日野の会通信(No.171)

平成10年7月5日発行

歎異抄を読む会

本講 一、真実(まこと)の表現
    
1.自証
    
2.教証(歴史の上で証明する)

感話 「風が吹けば桶屋が儲かる」


歎異抄第二章
佐々木玄吾先生 講義
受講記 田中郁雄
「法然の仰せまことならば親鸞が申す旨またもて虚しかるベからず候か」

 意訳 法然の仰せがまことならば、親鸞が申すことが虚しいことがあろうか。 

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一、真実(まこと)の表現

 自分の言っていることがまことであるとはどんな条件が整ったら言えるのだろうか。

1.自証

 自らが体験して、間違いをいと証明することである。例えば、火は人がなんと言おうが、火は熱いと表現できる。まことを表現するにはまことにふれていることである。ふれるとはまことにふれている人を自分が発見することである。仏法ではそのことを就人立信と言う。人について信を立てる、よき人について信心ができるのであります。

(イ)よき師、よき友に従って前進する

 「よき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり」である。仏教は二五OO年前に釈尊が説かれたが、それを伝承した人にふれることによって、次々に伝えられていくのである。具体的には聞、思、修である。

  聞・・・よき師の説く教えを聞いていく。
  思・・・その教えは私において具体的にはどういうことなのかと考える。
  修・・・それを実行する。

そうすると、教えが身についてあるところまで前進するのである。

(ロ)私における廃立(選択する)

 法然上人は聖道門を捨てて浄土門に入れといわれた。聖道門の生き方は理想主義をたてて、自己の理性を原点にして考えていくのである。上人はその原点を捨てよと言われたのである。それが自証に到る道である。

 今、家庭の問題として離婚が多い、その時、その原因を聖道門は外に考える。浄土門はそれを内にみるのである。トルストイは万人を愛すると言ったが、自分の奥さんを愛せなかった。理性で解決しても他への影響が残り、本当の解決にならないのである。

 浄土門では自己自身を追求せよ、問題は内にあるのである。今は浄土門しか解決の道が残っていないのではないか、人間を支えている根源の呼びかけを考えて事に当たっていくベきてはないか。根源とは理性のもっと奥にあって、この人生を支えて私を友よと呼びかけて下さるのである。友よと言う呼びかけは相手に対して尊敬、配慮、責任、理解であります。根源とは本願である。浄土門の初めはその本願の教えを聞いていくことと、友よという呼びかけを持つことであります。

 次に雑行を捨てて正行を選ぶのである。

(ハ)念仏一つと決心する

「ただ念仏して禰陀にたすけられまいらすベし」とよき人の仰せを被りて信ずるほかに別の子細なきなり。

 自分で決心するのではなく、廻心がなければできないのである。廻心とは自己自身を知ることてある。自己とは、難治の三病を抱えた私、謗法、五逆、一闡提の私であるとわかることてある。

  謗法……仏、法、僧を無視する。
  五逆……父、母、師、友、仏、恩ある者に背く。
  一闡提…断善根、やる気のない、根腐れ病。

自己自身がわかったとき、その存在に届くのが念仏である。

 念仏一つとわかったが、現実の問題の中では念仏一つとはどう言うことなのか考えること、推求することが大事である。推求とは現実と取り組むことである。家庭の問題、社会の悶題、職場の問題等、現実の問題と取り親んだ時に、宿業の身であるとわかるのである。これが現実を背負うということである。

 こういう問題を持って苦しんでいる私が本願のお目当てであったとわかることである。現実に反発するのではなく、現実の私を背負ってたつ時、南無阿弥陀仏と念仏申すことが根源に帰っていくことが出来るのである。相手に対しては友よと言って、現実に立ち向かっていくことが出来るのである。どのような状況に陥っても、根源に立って生きていく人が誕生するのである。

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2.教証(歴史の上で証明する)

 就行立信の行とは歴史、つまり南無阿弥陀仏、本願の歴史があるということである。釈尊の背後には本願がある、よき人の背後にも本願の歴史があるという事である。真実とは長い歴史を持っていて、よき人をとおして私に届くのである。自証と教証の二つに立って、揺るぎない信心.となるのである。

 関東の人はよき人の教えを聞いていたが、現実の中で推求することがなかった。その聖人の背後に禰陀の本願の歴史があることがわからなかったから動揺したのである。

「この上は念仏をとりて信じたてまつらんともすてんとも面々の御計らいなり」

この言葉は独立者の誕生を願う言葉である。

 人を束縛しない自由人となることを願うことである。仏法の目的は独立者を誕生させることである。

 自由とは自らによることである。その自らとは小さな殻の中の存在なのか、又は束縛から解放された存在なのかである。束縛から解放された人は自分が自分の主人となる。人を道具化しない、「友よ」となり、一緒にがんばろうとなるのである。

 今の時代は人がどれだけ役に立つか、役に立たなければやめてもらうとなる。全て道具化である。その反対が「友よ」である。相手に対する思いやりと尊敬を持つことである。正信偶の中に、『道俗時衆共同信 唯可信斯高僧説」とある、これが「友よ」というよびかけである。我々の働きは弱々しくて、社会を変えることは出来ないが、少しずつ浸透して独立者が誕生するのである。なぜなら無理がないからである。

 「愚身の信心におきてはかくのごとし」

独立者は遂に愚身であるというものが生まれてくるのである。愚かとは素裸になることである。人は仏の前にたつ時、素裸のわたしとなる。申し訳在い私、お粗末な私となるのである。今回日野の家に帰って、本尊南無阿弥陀仏の前に立って勤行した時、この家の柱の一本一本が南無阿弥陀仏に願われている。どうか念仏を聞いてくれよと、細川先生に願われているとわかりました。

合掌

 

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感話「風が吹けば桶屋が儲かる」

B. Yaoya

 「風が吹けば桶屋が儲かる」と言う言葉がある。この言葉の意味は、広辞苑によると、「思わぬ結果を生ずること。あてのならない期待をすること。」とある。そもそもこの言葉は、風が吹けば砂塵が舞い、砂塵が舞えば砂が人の目に入って盲人が増える、盲人が増えると(盲人は三味線を弾くので)三味線の需要が増え、三味線の需要が増えれば猫が減る、猫が減るとネズミが増え、ネズミが増えるとネズミにかじられる桶が多くなる、その結果桶屋が繁盛するという理屈に基づいたものである。通常、この言葉自体は消極的な意味に使われるが、その語源は物事の因果関係というものを表しているのである。

 ところで、最近の企業倒産の話を聞くにつけ、この言葉の意味を考えずにいられない。一つの企業が倒産すると、その企業を取り巻く様々な人々に影響を与えるのである。仮にA社が倒産すると、A社の融資銀行はその債権が即不良債権になる。A社の従業員は職を失う。A社の取引先は売り掛けが焦げ付き、自分の所の資金繰りが悪化する。国、地方公共団体もA社からの税収が無くなる。銀行は不良債権が増えると、他の貸付先に融資を渋り出す。貸し渋りにあったB社が倒産の危磯を迎え、B社が倒産すれば、B社の融資銀行はその債権が即不良債権になり・・・。

 このように、全ての人及び企業の経済活動は何らかの意昧でつながっているのであり、基本的には自分だけいい思いをすることは出来ないのである。

 そう考えると、人の倒産話は決して他人事ではなく、倒産話を聞く度に他人の繁盛を願わずにいられないのである。

合掌

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