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9 闇の破られていく道
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 最後に「では、それを越えていく道は何なのか」ということをお話しして、結語としたいのであります。
 『歎異抄』第二章には、

おのおの十余箇国の境を越えて身命を顧みずして尋ね来(きた)らしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽の道を問ひ聞かんがためなり。
とありまして、関東からいらっしゃったお弟子さん方を、弟子に対するお言葉としてはびっくりするほどの丁重な、懇(ねんご)ろな、やわらかな、やさしいお言葉でお迎えになっていながら、その結びはたいへんな呵責です。
然(しか)るに「念仏より他(ほか)に往生の道をも存知し、また法文(ほうもん)等をも知りたるらん」とこころにくく思召(おぼしめ)して在(おわ)しましてはんべらんは、大きなる誤(あやまり)なり。もし然(しか)らば、南都(なんと)・北嶺(ほくれい)にもゆゆしき学生(がくしょう)達多く座(おわ)せられて候ふなれば、彼(か)の人々にも会ひたてまつりて往生の要(よう)よくよく聞かるべきなり。とあります。これは皮肉たっぷりの完膚(かんぷ)なき珂責です。
 なぜか。南都というのは奈良の都です。奈良の都には興福寺という、今でいえば国立大学があった。その興福寺の訴状によって、吉水の教団は危機に直面していったわけです。ですから、南都が法然教団を指弾したのです。北嶺というのは、法然上人や親鸞聖人が、ここには真実の宗教は生きていないということで去っていかれたところです。「南都・北嶺にもゆゆしき学生達多く座せられて候ふなれば」。「ゆゆしき」というのは「すぐれた」という意味です。すぐれた学者がたくさんいらっしやるから、そちらに尋ねてくださいと言われる。「出て行け」ですよ。「出て行け」と言われたらこたえるでしょう。師匠から、お育てを被ってきた僧伽(サンガ)から、「出て行け」と言われたらこたえます。しかし、聖人はそうおっしゃっている。
 そこで、親鸞聖人は何を伝えよう思われたか。聖人の二つの和讃をもってお心を頂戴したいと思います。一つは、  
 念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門(けもん)
 権実(ごんじつ)真仮(しんけ)をわかずして
 自然(じねん)の浄土をえぞしらぬ

 本願一実の大道に立つことこそ、この二種の心根(理性中心主義の心と、知性中心主義の心)の闇が破られていく道だということでございます。
 もう一つのご和讃は、  
 万行諸善の小路(しょうろ)より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃(ねはん)の
 さとりはすなはちひらくなり

 結語として申し上げたいことは、
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」とよきひとの仰(おおせ)を被(こうぶ)りて信ずるほかに別の子細なきなり。
 その心が「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門」という和讃です。わが子善鸞が言っているのは万行諸善の仮の門である。「本願一実」の一実というのは真実と同じことです。真実の門は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」、「念仏成仏これ真宗」、これ以外にない。「権仮」というのは、権も仮、仮も仮です。この権仮と真実の区別が了解できないで、どうして自然(じねん)に往生浄土せしめられるということがあろうか、と教えていらっしやるのです。
 そしてさらに、「万行諸善の小路より 本願一実の大道に 帰入しぬれば涅槃のさとりはすなはちひらくなり」。理性も知性も、万行諸善なんです。これは必ずゆきづまる小さな小さな道なのだ。必ずゆきづまる。小路というところが、きわめて悲劇的ですね。一方は心の病。一方は造悪無碍。それは人間としての破壊です。
 「万行諸善の小路より」つまりその小路を小路として気づき目覚めせしめられることにより、「本願一実の大道に 帰入しぬれば」たった一つの真実の大道に立つということによって、「涅槃の さとりはすなはちひらくなり」浄土真実の救いの道が開かれる。大海原をむなしく流れていた椰子(やし)の実に、かならず依るべき大地が与えられる。そういう因に立たしめられる。こういう教えです。
 才市さんや清九即さんは、学校教育を受けていらっしゃらない。鈴木大拙先生は、まったく教育を受けていないそういう人の中から世界第一級の哲人を産みつづけてきたのは、浄土教の最たる特長だとおっしゃっています。
 禅では、優秀な器量をもった若者を見つけて、それを十年二十年と鍛(きた)えあげないと悟りの境涯には至れない。それが、あの清九即さんや才市さんのような一文不知の人にそなわっている。
 これを身読(みどく)といいます。そう言ったのは、廣瀬杲(たかし)先生です。この方が身読、わが身をもって読んだのだとおっしゃった。大聖釈尊の経教、そして七高僧の論を、親鸞は身をもって読まれた。身をもって読むことによって、真実の教行が清九郎さんや才市さんの身に花開いた。
 先のご和讃を身をもって読まなかったらどうなるか。「万行諸善、理性も知性も自力だからだめだ、やはり本願他力の大道でなくてはいかん」と言うだけでは、これは学問です。身をもって読むということは、理性・知性を性(さが)として万行諸善の小路に迷った凡夫低下の私という身をもって読むということ。その私が、小路より転回せしめられて、値遇(もうあ)いがたき本願一実の大道に遇(あ)うことをえた。この真実の教行に、いよいよ身を報じていきたいと願う。これが身読ということです。
 これを結論として申したいと思います。身読によって、一文不知(いちもんふち)の尼入道(あまにゅうどう)が史上の聖賢に列せられる道が開かれてくる。それが本願一実の大道であります。

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