日野の会通信(No.172)

平成10年8月18日発行

歎異抄を読む会

本講 弥陀の御催し       田中 郁雄

感話 始めて浄土真宗に触れて  T. Saito

本講 「歎異抄第六章」

田中 郁雄
「一、専修念仏のともがらの、わが弟子、人の弟子という相論の候らんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候。その故は、わがはからいにて、人に念仏をもうさせ候ばこそ、弟子にても候はめ。ひとえに彌陀の御催しにあずかて念仏もうし候人を、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんど言うこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わかものがおにとりかえさんともうすにや、かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことはりにあいかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々」。

〈文意〉もっぱら念仏をもうしている人々の中に、この人は自分の弟子だ、あの人は他の人の弟子だという言い争いがあるということだが、これはとんでもないことである。

 この親鸞は弟子などというものは一人も持ってはいない。そのわけは、私の努力によって他人に念仏をもうさせているならば、その人は私の弟子だとも言えよう。しかし、すべてはただ阿弥陀仏の御働きに促されて念仏を申されている人を、自分の弟子であるなどと言うのは、まったくとんでもないことである。およそ、付き従うべき因縁があれば一緒になり、離れ去るべき因縁があれば離れ去ることがあるのは道理であるのに、「今までの師に背いて離れ去り、他の人について念仏するようでは、阿弥陀の浄土へ往生することは出来ない」などということは、言語道断をこと

である。阿弥陀如来よりいただいた念仏の信心を、自分の持ち物であるかのように考えて、取り返そうというのであろうか。そのようなことは、どう考えてもあってはならないことである。

 阿弥陀の本願の自然の道理に自分の信心が一致するならば、おのずから仏のご恩もわかり、又師のご恩もわかるはずである、と聖人は仰せになった、(歎異抄辞典より)

一、彌陀の御催し

 彌陀の御働きということで、これを彌陀の誓願という。第一章に「彌陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をばとぐるなり」とあります。ここに彌陀の誓願ということばがでている、歎異抄を貫いているのは彌陀の誓願である。

 仏教を闘いたのは釈迦であるのに最初に何故、彌陀がでてくるのであろうか。龍樹は釈迦滅後七百年にインドに生まれ、第二の釈迦といわれた、龍樹は釈迦が釈迦たらしめられたのは彌陀の誓願であると言われた。又、釈迦は無師独悟と言われていたが、そうではなく、燃燈仏にお会いして、悟りを開いたのだと言われた。燃燈とはともしびである。彌陀の誓願はともしびのような存在をどうして伝わって、釈迦に至って現れたのである。

 彌陀とは阿弥陀仏という。阿弥陀とはアミターバ(寿命無量)、アミタユース(光明無量)という、仏とは仏陀、覚者、如来という。

 大いなる世界を真如、一如という。その如なる世界から私に来するから如来という、これを阿弥陀如来という。私の認識しうる世界に現れて下さることを方便という。サンスクリット語でウパーヤと言う。接近するとか、到達すると言う意味である。何故、頼みもしないのに如来してくるか。それは衆生、私がいるからである。如来は衆生、私の姿を悲しまれて、如来してくるのである。私は真実の道理にくらく、自己中心であり、名聞、利養、勝他で生きているからであります。小さな世界にいる私を大いなる世界に出そうとするのである。これを本願というのである。母親が赤ん坊をうむと、乳が出て、赤ん坊に飲ませる。これが自然の姿である。そこに母親の願いがある。この子に乳を飲ませて、大きくしたい、立派な子に育ってほしいという願いを持つ、誰かに頼まれなくても願いを持つのである、 大経に四十八願が説かれているが、その中の十八願に本願を信じ念仏申さば仏になると誓われている。

