日野の会通信(No.170)

平成10年6月7日発行

歎異抄を読む会

本講 歎異抄第二章    佐々木 玄吾
  
一、善導と法然
  二、
浄土真宗を興すとは
  三、
観経九品の教え
  四、
廻心は何によってで出来るか
  五、
釈尊と善導と法然の関連

感話 御 礼       S. Akahide


本講「歎異抄第二章」

佐々木玄吾先生 講義 受講記 田中郁雄)

歎異抄第二章

「仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまうベからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。・・・」

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一、善導と法然

 了祥師の「歎異抄聞記」の中に何故この二人だけが七高僧の中から選ばれているのか、その理由が二つのべられている。

1.この二人は浄土真宗を興した人である。

 「浄土文類聚抄」の中に

   善導独名仏正意(善導独り仏の正意を明らかにして)
   深籍本願興真宗(深く本願に籍りて真宗を興したまふ)

   源空暁了諸聖典(源空は諸の聖典を暁了して)
   真宗教証興片州(真宗の教証を片州に興す)

 真宗と言う言葉は善導と法然だけに使われている。

2.深い感謝と讃嘆を捧げられている。

 御和讃に

  大心海より化してこそ善導和尚とおわしけれ末代濁世のためにとて十方諸仏に証をこう
  智恵光のちからより本師源空あらはれて浄土真宗を開きつつ選択本願のベたもう

 

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二、浄土真宗を興すとは

1.法然上人においては

 法然上人は偏依善導一師と言われた。浄土門の諸師は多いけれども、念仏一つに徹した人(三昧発得の人)は少なかったのである。善導は生活の全てが念仏であり、弥陀の化身であると思われた。そして、上人は「往生の業は念仏を本となす」と言われた。

2.善導大師においては

 善導は偏依釈尊一師である。弥陀の本願を説く釈尊に依るのである。仏教とは釈迦教・禰陀教の二尊教である。釈迦教は定散二善(自力)を説く。弥陀教ヘの序論である。弥陀教は本願の教え(他力)、念仏一つのおしえである。浄土真宗は弥陀教である。念仏一つで事足りる教えで、善導も法然も念仏一つを取って、他を捨てたのである。この念仏一つになることが浄土真宗を興すことになるのであります。

 

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三、観経九品の教え

上品・・大乗菩薩道に立ち、自利利他の人
中品・・自利の行を励み、生活を正す。親に孝行、愛情を持って人に接す。
下品・・念仏申せと、よき師、よき友が説かれている。

 善導、法然は下品に立たれて、一生造悪と目覚めて、念仏申せと言われたのである。自己ヘの深い目覚めを廻心と言う。廻心がなければ念仏一つにならないのである。清沢満之先生は「この現前の境遇に落在せるもの」と言われている。

 

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四、廻心は何によってで出来るか

 まず教えを聞くことである。教は鏡なりという言葉があるように、教えの鏡に照らされて、私が何であるかがわかることが大事なことである。よいことは何もできない、念仏しかできない私でありますとなることである。自己自身に目覚めて、念仏申す人となることによって、私たちも又、浄土真宗を興すことが出来るのである。

「涅槃経」に言はく、迦葉、世に三人有り。その病治し難し。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三には一闡提なり。是の如きの三病、世の中に極重なり。悉く声聞、縁覚、菩薩のよく治する所に非ず。

 下品とは難治の三病、難化の三機である。

三病とは、
 1.誘法・・・如来無視
 2.五逆・・・恩知らず
 3.一闡提・・断善根

 この三病は絶対に治らない。この三人は絶対に救われないと言うのが涅槃経である。しかし、親驚聖人はよい看護人(よき友)、よい医者(仏)、よい薬(念仏)、があれば救われると言われた。「仏の願力を以て、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ、謗法闡提、廻心すれば皆往く」と言われている。

 

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五、釈尊と善導と法然の関連

1.曽我量深師の説(歎異抄聴記)

○釈尊の説教とは大経の本願成就文

  諸有衆生・・罪深い私と目覚めて
  聞其名号・・善知識の説く名号のいわれを聞き開く。
  信心歓喜・・信心が届いて歓喜となる。

 もう一つは観経の下品下生の一生造悪の私

○善導の御釈とは

 二種深信(機の深信)、自覚の内容

○法然の仰せとは信心

2.細川先生の説

○釈尊の説教は曽我量深師と同じ

○善導の御釈とは「一心専念弥陀名号、是を正定業と名づく」である。

○法然の仰せとは「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすベし」である。

 曽我量深師の説は一貫して、信心を強調しておられるが、細川先生は念仏が一貫している。どちらも大事なことであるが、釈尊が本当に言いたかったのは、信心念仏ではなかったのではないか。

 信心念仏の人はどういう人か考えてみると。この人は一歩一歩成長していって、ご恩に報いる人、知恩報徳の人となるのである。織物にたとえると、縦糸は経、横糸は私の現実生活の中でお粗末な私、南無阿弥陀仏と目覚めていくことである。縦糸だけでは織物にならない。現実の私という横糸が織り込まれて立派な織物になる。ここに本願成就があるのである。

合掌

 

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感話 「御 礼」 

S. Akahide

 仏法がわかる為には大きな会座にでることと言うのが先生の教えですから、一年に一度は長い会座にでようと思います、が本心を言えば仕方なくです、会座は、朝から晩までびっしりスケジュールが組まれています。そして周りの人ともなじめず、窮屈です、楽しくない、修行をしている感じです。

 しかし、仏法を喜ばれている方達は、その中にとけ込んで、にこにこしながら「みんな兄弟じゃけんねえ」と云われます。

 一方、私の会座の中の態度は、大勢の中の一人、私一人何をしようと居眠りをしようと目立たないから気にもなりません。

 御法を盗み聞きしていたんだなあとおもいます。その証拠に一度もお礼状を書いたことがありませんでした。

 ところが不思議なことに、竹政先生が、春の聖会で、私に手紙を書きますと言われました。私は先生と直接名乗って語をしたこともないのにびっくりです。でも、先生から出すと言われたので、来る前に速く出さなきゃあと思い急いで出しました。

 返事に、「遠い所をようこそお帰り頂いて御礼をもうします。加えて長期ご不自由を忍んで送り出されたあなたの背後の方達にも厚く厚く御礼申し上げます句」とありました。驚きです。先生は私の家族なんて一面識もないわけで、仏法に生きておられる方はこういう風に御礼が申せるのだと感じました。この上は、私にせっかくお礼状を書かしめるきっかけを作ってもらったのですから、私の聞法の態度を変えて、先生と私、大勢の中の私でなく、私一人のための説教と思って会座にのぞみたいと思います。そして礼状が書けるくらい聞法したいと思います。