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7 本当のしつけとは
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 家庭教育が学校教育の延長になり、メリトクラシーが蔓延した結果、家庭と地域社会におけるしつけの欠落が起こった。その背景には「よけいなことは言うまい」という雰囲気がある。「よけいなことは言うまい」という言葉を使ってみて、はたと思い当たるのは、自分もそうだということです。じつは私も、仏教青年会の学生にも、自分の研究室の学生にもそうなんですが、昔ほど叱らなくなった。ほとんど叱らない。叱りたいときにはどう言うかというと、「老婆心ながら」と。もっとひどい場合は「よけいなおせっかいと思うだろうが」です。

 近年、たび重なる青少年の事件報道に、絶句するほどの衝撃を受け続けることであります。なかでも隣人の初老の婦人を殺害した十七歳の少年の「殺してみたかったから……」という供述には、日本中が心胆(しんたん)寒からしめられたことです。本心かどうかはともかく、ニヒリズムの極みが感じられる言葉です。
 どうして、ここまで追いつめられたのか。祖父も父親も教師です。一歳の時に母親と離別したこと以外は、非の打ち所のない育ち方をしていると聞きます。母親代わりとなってこの子を育てた祖母が、締め切った玄関のガラス戸の向こうから、記者に「一生懸命育ててきたのですが、こうなって見ますと何かが足らなかったのでございましょう」と言って絶句なさった。傷ましいかぎりです。面接したカウンセラーは、しっかりした面と稚拙(ちせつ)な面のアンバランス、自己中心性と抑圧感が認められると報告していました。いずれにせよ、理由のない孤独と、誰にもぶつけようのない憤(いきどお)りが潜在していたことに相違ないでしょう。
 最近も、お別れをしなければいけない若者がいたもので、別れるに当たって、昼飯を馳走(ちそう)しながら言った。「よけいなおせっかいだと思うだろうが、やっぱり君のために一言(ひとこと)言いたいことがある」と。こういう言い方しかできなくなったんですね。われわれのころはガツンとやられても「よけいなおせっかい」とは思わなかった。ガツンと言われるとくやし涙にくれるけれども、ますますその先生が好きになったものです。くやし涙が感謝の気持ちに変わっていったものです。
 今はそれはできないでしょう。私も時代の落とし子なんです。今の時代の雰囲気では、とてもできない。今の時代の雰囲気はどうかというと、三無主義です。三無主義というのは、無関心、無気力、無感動です。人のことには無関心。はたらきかける気力がない。そして人と人との出遇(であ)いの感動がなくなった。
 こちらとしてはかけがえのない出遇いだと思って、十年つきあったけれども、向こうは利用しただけ、ということがある。こちらだけが感動していた。さびしい時代ですね。老骨にこたえる。
 昔は、年配者は「恩知らず」という言葉をわれわれに投げかけたものです。「君は恩知らずじゃないか。親の恩を知っているか」と言われたら、われわれは震(ふる)え上がったものですよ。「親の恩を知っているか」と言われたら、「師の恩を知っているか」と言われたに等しい。
 今はそんなことは絶対に言えない。なぜ言えないと思いますか。言ってごらんなさい、「恩を感じるほど、徳がない」と言われますよ(笑)。「学校の先生には恩を感じない」という方向に話を切り返されます。どう切り返されるか読めるから、絶対言わない。「自分の徳を自分で主張するのか」と切り返されるのがわかるから。
 そうするとどうなるかというと、お互いに無関心、無気力、無感動になる。こちらは気力いっぱい、関心いっぱいで、感動的な出遇いだと思っていても、向こうがぜんぜん思わないということになると、手も足も出ない。やっぱり結論としてはいつの間にか相手と同じ座にいる。そうすると、いのちの輝きが決定的に失われてしまう。
 いかに明るく振る舞うか、いかに意気ようようと振る舞うか。これは、表面的な明るさであって、本当の底力としてのいのちの輝きではありません。人生の苦難に出会ったら、この違いがはっきりと出てまいります。決定的な違いです。復元力の差です。真実の教えというものは、人生の苦難に出会ったとき復元力となる。だから「老婆心ながら」とか、また「よけいなお世話だと君は思うだろうけれども」と言いつつ、言わねばならんご縁というものがある。これが、現代の特徴の一つとしての知性中心主義からくる問題であります。

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