 その本願は直接私には届かないで、よき師、よき友をとおして届くのである。よき師、よき友を諸仏という。大経上巻の最後に華光出仏がある、「一一の華の中より三十六百千億の光を出す、一一の光の中より三十六百千億の仏を出す。身色紫金にして相好殊特なり。一一の諸仏、又百千の光明を放ち、普く十方の為に微妙の法を説きたもう。是の如きの諸仏各々無量の衆生を仏の正道に安立せしむ」。

 彌陀の御催しとは彌陀の働きであるが、具体的には、よき師、よき友の働きである。

 「わが弟子と申すこと極めたる荒涼のことなり」

 諸仏はわが弟子と言って私有化しないで、広い天地に出し、如来にお返しするのである。大経下巻に往覲偈というのがある。往覲とは出仕して、仏にまみえることである。江戸時代に参勤交代と言う制度があった。諸大名が代わる代わる、江戸に参勤して、将軍にお目にかかるのである。それと同じことが仏の世界でもあるのである、

、諸仏(華光出仏)は自分が育てた衆生(菩薩)を自分の手元に置かないで、彌陀の浄土に往覲させる。阿弥陀仏にまみえしめるのである。

 善導大師の二河譬の中に、東岸発遣、西岸招喚がある。東岸発遣とは、釈迦諸仏、よき師、よき友が、汝この道を行けと勧めるのである、西岸招喚とは、彌陀が汝一心正念にして直ちに来たれ、我よく汝をまもらんと喚びたもうのである。

、菩薩(衆生)は諸仏から生まれたもの。私も細川先生にお会いして、大いなる世界、仏の世界を教えていただいた。夜晃先生の言葉に「自己の教えの中から生まれてきたものを自由の天地にはなって飛翔せしめる。自由の天地に放たれたその人が、自らの意志によって返るところを持つ、これが真実宗教である。」と言われている。

、この菩薩は再び諸仏の国に帰って、諸仏に恭敬、供養する、師はこの菩薩をわが弟子と私有化しないが、弟子は我がよき師として一生仰いでいくのである。

合掌

 

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感話「初めて浄土真宗に触れて」

T. Saito

 もう二十年以上も仕事で夜昼が逆でした。仏法のお話が朝からあると眠気で、なかなか聞くことが出来ませんでした。それでも断片的に頷くことはありました。ようやく朝起きられ、仏法も土に水がしみこむように聞けるまで二年かかりました。祖母は信心の人でしたので、家に線香や、お経は日常の中でごく自然にありましたが、初めて、浄土真宗の教えに触れて、自力他力の違いに驚きました。

 ただ法を聞いていない人でも、この見えない世界は自分の体や自然、宇宙をどうして、ほんの少しは感じ取れるはずです。空気も血も、今この心臓を通った血液が手足や脳へと、吸った空気は…一つ一つ自覚して動かしていたら、一日で疲れてしまい、後は何もできなくなってしまう。人間は小さな石ころさえも空中に浮かすことは出来ないが、この大きな岩の塊一地球一は浮かんでいる、その塊に、しがみついている人間、占いやセラピー、又は禅などは一時の気休めにしか過ぎません、地球が自転し、正確に太陽の周りを回っている。しっかりした中心がそこにあるように、生きるとは命とは…その中心を教えていただいたのが、お釈迦様や親鸞聖人。誰でも何かあれば落ち込むが、人間に自然治癒力があるように、浄土真宗の教えに触れていると、ちゃんと軌道修正?される。それが友よと言うことではないでしょうか。元を辿れば、そこに阿弥陀様の真の心、計らいのない心から、わき上がる真実の教えがそこにあるからです。いままで色々述べてきましたが、妙好人の浅原才一さんの詩の中にぴったり来るようなものがありました。
 「お六字は わたくしなり世界なり空気なり 空気名号なむあみだぶつ」

(ご参考)著者のSaitoさんは、風 忍(かぜ しのぶ)というペンネームで単行本もお出しの、
プロの漫画家です。近く、親鸞聖人のことを漫画に描きたいという夢を語っておいでです。

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