢文の読み方である。と言う説である。
2、細川先生説
 念仏者とは念仏する人である。念仏は必ず念仏申す人の上に生きているのである。次に信心の行者という言葉があるから、念仏者は念仏申す人と取った方がよいと言うことである。
 第八章には「念仏は行者のために」。第十章には「念仏には無義をもて」と言うように者という字を使っていないのです。以下は細川先生の説で考えていきたいと思います。
 念仏は念仏申す人の上に生きているという事であるが、たとえば、春はどうして感ずる事が出来るかというと、いま春ですといわれても分からない。気温が上がり、鳥がさえずり、桜が咲き、いままで枯れていたような小枝に新しい茅が出て、緑の葉となる。このように具体的になってはじめて春が来たなあと
分かるのである。念仏も本当に念仏申して喜んでいる人の上に生きて無碍道を展開するのであります。
 念仏者は次の信心の行者である。口先だけで商無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏する人ではなくて、本願を信じて念仏申す人、本願を本当に聞き開いて、なるほどと頷いて深い目覚めを与えられて、念仏申す人であります。
 深い目覚めを与えられるとどうなるかというと、いままでは本能、理性、感情を私の根源として、好き嫌い、善悪で人を判断していたが、本願南無阿弥陀仏を根源とするようになる、そうするとどうなるかというと、自分の本能、理性、感情を否定するのではなく、その根本に貧欲、瞋恚、愚痴と言う煩悩を抱
えているという事が分かるのである。お粗末なことであります南無阿弥陀仏と念仏申すことによって、浄化されるのであり、智恵が与えられるのであります。
 ブーバーの言葉で言うと「私−それ」の関係から「私−汝」の関係になるのであります。「私-それ」の関係とは相手を道具化し、利害、打算、好悪を考える冷たい関係である。「私−汝」の関係は相手を包み込んで許し、痛み悲しむのである。私を支えてくれる根元が本願南無阿弥陀仏であると分かることは、他の人に対しても本願南無阿弥陀仏が働いて下さっていると分かることであります。歎異抄後序に「彌陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば親鸞一人がためなり」と言う深い思惟が与えられるのであります。
三、念仏者は無碍の一道
 広島県の豊平というところに住岡夜晃先生が書かれた「念仏者無碍の一道也」という石碑が建っております。これをはじめて私が見たとき、この言葉とおなじような先生の力強い筆跡に感銘を受けたことを思い出します。
 無碍とは有碍に対する言薬で、さわりなしということである。私たちの人生は有碍である。さわりの多い人生でありますが、その有碍の人生に無碍が成立するとはどう言うことであろうか。
 曇鸞は「無碍とは謂く生死即涅槃なりと知る也」といわれた。生死即涅槃と言う言葉はさとりの言葉である。生死とは私たちの有碍なる人生であり、涅槃とはさとりの世界、無碍なる世界である。次から次へと色々なことが起こってくる現実というものが念仏となることが涅槃を生きることであります。
 善いことが起きれば有り難うございます南無阿弥陀仏。悪いことが起これば私の業としてうけとめ、お粗末なことでございます南無阿弥陀仏、と念仏になるところに無碍道が展開してくるのではないでしょうか。
 細川先生の最後の言葉に「人生を浄土の縁として、如来のまごころの中を生きさせて頂いて、慶びこれに過ぎるものありません」とあります。人生を浄土の縁としてとは、有碍なる人生を念仏の縁とする。つまり現案が念仏になるということであります。そして、そのままが如来のまごころの中、涅槃を生きることなのである。生死即涅槃という無碍道を先生は生きられたのであります。
 清沢満之師の「絶対他力の大道」の中で、「生のみが我らに非ず、死もまた我らなり。我らは生死を並有するものなり。我らは生死以外に霊存するものなり」と言われている。
 清沢満之師は四十一才という著さで、結核で亡くなられた。死を覚悟した中で、生死だけでは人間は救われない、生死をのりこえ、生死以外に霊存するといわれた。霊存するとは人知では分からない不思議な世界を生きる、即ち涅槃を生きることである。生死にありながら涅槃を生きることが出来る。これが「念仏者は無碍の一道なり」なのであります。
合掌
 
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感話「最近の想い出
F. Takamoto
 つい二ヶ月前に、「おはようございます、セレモニイと申します」といって、年配の二名の社員が朝早く来ました。パンフレットを見せながら、「生前に葬式の予約を申し込みますと、万一亡くなられた時に葬式されるよりも割り引きさせていただきますので、大変安くなりますが如何でしょうか」と言いながら申込用紙を見せて説明しようとしたので、私は即座に「結構です」と断った。
 まず、朝早いので縁起でもないと思い、私宅から早く出ていって欲しかった。汚いものを指先でつまんで、捨てたような気持ちであった。癪に障ったことも事実であった。やれやれと思いながらも、なぜそんなにやり切れない気持ちになったのだろうか、誰の上にも死を免れることは出来ないのにと思った。そして、死が怖いのだ、怖いからこれが本当の姿だと受け取れないのであると気づいた。
 頭では死が近いうちに来るであろう事はわかっているつもりでも、体はまだまだ健康であると思いこんでいる。どうしても御催促でありました、ようこそと思われないのだ。生老病死の四苦のお話を大変多く聞かせていただいているのに、全く自分のことになると、からきし駄目である。
 「夜晃先生、私は今、確かに生きている、なにをすればよいのか、私にやがて死が来る。このまま死んでも悔いはないのか、そういう衷心の願求に答えるものは何か、それはただ一つ真実の教えである。真実の教えは人間の便宣で作られたものではない…わが前に立ちます善知識こそ聖なるみ心である、み宗を伝え給う仏の使いよ、合掌してうけん…」
 前に戻ると、私に死を呼び覚ましてくれた人、日頃は死から逃げようとしていた我に、つれ帰してくれたその人こそが、私にとって善知識であったろうと思われてならない。
 
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