6 衝撃的な少年事件

 では、知性中心主義は、時代状況ということではどういう形で出るかといいますと、学校教育が中心になり、家庭教育がおろそかになる。「勉強をしなさい」としか言わないということは、家庭教育が見失われていると言わねばなりません。
 近年、たび重なる青少年の事件報道に、絶句するほどの衝撃を受け続けることであります。なかでも隣人の初老の婦人を殺害した十七歳の少年の「殺してみたかったから……」という供述には、日本中が心胆(しんたん)寒からしめられたことです。本心かどうかはともかく、ニヒリズムの極みが感じられる言葉です。
 どうして、ここまで追いつめられたのか。祖父も父親も教師です。一歳の時に母親と離別したこと以外は、非の打ち所のない育ち方をしていると聞きます。母親代わりとなってこの子を育てた祖母が、締め切った玄関のガラス戸の向こうから、記者に「一生懸命育ててきたのですが、こうなって見ますと何かが足らなかったのでございましょう」と言って絶句なさった。傷ましいかぎりです。面接したカウンセラーは、しっかりした面と稚拙(ちせつ)な面のアンバランス、自己中心性と抑圧感が認められると報告していました。いずれにせよ、理由のない孤独と、誰にもぶつけようのない憤(いきどお)りが潜在していたことに相違ないでしょう。
 バス・ジャック事件を起こした少年のほうは、両親に恵まれ、近ごろふうに何不自由なく育った生い立ちの様子。進学が望みどおりに行かなかったことが引き金になり、引きこもりと家庭内暴力を来した挙句の事件と報じられています。
 しかし、私がもっと深刻に受け取ったのは、名古屋の事件です。名古屋で中学生が一人の子どもを恐喝(きょうかつ)して、五千万円も巻き上げて、遊興に使っていた。それもショックだったけれども、一番私が衝撃を受けたのは、その子どもたちの学校の校長が「自分たちにはこういう問題について管理責任はない」と言ったことです。そうならば学校にはどういう管理責任があるのか。大学受験だけですか。高校受験だけですか。
 子どもが人間として正しく生きるように、人間形成を遂げさせていくということこそ、学校教育の中心です。これは、人間形成に関わる問題です。弱い者、交通事故で父親を失った家庭の子どもを恐喝するなんてことを、人間形成の途上の子どもがやったということになると、それが学校で行われたのですから、学校の管理責任がきびしく問われなければならない。それに対して、学校側は「これについての管理責任はない」と言ったという。これはもう知性中心主義の典型的な現れです。教育者がそう言ったということは、きわめて深刻な問題です。
 もう一つショックだったのは、名古屋は広島と並んで浄土真宗のご法義所(ほうぎどころ)なのです。広島はお西(本願寺派)のご法義所、名古屋はお東(大谷派)のご法義所で、名古屋の歴史のほうが広島の歴史よりも古い。広島がご法義所になりましたのは、織田信長と毛利の戦(いくさ)のせいです。だから石山合戦のころから、広島はご法義所になった。名古屋はもっと前で、蓮如上人のころですから、五百年前です。名古屋は、親鸞聖人が関東から帰られるときに逗留(とうりゅう)なさった地として、蓮如上人が大事に布教なさった。ですから名古屋というのはたいへんなご法義所です。
 きんさん、ぎんさんはお念仏を申されます。ご存じでしたか。きんさん、ぎんさんはずっとお念仏を申してこられた。きんさんが百七歳で亡くなられたときのお葬式の様子がテレビで報道されていましたけれども、ぎんさんがきんさんの遺体に向かってお念仏を申されていたでしょう。あれは名古屋がご法義所であることを示しています。
 その名古屋でこうした事件が起こった。日本のかけがえのない深い精神文化が、崩壊の危機に瀕(ひん)しているということを露呈した事件ですね。中学生の子どもがやったというだけではなくて、その事件に際して学校関係者が言った言葉がきわめて深刻でした。ただ、救われるのは、恐喝をやった子どもたちの親の中には、事態を深刻に受け止めて、「うちの子がこんなことをしでかした。一生涯をかけて償(つぎな)わせたい」と言っておられる親がおられたということです。これには本当に救われました。
 考えてみると、妙好人の浅原才市(さいち)さんも大和の清九郎さんも非行少年だったんです。あの方々は育った家庭の悲劇によって非行に走られた。けれども、廓然(かくねん)として大悟(たいご)していかれた。真実の宗教に立っていかれた。そして世界第一級の哲人として讃(たた)えられるほどの信心の人になっていかれた。
 ただし、清九郎さんも才市さんも恐喝はやっていらっしやらない。あの中学生と同じように遊興はやっていたけれども、こういう生活をしていて申しわけないということで、廓然として聴聞の生活に変わっていかれた。そして藤秀璻(しゅうすい)先生や鈴木大拙先生をして、世界第一級の哲人と讃えられるほどの人に転回していかれたわけです。
 ご法義所というのは、そういう力があるんですね。私が深刻な衝撃を受けたのは、学校の管理者の言葉からであって、あの子どもたちには立ち直っていく未来がありましょう。
 家庭も学校も知育偏重になり、家庭教育が学校教育の延長になっている。学校教育の価値観に取り込まれて、家庭でしつけができなくなっている。そして学校教育は、企業社会の知的人材供給の場となり、人間形成の視点を見失い、社会のメリトクラシーに取り込まれている。メリトクラシーとは、何でもかんでもメリットとデメリットで割り切ってしまう社会に名づけられた言葉です。
 何でもそうですね。親が子どもに「くだらないことをやる暇(ひま)があったら、机に向かいなさい」と言う。これは完壁に社会のメリトクラシーに組み込まれた言葉ですよ。子どもは、無駄と失敗で育つんですからね。最近は、「自家中毒」という言葉が聞かれなくなりました。私の子どもの頃は、よく自家中毒をやったものです。なぜかといえば悪さばかりしていたからです。

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