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8 歎異の精神
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 しつけというのは社会性の訓練です。今の少年事件の背景には、しつけの文化が失われているということがあると思わざるをえない。それは知性中心主義のもたらすところです。知性中心主義にはこういう問題があるということを思わざるをえないのであります。
 この知性中心主義の行き着くところは、造悪無碍(ぞうあくむげ)です。造悪無碍の風儀。すなわち『歎異抄』第二章にあるように、関東の親鸞聖人のお弟子方が「おのおの十余箇国の境を越えて身命を顧(かえり)みずして尋ね来(きた)らしめたまふ」その背景の一つには、造悪無碍の風儀を起こした関東の弟子たちが、時の幕府の代官によって逮捕されるような事件が起こったということがある。
 これは知性中心主義から出てきた異義であって、了祥師はこれを「誓願派(せいがんは)の異義」と言っています。「誓名別計(しょうみょうべっけい)の異義」とも言っていますが、藤秀璻先生や細川巌先生はこれを「観念派の異義」と言っている。観念派の異義を、今日ふうに言えば、知性中心主義です。この観念派の異義の行き着くところは、造悪無碍である。
 賢善派の異義の行き着くところは、先ほど申しましたように親鸞聖人の息子善鸞の逢着していったところ、祈祷です。これは気が狂うか祈祷に走るかどちらかでしょう。近ごろでは覚醒剤汚染ということもある。なぜかというと、理想主義は挫折感から生まれる現実卑下、自己卑下を伴(ともな)うからです。そして、それから逃避する。
 観念派の異義の逢着したところは、造悪無碍である。今、日本国中には、造悪無碍の風儀がはびこっています。その時代のただなかに私どもは生きていることを思うときに、この『歎異抄』の教える永遠のテーマを思わないではいられません。
 私は今の時代は、観念派の異義の逢着するところに生きながら、賢善派の意義の悲劇のただなかにあると思う。大学がそうですね。大学というのは、知性中心主義ではなくて、むしろ賢善派です。知性的にはかるがるとこなす連中がそろっています。びっくりするような能力のある人がたくさんいる。
 だから、大学の先生というのは知性派だと思うでしょう。でも、大学の先生というのは賢善派なんです。理想主義なんです。そうして行き着くところが、現実卑下、自己卑下。その揚げ句に自己崩壊をおこしてゆく。
 大学生もそうですよ。大学に入るまで失敗したことがない子がいる。大学に入ってからはじめて劣等生だと思う。これはショックなんですね。そこで、現実卑下、自己卑下に落ちて、うつ病になる。
 私は、こういう時代とともにある悲劇を見るにつけて、私自身がどちらにころんでもおかしくない、本当に底下の凡夫だということを、いよいよ深く知らしめられるのであります。

念仏者は無碍(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神(てんじん)地祇(ちぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界(まかい)外道(げどう)も障碍(しょうげ)することなし、云々。(『歎異抄』第七章)
 底下の凡夫であると知らしめられたがゆえにこそ、すこやかな信心の行者として『歎異抄』を頂戴しつづけていられるのだと、かろうじてそのことが思われるのであります。
 したがって『歎異抄』の異義の問題は、心根(こころね)の問題でおさえるならば、慈信房善鸞の問題というふうには片づけられない。そこのところを曾我量深先生は、
真宗再興の精神、これは歎異(たんに)の精神である。信心異なることを歎(なげ)く精神、だれが異なるか、自分が異なっている。編者の唯円(ゆいえん)も異なりは自分にあると痛感していたとわたしは思う。(『歎異抄聴記』東本願寺)
と言いきられる。そこなんですね。さらに曾我量深先生のおっしゃるには、
この歎異の精神こそ、現代に浄土真宗を、浄土真実の教行を、再興する精神である。もし現代の宗門の方々が、この歎異の精神に立ち返ってくださるならば、真実宗教はふたたび興起するであろう。
と、曾我量深先生は言いきっていらっしゃるのです。真宗再興とは宗門の問題ですね。そのことを成就するには個々人が歎異の精神に立つことだと。鮮(あざ)やかな転回ですね真また住岡夜晃(やこう)先生は、こうおっしゃっています。
家も村も国家も、はたまた人類も、その真の繁栄は本願一実の大道の樹立にあり。
ここに、『歎異抄』に伝えられるご晩年の親鸞の、私どもを正しく導いてくださっているお心の深さを思わざるをえないのであります。

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