日野の会通信(No.176)

平成11年1月11日発行

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第3章      佐々木 玄吾

感話 このごろ思ったこと    I. Yaoya


本講 歎異抄第3章

佐々木玄吾先生 講義 

受講記 田中 郁雄

12月18日(土曜日)「歎異抄を読む会」の議事より

 この第三章について、三河の了祥師は「悪人正機章」と名づけられた。悪人が本願のお目当てであるという事であります。悪人とは主体的自覚の世界であります。

一、各章のつながり

 第一章、第二章、第三章を安心訓という。安心とは他力の信心(自覚)と言うのである。第四章から第十章までを起行訓という。起行とは実践であります。自覚から実践が生まれるのである。そして、第一章から第十章までの全体を師訓篇という。唯円にとって師である親鸞聖人の教えである。第十一章から第十八章までが異義篇であります。聖人の教えと異なっていることを指摘しているのであります。

○安心とは何か

 安心(信心)とは安らかなこころ、安定したごころ、劣等感、不安なこころがないことである。私たちは不安を持ちながらびくびくして、自己中心という殻の中にいる、しかし信心の人は顔が一つでこころが安定している。

○その安心はどうして出来るのか

 第一章の「彌陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」が根本である。その彌陀の誓願は人をどうして伝えられるのである軸第二章に「よき人の仰せをこうぶりて信ずるほかに別の子細をきなり」とある。

 彌陀の誓願にふれて釈尊が現れた。その釈尊の教えによって善導が生まれ、善導の教えによって法然が生まれた。法然の教えによって親鸞が生まれたのであります。

 彌陀の誓願にふれることによって、第三章の「他力をたのみたてまつる悪人」の自覚が生まれるのである。それが安心となるのであります。

 悪人とは誤解を生じやすい言葉であるが、世間で言う悪人ではなく、自覚の言葉である。仏と出会った人、本願に出会った人が悪人となるのである。第一章では罪悪深重と言い、第二章では地獄一定と言う、罪悪深重とは仏、親、夫、妻、子にたいして申し訳ないと思うことが悪人であるとわかることである。それを悪人正機と言うのであります。

二、善悪の問題

 自分より外の問題、社会、職場、人に就いて善悪を言っていては解決にならない。この解決には、一つは自分は何であるかとわかること。つまり悪人の自覚という事である。

 二つは宿業(現実)とわかることである。誰でも皆、宿業を持った存在であるとわかると、人を善悪で裁くことが出来ないのである。別の言葉で言うと、全ての人が仏様に許されているという事である。そこから全てを許す人が生まれてくるのであります。

 解決の根本的な第一歩として、教育の問題について、本願によって全ての人が許されていると言って、何でもしてよいというのではなく、悪いことは吃り、しっかり躾をしなければいけないのであって、宿業とばかり言っておれない。しかし、厳しすぎてもいけない。「念仏の親には無理がない、たったひとつ念仏の子になってくれと願うから」と言う言葉がある。解決とは超越することであり、超越する者は随順して、実践となる。

三、愛情(実践)

 真実の愛情についてフロムは尊敬、連帯、責任、配慮、を持った者であると言っている。本当の安心を持った者はこの真実の愛情を持って人に接することが出来るのである。女よと呼びかけることが出来るのである。悪人の自覚を持った人はこのような人である。

 「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや。しかるを世の八つねに曰く、悪人なを往生す、いかにいわんや善人おやと。この條一旦そのいわれあるにたれども本願他力の意趣にそむけり。その故は自力作善の人はひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ彌陀の本願にあらず」。

(文意)

 善人でさえも往生とけて本願に救われて浄土に往生をしていく、まして悪人が救われないということがあろうか、これが聖人の説。しかし、世の人々は悪人でさえ浄土に往生するのに、まして善人が往生をとげないことがあろうかという。このことは一応道理にかなっていると思われるけれども、これは阿弥陀仏の本願である他力の救いの趣旨に背いているのである。

一、自力作善の人

 善人意識、理想主義の人を自力作善の人という。理想主義とは廃悪修善である。悪いことをやめて善いことをやっていけば立派な国、社会、家庭、が出来ると思う心である。しかし、人を善し悪しで判断して、冷たい人間関係になってしまい、実現することは難しいのであります。

 現代の問題は人類、社会、地球全体で考えなければならない。一つは資源がなくなる。二つは食糧難。三つは公害による環境汚染。人間の生活がより'便利になることが人間の幸福と思ってやったことが色々な問題を引き起こしている。理想主義でやってきたことが行き詰まるのである。その理想主義を超えるには自分が何であるかとわかることである。

 石川五右衛門は釜ゆでの刑に処せられたのであるが、最初のうちは子供を自分の頭の上にのせていたが、だんだん熱くなると、自分の子供を自分の足の下にしいてしまう。これが人間であるのであります。この現実が宿業とわかることなのであります。

二、善人ということについて

○主観的と客観的(自分の思いと仏の思い)

 十住論に善人に十のものが具わっている、

  1、信−目覚め、悪人の自覚。仏から見ると善人である。
  2、精進−主観的悪人は必ず精進する。反対は放逸、慨怠である。
  3、念−憶念(仏、法、僧を憶う)
  4、定−心の安定
  5、善身業−身にかけて善い行いが出来る。
  6、善口業−不妄語、不悪口、不両舌である。
  7、善意業−貧、順、痴を離れる。

 自分はどうか、長い間仏法を聞いてきて立派になったろうか。申し訳ない私と懺悔するところに悪人の自覚がある。私たちは懺悔が足りないのである。高原覚正師は「歎異抄集記」の中で、この第三章を「無慚」と名づけられている。     合掌

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感話「このごろ思った事」

I. Yaoya

 十一月の末の晩、同居の家族であるネコのククリが事故死しました。夜、子供を寝かせながら、家の前で車が急停車する音を聞きました。そして車のドアがあいて、又閉まり、車はいってしまいました。「そういえばククリは外に出したけど大丈夫がな?」と言う思いが頭をよぎりましたが、怠慢なことに眠りかけていて確認はしませんでした。それが事故の音だったのです。どうして行って確かめなかったのか、あの日に限って家の前に自分の車を止めたままにしていたのか、何で一時間前にネコを外に出したのか。(寒くなっていたので、いつもなら一緒に布団に寝ていたのに。)もう戻ってくることはないのだから、諦めるより仕方がないと分かっているのですが、後悔と愚痴が堂々巡りをします。

 山口で「あゆみ」という雑誌がでていますが、その中の中村明美さんの書かれた、ベルトコンベアーと言う題の文章を読ませた頂きました。縁者の葬式に行かれて、同情も涙もするけれど、それ以上のものでなく、冷たい心を思わないではいられなかったことを先師は「他の運命への同感のなさを無慈悲の極みと嘆かれた」と書かれてありました。そして、「私は自分を責めたりはしなかった。これが私だと思った」とありました。

 私は他への運命への同感のなさ……と言うレベルの高いところにハッとしたわけではありませんでした。ネコのいのちを私の怠慢によって閉じることになってしまったと思っていても、私はあんなに気をつけていたのに、と言う思いも少なからずありました、主観的にはやっているつもりでも、客観的には無自覚のままひどく怠慢な私が少しだけ見えました。これが私だと。

 

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